sekiwataruの日記

Ph.D(filosofia)のソリロキア

【論考】若きマルクスと「存在論的証明」批判ー予備的考察ーアンセルムスの場合・第4回

※第4回です。

 前回、対話的な思想ではないものを対話により表現することは単に著者の薄っぺらでちゃちな妄想の押し付けになってしまう危険を孕むと言いましたが、問題は薄っぺらでちゃちな著作がなぜ業界から寵愛を受けるのか、ということです。その薄っぺらさとちゃちさがそもそもどこから来るかと言えば、社会的通念を何も考えずに肯定するだけのただのコピー機にすぎないことに起因しています。世界にどれ程の苦悩や悲劇があろうとも、それを単に物の見方の問題にすり替えることで現実そのものに触れることなく御自分の妄想の世界に安住する、言い換えれば、何とも苦闘することなく何にも反抗することなく悪を許して世界を受け入れることです。それは、何も考えていないことと同じです。思想とは当たり前ですが考えることです。その考えることを放棄したのが薄っぺらな妄想の内実です。しかし、だからこそ、業界的な受けはいいのです。つまり、どんなに安月給で悪条件であろうとその原理は善なのだからそれを受け入れましょう、こんなふうに支配者にとっては好都合な言説になるのです。学者先生というのは、そういう時だけ妙に賢くなるので、そうした受けの良さをちゃんと意識して物を語ります。そんな意図的な支配体制の構造への従属の言説を、支配側が嫌うわけがありません。こうして薄っぺらい言説と支配構造との蜜月関係が出来上がって、それが大々的に流布されることになります。
 だから、私たちはまさに肯定を批判しなければならないのです。その言説が本当は何を意味して何処に向かうのか、これを見ていかなければならないのです。確かに、薄っぺらでちゃちな妄想にどっぷり浸かって自分の知性も薄っぺらでちゃちなものにしてしまえば楽です。しかし、それは知性にーカント的な言い回しを借りればー「阿片」を与えてるにすぎません。それでもいい寧ろそれこそが正しい、そう考える御仁に対してそうじゃないぞという余計なお節介をするつもりはありませんので、どうぞバッドナッツ中毒のままでいて下さいとしか言い様がありません。ただ、一つ指摘しうるのは、世界が善だの何だのと説いていると持ち上げられているその思想家は、世界は善である、そのはずなのに苦痛や不義などの悪が世界にこびりついている、だからどうにかしてその悪を剥ぎ落として世界に善を取り戻そう、そもそもはそうした視野であることをお忘れなく。にこにこ笑って平然と悪を見過ごしていられるような思想なんてものは思想ではありません。ただの妄想です。歯を食い縛りながら世界の悪が消えないままであっても一つずつ花を植えて変えて行こうとする、思想とはそういうものなのです。
 一見関係のない枕で恐縮ですが、以下はアンセルムスの言説の続きです。 

  そして、彼が知解するところのものは彼の知性の中に在るのである、もし彼がそれが在ることを知解しないとしても。("Proslogion", II.)

 だんだんと表現がくどくなってきてますが、思想家がもってまわった言い方をしはじめたときこそ私たちは懐疑的にならなければなりません、カントの「定言命法」しかり。まず、「それが在ることを知解しないとしても」この言い方が引っ掛かります。目に見える世界の中で「より大きいものを考えることができることのない何か」と言われて思いつくのがクジラですが、私はリアルでクジラを見たことはありません。従って、クジラが本当に存在するのかを体験から語ることはできません。その意味で、クジラが存在することを知解しないーこの用語もいまいち分かりにくいですがーとしてもその概念は持っています。もし、アンセルムスの議論がこれと類比してるなら、その物言いは明らかに「より大きいものをなんちゃら」が示す所のものが予め存在することを前提にしています。従って、本来的な意味での証明ではないのです。あくまでも頭の中での対話的な模索の作業です。知人によれば、イタリアの研究者にアンセルムスの神の存在証明を禅の「公案」だと論じた方がいるそうですが、まさにそうした内的な問いかけなのです。
 それを踏まえた上でアンセルムスの模索に沿って考えるならば、完全に概念的なものとして円周率があります。円周率は無限に数が続いていくので、その数列の中には私の誕生日の数字と同じ配列があることになると言われます。しかし、それは実際に見たわけではなく、単にありそうなことの次元です。まぁそういうこともありうるよね、という程度のことであり、それが現実にあるかどうかを確証しているかは別な話です。
 ありそうなことの次元でいいなら、宇宙人が地球にいることもありそうなことではあります。でも、普通はー『Xファイル』のモルダウは別ですがーそうは考えません。それは、知的生命体が外宇宙からやって来ることは無理なこと等々を知っていて、宇宙人がいることに確からしさがないことを理解しているからです。従って、問題は確からしさの次元です。
 この確からしさの点で言えば、円周率に誕生日と同じ数字の配列があるのは確からしいと考えます。それは、円周率という語の定義の中に数字が無限に続いていくというものが入っているので、無限に続くならそういうことがある確からしさを考えることはできます。とはいえ、それは現実には検証できていないわけで、確からしさの根拠は語の定義の中にだけあるのです。つまり、そういうものとして在るという事柄が前提されているために確からしいと考えているのです。宇宙人の存在を信じるモルダウも、宇宙人は地球の文明を遥かに超えた超文明を持っていると定義づけてそういうものとして在ると見なすから、宇宙人が地球で何かしてると思ってしまうわけです。つまり、確からしく感じてしまうのは、そういうものとして在ると前提することに因ります。その意味で、前提を否定してしまえば、そんなものは存在しないと一蹴することができるのです。
 アンセルムスの話も似たようなもので、「より大きいものをなんちゃら」なんぞというものは存在しないよと否定してしまえば終わりです。本来ならアンセルムスがやらなければならないことは「より大きいものをなんちゃら」が何が何でも存在しなければならないということを解き明かすことです。ですが、そんなことはできっこないのです。「より大きいものを考える」のが人間です。人間は自ら対象を常に作り出して考えています。技術革新やら芸術創作などの御大層な話でなくても普通に日常を生き抜いていれば、絶えず絶えず自分の限界と格闘してその限界を克服しています。人間は考え続けているのです。考えを固定してしまえば、それはもう次の段階においては小さくなってしまいます。「より大きいものをなんちゃら」を考えた時点で、それは考えを固定化してしまっています。だから、もっと大きいものを考えるように向かうことができます。従って、人間の有限的な思惟の中で考えられただけの言わばちっぽけなものが「より大きいものを考えることができることのない」の内実なのです。
 この【考察】では、マルクスの宗教批判と問題意識を共有しながら、すなわち、神を語ることは人間が世界を作り上げるための秩序を構想する構造の反映であって、神の存在証明はそうした人間の秩序形成、を論じる論じ方の写し鏡になっている、だから、神の存在証明を批判的に乗り越えることによって人間を縛りつける秩序の構造を脱却していくための手がかりを考えています。その視点から言えることは、単に頭の中で考えた語の定義を現実の人間の問題に適用する、まさにそのことが近代における人間を物として扱う仕方の構造である、ということです。
 神の存在証明として語られる議論では、元来は個人の主体性から考案された概念を主体的側面を切り落として文字面だけに関心を集中させます。つまり、「より大きいものを考えることができることのない何か」というまさにアンセルムスという個人の主体性から発言された語を、そうした側面を無視して、単なる神学的問答の文句にしてしまっています。これは、事態を主観と客観に分断して客観を取り上げる、そうしたことができるという観念的前提に因ります。さらに悪いことに、そうした観念的前提によって思想を切り取る側の人間が凡庸だと思想はただの屁理屈に成り下がります。思想家の意図を汲まずに壊れた拡声器よろしく世界は善であるなんぞと妄想を垂れ流す大学教授様もおいでですが、宗教的幻想にどっぷり漬かった側の方だけでなく、自称マルクシストの方でも五十歩百歩です。
 随分と前に読んでいて椅子から転げ落ちそうになったブログ記事がありまして、人間には自殺する権利はない、なぜなら権利は人間の生存に関わるからだ、と宣っておいででした。まぁ随分と薄っぺらな権利概念をお持ちだなぁとは思いますがそこはそれとしても、その方の概念を適用するならば、権利は自殺に関わらないという概念内部のことしか語っておらず、自殺する権利とは「甘い円周率」と同じでカテゴリーミステイクを犯している、ということしか言えていません。一方で、人間が権利を持つか否かは現実の人間の活動を見抜くことからしか論じることはできません。つまり、頭の中で概念をこねくりまわすことと実際の人間に関する事柄とは位相が異なる、それにも関わらず頭の中で考えた概念が現実の人間を領導すると思い込む観念的倒錯がそこにあるのです。
 上記のような薄っぺらな概念規定では現実の人間から苦痛を取り除くことはーいくら理論がなければ実践はなしえないと嘯こうともその理論が机上の空論である限りーできません。そして、これがまさに神の存在証明の根本的問題、人間の頭の中だけで考えられた語の規定が現実の「神」に妥当するのかという問題と関わります。頭の中だけで考えた概念が人間の在り方を規定する、この問題がそこに横たわっているのです。
 しかし、単に「神」の存在を否定すれば全てが解決するかというと、そうでもありません。問題は神を消した所で依然として残存する人間の苦痛、それをどう取り除くかということです。上記の浅薄な自称マルクシスト様の例を使わせて頂くと、権利は生存に関わるとして、では何故それが人間に属することになるのかという問題は詳論することのできないまま、結局は人間とは理性的な動物であってだからして云々という中世暗黒時代の自然法論のような、それ自体検証不可能な信仰箇条を反復することになるわけです。とすると、そんな軽薄な権利概念を否定してしまえば自殺する権利云々という妄言も同時に否定されるわけです。しかし、それによって人間が自殺する権利を持つということではありません。そもそもこの下らない議論は問いの形式それ自体が根本から間違っている、その意味で根元から腐った戯言なのです。自殺は善いか悪いかを形而上学的に問う事態ではありません。「自殺は悲しい」「人間はね、寿命を全うするべきだよ」とは『刑事コロンボ』の台詞ですが、自殺とは人間の死を迎える在り方として相応しくありません。しかも、大抵の自殺は強いられてーいじめや貧困や病気その他様々な苦痛ー命を断つことにならざるをえなかったのです。だとしたら、問いは如何にして自殺を止めるかです。自殺という人間の苦痛を減らす、それは一般的命題により解決するのではなく、個別の苦痛を一つずつ消し去ることによってのみ可能となります。そして、その個別の苦痛を取り除くことが課題なのですー個別の苦痛を解決するための共通の土台は確かにあります、それはまずお金です。お金があれば、例えばいじめの環境から抜け出して別の生活をすることもでき、あるいは病気の治療をすることもできます。お金がないから死を強いられるのです。逆に言えば、お金が一部の富裕層に集中している事態は人間の苦痛を増幅させる危険があるのです。従って、お金を必要な所に必要に応じて再配分できる仕組み作りが苦痛の除去のための共通基盤ですー。それをするための努力を何もせずに自殺する権利云々なんぞを問う輩の神経を疑います。それが「科学」だと宣われるのなら、そんな科学はドブにでも捨ててしまえば宜しい。まぁ、そんな下賎な知性しかお持ちでないから、その頭の中の教条的マルクス主義はただの妄想でしかないのですよ、残念ですね。話が脇道にそれましたが、現実の人間の苦痛を抽象的な次元で語ることが如何に愚劣かということはお分かり頂けたかと思います。
 同時代的視点で言えば、様々な個別的な人間の苦痛を人権や平和という抽象的な次元から処理する言説が昨今あります。しかし、そこで語られる人権等は単に頭の中だけで考えられた抽象的な屁理屈にすぎません。その語が生み出されて来た過程つまり名も無き人々の命をかけた闘いの歴史は棚上げされて、教科書的な問答に成り下がります。だから、そうした言説に反対者から疑問を呈されても返答としては憲法に書いてあるからだ位しか言えないのです。そうなると、反対者は憲法を変えればいいーつまり神の概念を否定すればいいーということになり、問題は抽象的な政治談義にされてしまいます。しかし、これは現実に在る様々な個別的な人間の苦痛を取り除くことにはなりえません。どちらの側も御自分たちが当事者でないから、苦痛は他人事に過ぎないのです。問いの形式がどちらの側も間違っているのです。問いが向かうべき先は、人間の現実的な苦痛の除去の仕方です。まぁ言論の自由がありますのでお好みならいくらでも抽象的な政治談義をなさって結構ですが、それは御自分たちの自己満足に過ぎないのです。あくまでも、問題は個別の人間において生じているのです。
 この認識こそが外部に絶対的で曖昧な価値規範を設定して、自分を内的に分裂させて対象化する営みに抗うための出発点です。この抗いは、単に独り善がりの問題意識で終わらないのです。それは、問いの形式が根底から変わることを含むからです。対象化を拒絶する思想とは、対象を単に思惟する営みではなく、個別的な苦痛を個別的な仕方で現実に取り除く営みへの移行なのです。個別的な仕方だからこそ、主体の主体性を取り戻すきっかけとなります。そして、その個別性の中に他の全ての人間の苦しみの除去と自分の苦しみの解決とが同時に遂行されていくことになります。
 まだ以降続きます。

【論考】若きマルクスと「存在論的証明」批判ー予備的考察ーアンセルムスの場合・第3回

※第3回です。集中的に論じているので、マルクス本人は今回も登場しませんけれど。

 ここでは、アンセルムスの言葉自体がどんな意味なのかではなく、アンセルムスの言葉がどういう意味をなすのか、どんな拡がりを持ち、それは私たちにどんな問いを投げかけるのかという視点で考えています。なので、アンセルムスの語を思弁的に考察することには手を抜いてましたが、前回のアンセルムスの言葉で気になる「自然本性natura」について少し。
 これを「自然本性」と訳していいかどうか、迷いは拭えません。前回での引用から分かるように、アンセルムスは自然本性の内容を「より大きいものを考えることができることのない何か」としています。そして、そうした「自然」に「在る」が関連づけられています。ということは、抽象的概念ではなく、実際に事実として存在するものであるとアンセルムスが語っているのです。従って、自然本性とは頭の中だけで考えられるものではなく、現実に現れる事態であることになります。すなわち、そうした自然本性が、人間の理解に示されているということがアンセルムスの議論です。
 何でこんなどうでもよさげな話をしたかというと、私たちが「自然」という語を用いるとき、それは何を意味しているのかを省察するきっかけとして良い事例だと思ったためです。マルクスも「社会は人間と自然の本質統一である」ということを言ってましたが、西欧思想史においてその開闢以来、「自然」とは本来的かつ根本的な問いとしてマルクス以前から継承されてきたものです。一応言っておけばこの「自然」とは「豊かな緑の中での生活」とかいう何ちゃらハウスの宣伝文句のようなものではありません。だいたい、現代で通俗的に言われる「自然」とは庭園やら枯山水やらの人為的かつ人工的に整備された景観であり、いわば「見ること」に属するものです。それに対して、西欧思想史で言われる「自然」とは、まさに存在者がその「在ること」全体つまり存在の根拠となる基盤であり、それは人間に対して現れて示されるものであり、人間の人為的かつ人工的な作為では到達できない位相のことを語っています。従って、私たちが抱く通念としての「自然」と、思想家たちが格闘した「自然」とはまるで違うものだということをまず理解して、その思想家たちの時代を精査しつつ彼らの理解する内実から考えていかなければなりません。
 たまに、アッシジのフランチェスコを現代的エコロジーの旗手と見なす向きもありますが、それをやってしまうとフランチェスコを私たちの理解内容に押し込むことになり、彼の言葉が持つそれ自体としての拡がりを埋没させることになります。スピノザしかり、マルクスしかり、彼らの言う「自然」とは私たちの考えている通俗的「自然」概念とは根本的に異なる、この視座の元に立って議論しないのであれば、それは現代の著者の勝手な思い込みにすぎないのです。
 相変わらず枕が長くなりましたが、アンセルムスの議論に目を向けます。

  しかし、この同じ知らぬ者が、私が「より大きいものを何ものも考えることのできることがない何か」と言うことこれを聞く時、彼は聞くことを知解する。("Proslogion", II.)

 しかし、これは嘘です。アンセルムスの神の規定は何を重点においたものなのかが曖昧すぎます。「より大きい」とは何でしょうか。お台場にあるユニコーンガンダムみたいな物理的な大きさ?それとも見せかけの高貴なこととか偉大なこと?あるいは態度が傲慢で尊大だとか?ああ、そういえば自称中世哲学者で何様な態度の方がおりました。確かに、あの方より尊大な方を考えることはできないですね。
 おそらくそういうことではないのでしょう。とはいえ、考えるための材料としてはもっと厳密な語の使用がアンセルムスにできたはずなのにしていないのも事実です。だから、何をどのように何に基づいて知解すればいいのかがよく分かりません。彼の考える「大きさ」を赤の他人であるこの私が知解できるはずもありません。知らぬ者には、まさに「知らぬ」ままなのです。
 語が曖昧であることは、歴史がその証左です。すなわち、アンセルムスの神証明を称賛するにせよ否定するにせよ、多岐多様な視点から論じられてきたという歴史、これがアンセルムスの神の規定は容易には知解しえない彼の個人的神体験の言表であることを如実に示しているのです。これについては、追々見ていきますので、さしあたって多くの解釈があることだけ指摘しておきます。
 この点、前の回で言及した知人の未刊論文において以下のように指摘されています。つまり、ここでの記述でアンセルムスは「知らぬ者」を三人称扱いしています。ともすると、「知らぬ者」とは有神論者が論駁する相手である無神論者のことであると読まれてしまいそうですが、ここはむしろ、神が存在しないかのように神から離れた自分の罪人的な在り方を「知らぬ者」として対象化した上での「対話的」、すなわちアウグスティヌス的な探求の道をアンセルムスが歩んでいることを表しているのだと知人は論じます。
 だとすると、初期プラトンの著作が持つ問題性と重なります。すなわち、初期プラトンの著作では、ソクラテスが対話相手に向かって、「君はXがYであることを認めるか」と語りかけます。しかし、問題はむしろそこにあるわけです。そのようにして語を定義することは、語が向かう事態を人間のロゴスつまり理性/言語により切り取って加工することです。人間のロゴスは全てを見通せるわけではないので、語を定義することから抜け落ちる現実というものが存在します。あるいは、語を定義することは事態を掬いきれないとも言えるでしょう。
 約言すれば、初期プラトンソクラテスが語を定義するその現場で人は「はい」と答えてはならないということです。むしろ、そうした語を定義する営みから脱却しなければならないのです。ソクラテスの場合、そうした語を定義することが結果的に何も言えていないことを示して終わります。プラトンの場合、初期から中期への移行、すなわち、人間の知識は完全なものをあっちの世界において見てきたこと、それを想起することにより形成されるが肉体によって閉じ込められた不完全なものになってしまうというプラトン哲学の展開へと移行されていきます。
 個人的には、そんなことに云々するよりも安心して食って寝る場所をどう確保するのか、確保するためには自分だけが安心できればいいわけではなくて誰一人としてその安心から零れ落ちてはいけないと考えて小さくても実践することが大事だと思っているので、どちらも趣味ではないのですが、まぁそれは今の問題ではないので。今は、アンセルムスは内的な対話的思考によって神の規定を表しているものの、その曖昧さによって『プロスロギオン』という著作が彼の個人的神体験の言表であることを強く見せていることになります。
 実際、この著作のこの部分は文学的構成としては失敗です。対話的に誘導しているものの、何も問題は解決していない、だからこそ後世に余計な議論を生んだのです。対話的に思想を言表するというのは、プラトンのように類い希なる文学的才能がなければ非常に難しいことなのです。だから、本来なら全く対話的でない思想家を対話方式で紹介しようとするのはそこいらの大学教授様なんぞにできるはずもなく、結果の所そうした文章は著者の教授様の薄っぺらでちゃちな信条の押し売りにすぎず、せいぜい自己啓発本擬きの内容しかないわけです。そんなものを有り難がるのは肩書きで判断する程度の御仁すなわち著者様と同じ程度の薄っぺらでちゃちな知性の持ち主だけということになるわけですーどの大学教授様の何についての著作のことかはあえて申しませんが、ここでもし御立腹される方がおられましたらそれはそういう薄っぺらな知性をお持ちでちゃちな思想がお好きという御自覚をおありだということで、そういう自覚がおありになること自体は大変結構なことです、まさに「無知の知」ですねー。
 さて、話がずれてしまいましたが、アンセルムスは文学的には失敗している設定を押し通します。しかし、ここで見えてくるのは、「知らぬ者」という神から離れた性質と、しかしやはり神を知解しようとすることを通して神へと向かう性質と、この二つの内的な分裂の構造です。この時、アンセルムス自身は神へと向かうことを希求しています。そして、「知らぬ者」たる性質を徹底的に対象化することによって何とか自分から切り離そうとしている葛藤を読み取ることができます。その際、対象化することにより価値的な序列づけをしているのです。「知らぬ者」を内的に反省しながら、しかしそれからの離脱をはかる、そこに人間が自分自身を二分法的に分裂させる過程が反映されています。これは自分の外部に在りもしない絶対的で抽象的で曖昧な価値規範を定置することにより成立しています。しかし、ここでその分裂を肯定してしまえば後は価値的な序列づけの構造へと滑り落ち、従って、主体の主体性は絶対的な価値規範の中へと埋没して抽象化されていきます。そうなれば、人間はもはや主体ではなく物件とされ、かけがえのなさは消え失せて数字で判断されるだけの物品とさせられていきます。そのようにして扱う/扱われることがさらに人間を価値づけて物件化することを増幅して、人間を切り捨てる事態へと凋落していくのです。
 だから、まさに先述したように、外部に絶対的で曖昧な価値規範を設定して、自分を内的に分裂させて対象化する営みに抗わなければならないのです。対象化に「はい」と言ってはならない、それを拒絶する思想を自らに課すことが、主体の主体性を取り戻すきっかけとなり、従って自他の分裂すら拒否して他の全ての人間の苦しみこそが自分の苦しみになるのだという問題意識になっていくのです。しかし、それは単に問題意識を持っているだけの独り善がりでしかないのではないか、そういう疑問もあるいは湧くでしょうが、この問題意識を持つことと実践との差を埋める作業は何によって出来るのか、それは以降に考える課題になります。
 とりあえず現段階では、神の存在証明を見ることで展望として開けてきたのは、人間を分裂させて問題を抽象的次元に解消することは背後に絶対的で曖昧な価値規範に依存した序列づけがあり、その序列づけを肯定する営みが人間を苦しみに閉じ込めることになるのだ、という事態です。
 今回もまだまだ真っ暗な洞窟の中を手探り状態で模索しています。どうにか光のある場所にたどり着けたらと思いつつ、さらに考えていきたいと思ってます。

【論考】若きマルクスと「存在論的証明」批判ー予備的考察ーアンセルムスの場合・第2回

※アンセルムスの第2回、続きです。

 前回、考察しようとは思っていたのですが資料がなくてそのままにしていた問いが残っています。それは、何故アンセルムスは神の規定として「より大きいものを考えることができることのない何か」という言表を選んだのか、という点です。前回には、アンセルムスの神の規定は単なる一般的命題ではありえず、むしろ彼の個人性と分かち難く結びついているということを指摘しておきました。これをもう少し進めると、上記の言表にも彼の個人性が影響していると考えられます。ヒントになるのは岩波文庫版の『プロスロギオン』に所収されている「聖アンセルムスの生涯」です。そこでは、アンセルムスはアオスタから見える雄大な山々を見、その頂に神がいると眺めながら思索していたとの記述がありますー本来なら、この記述の信憑性の裏づけのために資料を見つかるまで探索するのですが二次資料しか手に入らず、そこでも同様のことが書かれているのでさしあたって正しいものと仮定してます、手を抜きました、すいませんー。雄大な山々とは、カントの『美と崇高の概念についての考察』に崇高の例として挙げられてます。そして、前回引用したテリトゥリアヌスには神の言表として「崇高」、アウグスティヌスは「崇高」と「より大きい」という語が出てきます。つまり、雄大な山々=崇高さ・より大きいこと、このような連想がアンセルムスの神理解にあったのではと言うことができるでしょう。こうした傍証から推察するに、雄大な山々を見ることを通して神に思いをはせたアンセルムスにとっては、「より大きい」という語こそ彼の個人的な体験から導き出された言表であったのではないか、という仮設的結論が導き出せるように思います。この点については修練を積んでからもう一度扱いたいと考えていますので、とりあえず今回はここまで。
 話はずれますが、中世人の多くは自然を見ることで神を思っていたことは彼らの書いたものを読むと分かります。彼らにとっては、自然こそが神を思うための材料であり、言うなれば神学的思索の現場であったのです。だから、彼らは自然の草木を愛して自然の生き物を大切にしていました。例えば、アンセルムスさんは、狩人に追われて傷を負った兎を守って育てたなんていう逸話も残されています。それが事実か否かは分かりません。ただ、そうした自然の生き物に温かく接することが人間らしい在り方であり、人間にふさわしい振る舞いだと人々が思っていたからこそ、そうした逸話が語り継がれたのです。自然を守って育てる、それは、神のためというよりも、人間の存在を根底から支える現実がまさに自然の中にあったからです。食べること、寝ること、そうしたことは自然を離れては成立しえません。だからこそ、自然を侮辱するような領主の横暴に抗い、貧困や飢餓や災害で苦しむ人々のことを他人事ではなくまさに自分が自然と向き合うことの苦しみとして受け取り、それを取り除こうとしたのです。因みに、このアンセルムスさん、司教になってからは領主の土地支配と格闘した書簡を数多く残しています。この辺りを本気で研究して頂けると、後世の土地所有の問題についての経済学的分析に至る思想史的潮流が分かって有難いのですが、まぁ神様の方が人間より大切な方々には期待できないでしょうねーしかもその崇め奉っている神は人間が作り出した観念にすぎない程度の内容しかないものなのにー。何方かが「アンセルムスは修道院の中で瞑想していただけだ」と仰っていましたが、それは御自身が世で苦しむ人々の苦しみを自分の目の前に立ちはだかる問題以外の何物でもないと理解できない残念な知性の持ち主であるというだけで、そうした残念な知性をアンセルムスさんにも投影するのはご遠慮頂きたいものです。もし、本気で中世哲学を自分の問いにするならば、自分自身、自然、他者の苦しみ、神、こうしたものが一体となって生きる上での課題となることを中世に生きた哲学者たちと共有しうるはずです。が、抽象的な議論が現代の学者先生はお好きなようで、その様子を見るにつけ素人ながら悲しくもなります。まぁ、それは中世分野だけでなく、本来なら人間の苦しみを現実世界から一つずつでもいいから取り除こうと志向するはずのマルクシストの方々が政治談義やら何やらに没頭している御姿も同じようなものですが。
 のっけから、枕が長くなってしまいました。アンセルムスの文に話を移しましょう。以下、悪名高き論証の文言です。

  あるいは、「知らぬ者は心の中で言った:神はあらぬ」のだから、何らかのこうした自然本性があらぬのだろうか?("Proslogion", II)

 ここで気になるのが「知らぬ者」という語です。この詩編の引用部分、日本では伝統的に「愚か者」英語だと「the Fool」と訳されています。なので、読むと見下された感じがします。ドーキンスは、大ベストセラーで邦訳もされた『神は妄想である』で、神がいないと言う者を馬鹿者呼ばわりしていると憤慨していました。実際、神を信じないという人に対する差別意識アメリカに根強くあります。人々の血と汗と涙を踏みにじって財をなした大富豪が保守的なキリスト教信仰を持っているのは、自分を善人であると信用させて世論を取り込むという目論見もあるのでしょう。これは何も海の向こうの話だけではなく、何やかんやと近所の宗教施設が金と人力を無償で集めようとしてそれに無神論的に抗うと村八分になるという話はどこぞの美しい国にもあります。それ以外にも、宗教は人間の情操教育に役立つのでそれを否定するのは思いやりがない証拠だなんぞと嘯く連中もいます。まぁそういう思いやりだの優しさだのを唱える方々ほど、食べ物を満足に手に入れることができない子どもや親たち、一生懸命に働いても日銭を稼ぐことすらままならない若者たち、働くことどころか出歩くことすら辛くされた立場に追いやられている様々な年齢層の人たち、そういう現に苦しんでいる人々の痛み苦しみには目も向けなかったりしてます。そういうのを見るにつけ、宗教が情操教育に役立つという仮説は間違っていますよねと言いたくなります。
 詩編の当該箇所を読むと自分たちが神を信じているそのことだけで思い上がっている様が見えてきて、しかも、信じないことのみで人を見下すというその在り方に対して何の疑問も抱かないその神経に吐き気がします。何やら聞いた話によると、カトリック信者様に「この箇所を読んで愚か者だと言われために神を信じた」と宣った方がおられたそうで、自分がどう思われるかという評価しか頭にないのだなぁと可哀想になりましたが、それを聞いた周りが感心していたというオチまでついていて、なんと言いますか。イエスのように苦しむ誰かの苦しみを取り除こうとなさっている良心的なクリスチャンの方々に失礼なので、その御仁に与太話は止めてもらっていいですかと誰か伝えて頂けたら幸いです。それはともかく、この詩編無神論者や異教徒を罵倒するのに打ってつけの文言であると共に有神論者の傲慢心を擽るのにお誂えの表現なのだということは、今の例からもよく分かります。
 そこで、問題になるのはアンセルムスの意図がどこにあるのかです。まさに掃いて捨てるほどこの詩編引用についての論文があります。まぁ拙文には余り関係がないので列挙はしませんが、やはりこの詩編引用が気になるご様子で、皆様は何とかしてアンセルムスを上述したような嫌味な態度から分離しようなさっておいでですー因みに日本語では詩編引用を扱った論文を寡聞にして聞かないので、まさかとは思いますが中世研究者の皆様は神信仰こそが智者の証であって無神論は教養がない印だと思っておいでなのでしょうかー。その中で指摘されるのが、ラテン語詩編の用語の問題です。アンセルムスの引用ではinsipiensであり、別の版ではstultusとなっています。後者は端的に愚か者を示しますが、アンセルムスの言葉はin-sipiens、つまり「非ー知る者」なのです。どうにかアンセルムスを擁護したい研究者の中には、これは知らぬ者から知る者になりうる可能態にある状態を示すとしています。だから、アンセルムスは誰かを論駁しようとしていたのではないと言われるのですが、神の存在を知と結びつけ、それの否定を知の欠如としているという構造自体は変わらないわけで、そのエクスキューズではアンセルムスを擁護できないでしょう。
 なお、私が個人的にこの解釈なら何とかアンセルムスを救い得るかなと感じたのが知人の未刊論文です。御本人の許可をとったので概略だけ言えば、アンセルムスの第1章に着目した解釈となっています。アンセルムスは『プロスロギオン』を始めるにあたり、長い詩を書いています。その冒頭では、「さてと、ちっぽけな人間よ、お前のよしなしごとからしばし逃げよ…幾ばくか神にて安らげ。お前の精神の《部屋に籠り》…《戸を閉めて》神を求めよ」("Proslogion", I.)とあります。つまり、気持ちを休めよ、身体的にも精神的にも孤独になれ、自己を見つめよ、と言うのです。だとすれば、「知らぬ者」を外部から論敵として導入して論争を妄想するというのは矛盾するのではないか、それが知人の理論仮説です。まぁアンセルムスさんと言えども数行前に書いたことを忘れることもあるんじゃないのと最初は私も思っていましたが、しかし、アンセルムスは同じ『プロスロギオン』第1章で「私はなんと憐れな者か、神から遠ざかりしエヴァの子らの一人、何を始め、何をなしたか?」(ibid.)と述懐しています。このように、アンセルムスは自らを神から隔絶した脆弱な人間としています。このことから知人は、アンセルムスが言う「知らぬ者」とはアンセルムス自身のことを示すと論じています。「神は存在しない」とまで神から離れた自分にさえも神は立ち戻るためのきっかけを自分の精神の内部に示している、だから、自分が何度となく神から隠れようとも神自らが絶えず語りかけてくれている。そうした神信仰を内的に省察していく過程において表現されたアンセルムスによる自己述定こそが「知らぬ者」という語であるとしています。そうした自己探求こそが『プロスロギオン』である、その証拠にアンセルムスは第4章の終わりに「汝に感謝する、善き主よ、汝に感謝する、なぜなら以前は汝を恩寵によりて信じていたが、例え汝が存在することを信じるのを私が望まぬとしても、知解せぬことができぬほどに、汝を光によりて今や私は知解するからである」("Proslogion", IV.)というように、神の存在を云々しているのはアンセルムス自身に関わっている事柄になっているからだと、知人は加えています。さらに、傍証として『ミーニュ教父業書』より「私が他の罪人たちと同じであるだけでなく、どんな罪人よりもさらに、全ての罪人よりも罪ある人間であると私は知解する」(PL, 158, 739)などなどのアンセルムスの著作の中での自己言及、すなわち、自らがどれ程神を否定している者であるかについての言説を取り上げ、「知らぬ者」はアンセルムス自身のことであると、知人は結論づけています。
 個人的にはーつまり徹底的に素人としてはー、「知らぬ者」がアンセルムスの自己述定であるという仮説はありえそうだなと思いますし、そう読んだ方が『プロスロギオン』を単なる神学的論争の種本として消費するのではなく、人間が自らを弱い者だと知ったことにより世界を善くするために生きようとする、そうした精神的格闘の書として読めるので、好みではあります。ただ一応知人の解釈にコメントするなら、アンセルムスの言葉使いに戻りますが、これの元はパウロ書簡である『第1コリントス』15章36節にあります。ギリシャ語としては特徴的な物言いで、そのラテン語訳がinsipiensなのです。物の道理を理解しない人、完全さ(vgl.『第1コリントス』14章40節)の否定、それがパウロの言葉使いです。そこでは明らかに他者に向けられています。従って、語の適用範囲を考慮すれば、やはり神の存在を否定するという事柄を自分に対峙する事態ー確かにそこには知人の解釈のようにアンセルムス自身も巻き込まれますがーとして問題にしているのです。従って、神の存在証明とは、それに着手した瞬間に如何なる知性を持ち、如何なる志を持とうとも、他者を攻撃する事態へと移行せざるをえないものなのです。実際、アンセルムスさんという人は基本的に悪い話を聞きません。カトリックの聖人様には自分に反論したり敵対したりする論客の行き先を徹底的に追い回して職から追放させたベルナルドゥスさんなんて人もおいでです。それと比べれば、鞭打ちによる強制教育に対して、縄で縛り上げられて枝を雁字搦めにされた木の話を持ち出して、「あなたはそんな木になりたいですか」と問いかけたなんて話が残される位には人間を大事に思っていたとされる人ですし、彼の残した書簡を見ても誠実な人柄が滲み出てきます。そんな人でも神の存在証明という議論に取り込まれるや否や、他者への序列づけを行うのです。つまり、人間の血の通った情感といったものは消え失せ、攻撃性のみが残されるもの、それが神の存在証明というものの内実なのです。では、それは何故か。
 神の存在証明は、存在ー非存在と分離して、存在の観点へと非存在を解消してしまうものです。存在ー非存在の図式は、例えば甘いー甘くないのように両者が世界に存立しうるようなものではなく、正しいー正しくない、善いー善くない、こうしたものと同様に、両者の共存を拒み、一義的な仕方で事態を解消するものです。前回では、アンセルムスの個人性あるいは主体性が一般的命題へと移行することによって、その個人性が剥ぎ取られてただの抽象的言説になることを、彼の考えが神学談義という市場の中で反復されて交易される際の物件化の過程として語り、それは私たちが投げ込まれている現代において私たち自身が主体性を奪われている現実との類比として見て見ました。今回は、さらにそこから一歩進みます。なぜ、奪われてしまうのか、あるいは、奪われることが成立してしまうのか。アンセルムスの議論から見えてくるのは、主体性を奪われる側に内在する考え方にその要因が存することです。
 存在証明は、思考を存在ー非存在という二分法により成立しています。そして、それは対立との共存を許しません。なぜ、許さないのか。日常的に行われる対立とは同じ次元の代替案のようなもの、甘いー辛い、煎餅ー大福、あるいは晩御飯をメザシと煮物の間で悩むとか、そういう類いのもの、どちらをも選ぶ可能性のあるものが殆どです。しかし、例えば、正しいー正しくないの場合、正しくないは選択されません。この図式は、対立するものを排除する思考なのです。そして、その排除の仕方は、対立を価値的に劣化したものとして抽象的に加工した上でなされます。さらに、この価値的序列付けが知らず知らずの内にあらゆる選択の根拠として刷り込まれていきます。本来なら、煎餅ー大福のどちらかが価値的に優劣があるわけではありません。しかし、選択する際の理由づけとして、どちらかが私にとって適切である、あるいは私にとって価値があるーありていに言えば、ダイエット中だから大福は間違っているとか、塩分の取り過ぎだから煎餅は駄目だとかーとして、価値的序列から理由づけをします。このように、対象に価値的序列づけを行う思考の端的な例こそが、神の存在証明なのです。すなわち、主体から主体性が剥ぎ取られていくその起点は、主体自身に内在されているのです。
 この点から類比として言えるのは、資本主義社会において主体性が剥奪される要因は、個人の内部に存していることになります。しかし、それは余りにも酷いのではないか。いじめられている原因はいじめられる側にあるという最低な言説を許すことになりはしないか。そうではありません。個人に内在するそれは外部からの強制によって染み付いたものなのです。資本主義社会の場合ー資本主義だけではありません、封建主義社会でも国家社会主義社会でも同じですー、つまり人間が共同して存在している場合、その人間同士は決して平等で対等な立場にはないということです。人間は、社会的関係性の中に投げ込まれています。だから、個人の在り方は個人自身が自由意思によって選び取ったものではなく、関係へと埋め込まれて自己に内在化させられたもの、つまり外部的諸要因によって構築されたものであるのです。従って、いじめられる側は既にいじめる側によって作り上げられた世界の中で捕らわれ人になっているのであり、その捕らわれを作り上げて強制する側をそもそも批判しなければなりません。
 同じことは、資本家と労働者にも言えます。そこには対等な関係などなく、労働者は生産手段を持たないがゆえに資本家の元で働かなければなりません。これは、労働時間が自由意思によって選択した状態ではありません。そうやって働かなければ賃金を得られず、従って生活のための資材を獲得できず、生命を維持できないのです。強制的にその構造の中に投げ込まれ、言わば社会構造的暴力によって抑圧されているのです。だから、この関係性を乗り越えなければ、労働者が自由な時間を持とうがなにをしようが、搾取の構造から抜け出すことはできません。約言すれば、外的な条件としての時間を操作するだけで内在化された抑圧の構造を変えないのであれば、それは結果的に抑圧の構造に滞留したままになります。まず、この関係を基礎づけるもの、すなわち二分法を基礎づける価値論的思考様式をこそ乗り越えなければなりません。その乗り越え方はどうすればいいのか。価値論的思考様式は神の存在証明に端的に示されている、それが今回見てきた内容です。だとすれば、存在証明を乗り越えていく思索にこそ、価値論的思考様式を乗り越えていく糸口があるのです。従って、神の存在証明を批判的に克服することこそが、人間を苦しめる構造を反転させる手がかりになるのです。
 確かに、誰一人として飢えも渇きも凍えも嘆きもしない世界なぞ夢物語でしょう。しかし、数百年前なら人々が自分の言葉で世に語ることができるようになることすら夢物語でした。技術的なことで言えば、コンピュータなんぞというものが出来るなんてアンセルムスの時代の人に言ったら驚くでしょう。だから、今の世で夢物語や理想像にすぎなくとも、それを少しずつ実現へと向けて歩み出すなら、現実のものになるかもしれません。現実のものにするために、僅かであっても抑圧からの脱却を手探りで目指しながら進むために、神の存在証明を批判的に思考していきたいと思います。
 なかなか話が進まなくて恐縮ですが、次回もこの視点からアンセルムスの議論を見ていきます。

【論考】若きマルクスと「存在論的証明」批判ー予備的考察ーアンセルムスの場合・第1回

 若きマルクスの宗教批判を考えるついでに、彼が取り上げた神の存在証明の歴史をしばらく見て行こうと思います。神を信じない者にとっては、一見すると神の存在証明なぞはナンセンスでしかないように思われますが、むしろ逆です。神の存在証明は、西洋的な知の根幹を担った議論の一つです。多くの西洋的な理念、つまり、学知scientiaないし科学scienceや正義や真理といったものは、神にまつわる議論の周辺や延長から出ています。俗に謳われるように宗教とは豊かな心や感謝の気持ちを育てるものだなんぞという情感に関わる問題ではなく、冷徹で徹底的に先鋭化された知の表象であり理念の原型なのです。だから、宗教の議論は人間が社会を構想するための諸理念を映し出す鏡であり、その意味で、人間が社会を作る上で見え隠れする他者を支配して抑圧しようとする欲望を反映しているものでもあります。従って、宗教を成り立たせている議論を分析してそこからの脱却を批判的に考察することは、現代社会の諸問題を成り立たせている構造から脱却していくための糸口となるわけです。そうした視点で神の存在証明について読むことは、単なる宗教批判の枠組みを越え、世界の抑圧の構造を転換して変革しようとする実践の足掛かりになる。この問題意識のもとで神の存在証明を見ていきたいと思っています。
 ちなみに、以下で論じている事柄について、私は素人です。つまり、これからやる作業が本来的な意味での素人レベルです。たくさん御本をお読みになって御自身はたくさんの知識をお持ちになっていると勘違いなさっている御仁ー専門を自称なさる学者の方々も含めてーは、最低限、私のような素人レベルは保たれた上で、御自分に驕らたらよいかと。まぁ、以下で取り上げる歴史に名を残した人々の言葉を本気でお読みになっても居丈高にお振る舞いになられるのなら、それはそれで羨ましくもありますが。

1、アンセルムスの場合『プロスロギオン』より

 神の存在証明についての書籍を紐解けば必ず最初に名前が出てくるのが、カンタベリーのアンセルムスです。70年代ロックに興味のある方ならお馴染みの地名ですが、彼は北イタリアのアオスタに生まれ、色々あってカンタベリーで司教になった経歴を持っています。彼自身について語るつもりはないので、その辺は岩波文庫版の『プロスロギオン』に掲載されている記事をご参照頂くとして、彼の議論を見ていきます。
 アンセルムスは、『プロスロギオン』という著作の第2章で神への祈りのような短い文言の後に以下のように語ります。

  まさに、我々は信じる、より大きいものをなにものも考えることができることのない何か、で汝があることを。("Proslogion", II.)

 なにぶん、素人なもので引用符の付け方がいい加減なのは、ご寛容のほどを。底本は、Schmitt, F.S., "Sancti Anselmi Cantuariensis Archiepiscopi, Opera Omnia", vol.I. Roma, pp93-139より。日本語訳には、岩波文庫版など幾つかあるようですが、岩波文庫版しか参照していません。訳出は、かなり偏った直訳です。そのため、この手の神学談義の日本語訳にありがちなへんてこ敬語趣味は一切排除しています、悪しからず。
 注的な話はさておいて、このようにアンセルムスは神を規定します。この規定の仕方について、英米分析哲学者たちはかなりの関心を寄せていて、そのうちの幾つかをタイトルのみご紹介。Malcom,N., Anselm's ontological argument, "The philosophical review", 1960, 41-62pp, Adams, R. M., The logical structure of Anselm's arguments, "The philosophical review", 1971, 28-54pp, Lewis, D., Anselm and Actuality, "Nous", 175-188pp., Hortshorne, Ch., "Anselm's Discovery", LaSalle, 1965, Plantinga, A., "God, Freedom, and Evil", George Allen & Unwin, 1974など、枚挙に暇がありません。この中で『神と自由と悪と』は勁草書房から日本語訳が出ているそうですのでーすいません、邦訳未読ですー、こうした哲学的傾向にご興味のある方はご一読を。因みに、分析哲学のちょっと専門的コースに入ると上記の文献は読まさせられます。
 さて、上記のアンセルムスの規定、彼が聖書や伝統に依らないでただ理性によって導出したものであるという話をたまに耳にしますが、聖書は知りませんけれど伝統に依らない完全オリジナルというのは、逆にアンセルムスさんに失礼じゃありませんかね。彼はそこら辺の自称専門家さんーその実は専門分野がどのような拡がりを持つのかも余りよく分かっていないただの勉強オタクーとは違って、豊かな古典教養をお持ちの方です。従って、この神についての規定もまさに古典伝統の中から出てきたものです。一応、指摘しておきますと、キケロ「より優れることがありえない何か」"De natura deorum", II, 16、「神の内にさえそれより大きいものを何であれ考えることがでいないもの」"Tusculanae", I, 26,65、セネカ「それよりも大きいものをなにものも考えることができない…偉大さ」"Naturales questiones", I, praef, テリトリアヌス「何らかのより崇高なる神がいること」"Apologetics", XI, 2、アウグスティヌス「より良くより崇高なものはないであろうところのもの」"De doctrina christiana", I, 7、「万物の最高善、よりよいものが在ることも考えることもできず…」"De morbis Manichaeorum", II, 11, 24、ボエティウス「より良いものは何も存在しない」De consolatione philosophiae, III, pr.10など素人調べでもこの位は出てくるので真剣にやれば他にもあるかとは思います。なお、アンセルムスにとって直近の人で言えば彼の師匠にあたるランフランクス「全ての諸物より比べものにならないほどに大きなもの」"Liber de corpore et sanguine Domini", I, in Patologia Latina 150, 409と言っています。話はずれますが、この位のことは、中世哲学に素人であってもちょっと古典書を読み解けばすぐに気づきます。素人でも出来るわけです。上記の原文は、ミーニュ教父業書を含めて殆どネットで確認できます。だから、このレベルが素人の最低限度です。自称専門家の方々でこのレベルを知らないとなると絶望的ですよ。まぁ、そんな方はいないとは思いますが。そうした方々も含めて、自分は知識があるのだと傲語なさる方が本をたくさんお読みになった程度で思想や哲学をお勉強なさったと勘違いなさっておられるのなら、少なくとも原典を原文で精査した上で思い上がって頂きたいものです。余計な忠告ですが、たまたまレポートのネタ探しで検索してここを見てしまった学生さん、教授様が「聖なるアンセルムス様は独自の思索により神のことをお考えになられたのです」と仰っておられた場合、「いや違いますね、いくつも先人はいますよ」とここで示した事例を挙げないほうが無難ですよ。教授様という種族は、自分が間違っていても認めず、事実を突きつけた学生について恥をかかせた生意気な愚民と平気で嘯く連中ですから。わざわざ教える必要はありません。「教えてくれてありがとうね」という教官にはついぞ出会えませんので、正直に言うと苦労しますよ。経験者は語る、というやつです。本来ならこれを叩かないことには自由な学問なぞありえません。まぁ、そこを少しずつ変えていくことなしにただ組織の任命問題のみをあげつらう「学問の自由」なぞ政治オタクの方々の空語でしかありませんが。
 話を元に戻して、アンセルムスの議論に目を向けて疑問になるのが、ここで彼は神をどこに力点をおいて規定したのかということです。「何か」なのか、そうすれば彼の規定はその本質に関わることになります。「考えること」なのか、そうすれば彼の規定は人間の思惟と関係づけられます。「できる」なのか、そうすれば彼の規定は人間の能力との関わりの中で語られていることになります。「ない」なのか、そうすれば人間には扱いことのできない領域が主眼となるのです。これは素人目線での指摘でしかないのですが、本気で一つ一つ考えていくとそれぞれで大きな問題となります。つまり、アンセルムスの神の規定は視点を盛り込みすぎなのです。だから、私はあえて定義とは呼びませんでした。定義にしては曖昧すぎます。オッカムさんの剃刀が擦りきれてしまいそうな感じです。ごちゃごちゃし過ぎて私のような素人は手に余る気がして避けてしまいますが、現代の分析哲学者たちにとっては料理してみたい食材として目に映るようです。
 しかし、上記の定義にまつわる論点はアンセルムスさんより後の約千年間に渡る哲学的議論に毒されているせいであって、厳密に語を規定することから彼の議論を読み解くとかえって彼の意図から外れてしまわないかという懸念はあります。ただ、少なくとも言えるのは、アンセルムスの意識としては、かの文が一人称複数で成立していることからすれば、人間にとって共通する地平から語りだそうとしていたということです。私たちの共通の能力、しかし、そうしたものでは捉えきれない位相、それが神として理解されていることの内実なのです。私たちのロゴスつまり理性/言葉で扱いきれない事態、私たちの次元に存在する事柄ではないもの、そうした人間の側の否定という仕方でのみ言表されるものとして示されています。
 これは私の論述が下手くそなので、一見するとアンセルムスによる神の語りとは人間全体を否定して無下にすることのようですがーたまにこういうことを仰る俗流唯物論者の方々もおられますがー、そうではなくて、人間のある種の作用のみの否定に関わっています。それは、考えることであり、抽象化の作用です。この問題は、読みようによっては非常に革新的です。これを語っているのがカトリックの聖人様であるがゆえに許されているようなものですが、字義通りに神を人間のロゴスつまり理性/言葉で扱いきれない事態と解するならば、それは全ての神にまつわる言説の否定、神ー語りへの反抗、神学の抛擲になってしまうからです。神を教理の中に押し込み、教条化して強制する、これら全て人間の活動への否認です。まぁ神学者の皆様は神を語ることは神から特別に恩恵を受けて語っているのだ、我らは神の代理人であるから人間の思いを越えているだの何だのと傲り高ぶった言い方をなさりますが、そんなことを信じて有り難がるのは、神学者の皆様が主宰するゲームに参加されている向きだけであって、そこから一歩離れてしまえばそんな思い上がった御託宣なぞ何の意味もありません。アンセルムスの言葉を本気でそれ自体として受け取るのであれば、まさに神を抽象化して語り得ぬものを語り得るかのように騙る、そうした言葉による神の形骸化全ての活動を批判していかなければならないでしょう。しかし、知られている限りにおいてアンセルムスさんの議論をそうした方向で読み解く人物は、それ以降の中世においては存在せず、教会の支配体制の中で上手く飼い慣らされていくわけです。
 ここから後、「それより大きいものを何も考えることができない何か」という神の規定のみが一人歩きして、アンセルムスによる神の存在証明であると語られることになります。しかし、彼の本意はそこにあるのか私個人は未だに疑問です。というのも、上記の引用だけを見たとしても、宗教的な考察から抜け落ちている文言があるからです。すなわち、「我々は信じる」と「汝は~である」という言葉です。この2つは、言ってみれば、前者は「信じる」という人間の主体的行為の事態であり、後者は「我ー汝」という他の何物にも還元不可能な個的関係性を示します。この2つが後世の宗教的議論では剥ぎ取られ、徹底化された抽象的問題として提示されているのです。
 実際、アンセルムスの議論はまだまだ続いていきます。全部で26章あります。その著作の2章の記述だけ抽出されてこれが彼の議論の内実ですと言われてもアンセルムスさんも困るでしょう。『機動戦士ガンダムOOセカンドシーズン』が全25話ですが、その2話目と言えばダブルオーガンダムが起動した話でそこから物語が動くことになります。そこだけを取り上げてそれが『機動戦士ガンダムOO』の話ですという人はいません。このことからも、学者の都合で抽出したこのアンセルムスの神の規定を彼の議論の本懐としてしまうのは余りに恣意的すぎではないかと思うわけです。
 話が多少脇道に逸れますが、アンセルムスは第15章において神の規定を一歩進めていきます。

  故に、主よ、汝はより大きいものを考えることができないものであるのみならず、むしろ、考えることができるよりもより大きいもの、である。("Proslogion", XV)

 この時、アンセルムスは一人称複数すらも捨て、端的に「汝は~である」として呼び掛けます。この呼び掛けの形式は、キリスト教伝統の中では信仰告白のレトリックです。『マタイ福音書』16章16節でのペテロの信仰告白と言われる場面での呼び掛けがそれにあたります。ここでペテロが「汝はキリストである」と呼び掛けることでキリストより使命を受け、さらにそのキリストを「汝は~である」と呼ばわることをキリストとの関係の中での秘密にするように語られていると言われる場面です。パゾリーニ監督作品の『マタイ福音書』(放題は『奇跡の丘』ですがこのタイトルもう少し何とかならなかったんでしょうかね)でも描かれています。そうした個的な関係性のうちにのみ語られる、それがまさにアンセルムスの神の規定なのです。因みに、一応指摘しなければならないのは、決して福音書著者自身はそんな「我ー汝」なぞ考えていたわけではありません。はっきり言えば、ここで語られるのは教会権力の正統性についてです。教会の権威はキリストから与えられたものであり、それは秘義とされるために、教会の権威に従わなければ預かることは許されない。しかも、これは単に聖人伝説の与太話や儀式への参加資格の話ではなく、人間の永遠の救済の問題であり、従って、それに預かることができなければ永遠に苦しむことになるという無茶苦茶な支配と抑圧の問題なのです。福音書著者自身はせいぜい自分たちの周りの教団レベルでしか考えていなかったのではないかとは記述から読み取れますが、後にこのペテロの信仰告白教皇権の使徒的継承とその不可謬性が確立されるに至り、抜き差しならぬ権力の顕現とされていきます。そのため、ペテロの話を「我ー汝」問題として語るのにはおぞまし過ぎるほどの生権力の問題が付きまとうことにはなります。
 とりあえず福音書の話はここまでにして、アンセルムスに戻ると、さらに注目すべきは、ここでは2章での神の規定が否定的に乗り越えられていくことです。2章では人間の共通する能力を否定していましたが、ここではそれの否定になっているのです。つまり、否定の否定です。否定の否定といえばマルクスですが、簡単に言えば、労働者は自分で生産手段を持たないので、工場を持っている資本家の所へ働くために行かなければなりません。そこから搾取という問題が生じるのです。そうした問題を解消するために生産手段の私的所有を一つ上の段階、つまり社会的所有へと上げる(vgl, KMWS, IV, 927s)、これが否定の否定であり、その到達点は個人的所有の再建です。マルクスの話なんて関係ないでしょと思われる向きもあるかと思いますがさにあらず。両者には共通項があるのです。マルクスの場面、個人的所有の再建された世界はまだ実現していません。つまり、この世界内には存在していないのです。同じように、アンセルムスの神への呼び掛けも現状では到達しえぬ次元です。すなわち、両者とも、未だに実現されていない事柄を言表するために否定の否定というレトリックが使われているのです。これは、人間の理性の限界を考える上で非常に興味深い材料ではありますがこれ以上はここでは取り上げません。重要な問題は、アンセルムス個人の思いを伝える言葉から彼の個人性が奪われて只の命題と化してしまった、そのことです。これは、まさにキリスト教制度の支配の代わりに世俗化された国民国家が統治する近代における人間の分裂を予見しています。全ての問題が徹底化された抽象的問題となり、主体性や個的独自性といったものが捨象されていく事態を示しているのです。だからして、神の存在証明についての史的展開を批判的に検討することは、私たちの時代の批判の手がかりとなるのです。
 ここではこれ以上論じていくと長くなりすぎてしまいそうなので、何故にアンセルムスの個人的思いから出来した神の規定がその個人性を剥奪されていったのかということについて仮設的に結論を考えます。アンセルムスの議論は、一人称複数で語られ、従って人間に共通する地平から語られています。しかし、後の哲学者たちによってそれは一般的命題として扱われていきます。共通する地平と一般的命題では全く位相が異なります。前者はそこに参加する諸個人の主体性はそのままに互いに同じくする事態において基礎づけられます。しかし、後者はそうした主体性を主観的として投げ捨てて客観的とされる視点が設定されて案出されています。つまり、前者から後者への以降過程において、主体性が剥がれ落ちていくのです。それにより、議論は抽象化され、現実の現場ではなくて観念の劇場において演じられるものとなります。この状況は何によって生じるのか。それは、アンセルムスの言葉が単なる神学論議の材料として消費されていく過程に随伴して生じていると言えます。アンセルムスの神の存在証明が、実際に無神論者や異教徒との論争に用いられたかどうかは資料的な裏付けがないのでそれについては現段階で素人である私には分かりません。ただし、神の定義としてアンセルムスの言葉を取り上げて神学論議をしている場合、明らかに神学者内部での神の定義として正か誤かという論議になっていることはこれから見ていく何人かの思想家の言説からも分かります。これは、アンセルムスの言葉が、言わば神学論議の市場において交易される物件と化していったことを示します。そして、その神学論議という市場は、その命題が正しいか誤っているか、そこから始まり、その正ー誤の判定は、論議での勝ー敗を否応なしに帰結します。さらに、それはその論議の支持者たちの優ー劣を導き出すことになります。このように、交易が反復されればされるほどに、事態を分断する二分法へと落とし込まれることになるのです。そこにおいては、個人の主体性は消失していきます。こうした、反復され続ける交易に巻き込まれることで、必要となるのはその議論の強さを見せつけ、弱さを踏みつけるという視点だけです。従って、アンセルムスの言葉から主体性が奪われていく過程は、まさに私たちが直面する個人性の剥奪と強さー弱さの二分法への凋落と同じなのです。ありていに言ってしまえば、アンセルムスの言葉が主体性を失って神学論議で交易される物件と化したこの事態は、マルクスが言う、労働者の労働が労働者の人間としての個人性を奪われて労働力という商品となるという現実そのものなのです。
 しばらくは、人間を苦しめる構造を脱却するための出口を模索するためにも、神の存在証明を批判的に精査していきたいと思っています。確かに、神の存在証明なんぞを考えたところで腹はふくれませんし、パンを増やすこともできませんーアンセルムスの聖人伝説の一つに飢饉が起きた時にパンを増やしたというのがあるそうですので、アンセルムスの専門家を自称なさる方々は、彼の哲学的鋭意がどうのとやるだけでなく彼の行った奇跡の内実を食べ物のない現代の子どもたちに向けて御自分たちの出来る範囲でなさったらアンセルムスの神の問題が彼の目線からもっと深く理解できるのではないでしょうかね、どうぞお試しあれー。しかし、その腹を減らさざるを得ないほどに人間の生命が次第に奪われている危機的現実、そうした痛み苦しみがべったりとこびりついてはなれない現代の構造、それを何とかして変えていくために、抑圧的な現実は批判されて乗り越えられなければならない課題です。そして、誰一人として飢えることも渇くこともなくなり、寒さで凍えずにすむようになったその時が来るまで、様々な仕方で乗り越えていく道筋を考えていかなければならないのです。そのための試みを、若きマルクスの視点から実行していくのが、神の存在証明批判であります。
 この論点を更に考えていくためにも、次回もアンセルムスの議論を見ていきます。

【翻訳】マルクス「学位論文」より補遺・注9、1841年。

 以下は、マルクスの学位論文『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異』より「補遺」の原注の(9)の訳出です。邦訳も既にありますー以下で挙げていますーが、これからブログ記事にしようと思っている「神の現存在についての存在論的証明」をマルクスの記述を足掛かりに批判的に読む作業の資料として用いる際に訳語を統一する目的で訳出しました。底本は、Karl Marx Friedrich Engels Gesamtausgabe, Erste Abteilumg, Werke・Artikel・Entwuerfe, Band 1, hrsg. von Institut fuer Marxismus-Lenismus, Dietz Verlag Berlin, 1975, 89-91ss.より。邦訳は大月書店版『マルクス=エンゲルス全集』40巻に所収されているもの(入手困難のために未読です、すいません)と、『マルクス・コレクションI』筑摩書房、2005年に中山元訳が所収されていて、光文社古典新訳文庫ユダヤ人問題に寄せて他』に今回訳出した部分が再録されていますが未読のため筑摩書房版と同一かは不明です、ごめんなさい。訳出の際に参考にした翻訳は、Marx,K.,"Diferencia de la filosofia de la naturaleza en Democrito y en Epicuro y otros escrito ", trad., pres. y notas de Candel M., Biblioteca nueva, 2012です。序文と参考文献が有用です。他にもFusaro, D.による伊訳も見ましたが、イタリア語はあまり得意でないので読んだ程度です。こちらも序文と注ならびに参考文献が相当程度で訳者の方の思い込みが入ってはいますが有用です。仏訳や英訳もありますが、今回は参考にしていません。あと、原文でイタリック斜体になっているところは""で囲ってあります。

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注9)「しかし、"弱い"理性はいかなる客観的な神をも認識しないことではなく、むしろそれを認識することを"意志する"ことである」シェリング、「独断主義と批判主義についての哲学的書簡」『哲学的著作』第一巻、ランズフリート127頁。書簡2。シェリング氏には、そもそも彼の最初の著作を思い出すようにと助言すべきであろう。例えば、哲学の原理としての自我について著作の中で以下のように言われているからだ。「例えば"神"、それが対象として定立されている限りでは我々の知の実在的な根拠であるということを仮定するならば、そうであれば、神が対象である限り、神は確かに"それ自身"我々の知の"領域"に落ち入って来るのであり、だからして、我々にとって、これらの全ての領域が固着しているところの究極点にはなりえない」前掲書5頁。我々はシェリング氏に最後に上で引用した書簡の結語を思い出すようにさせようとしている。「"今やその時である"、すなわち、より良い人類に"精神の自由"を告知すべき時であり、そしてもはや、"その鎖の喪失を嘆くのを容認すべきではない"」129頁、前掲書。1795年が既にその時であったならば、1841年においてはどうなのだろうか?
 ここで、この機会に、殆ど悪評高いものとなったテーマ、つまり"神の現存在についての証明"について言及するとすれば、"ヘーゲル"はこの神学的証明を全くもって逆転したのだ。つまり、弁明するためにそれを棄却したのだ。訴訟依頼人にとって、弁護士自らが訴訟依頼人を死なせること以外に有罪を取り下げることができないというのは、いったい何事であらねばならないのだろうか。ヘーゲルは以下のように解釈する。例えば、世界から神への推論を「偶然的な事柄は存在し"ない"のだから、神あるいは絶対者は存在する」という形で、である。しかしながら、神学的証明は逆向きに語っている。「偶然的な事柄は真の存在を持つがゆえに、神は存在する。」神は偶然的な世界にとっての保証である。これによって逆のこともまた確言されるのは自明の理である。
 神の現存在についての証明は、"中身のない同語反復"以外のなにものでもない。例えば、存在論的証明は、「私が、私に対して実在的に表象するものは、私にとって実在的な表象である」ということ以外には語っておらず、これが私にとって実効を持つのであり、そしてこの意味において、多神教の神々であれキリスト教の神であれ"全ての神々"は実在的な実存を保有していた。古代のモロクは支配したことがなかったか?デルフォイのアポロはギリシャの生活において実在的な力ではなかったのか?ここでは、カントの批判も意味がない。自らに対して100ターレルを保有しているということを表象するならば、そしてこの表象が気ままな主観的なものでないならば、彼がその表象を信じるならば、彼にとって構想上の100ターレルは実在的な100ターレルと同じ価値がある。例えば、自分の構想力のとががなしたとみなすだろう、その構想は"全ての人類が彼らの神々のとがによるとみなしたのと同じように""実効を持つ"だろう。逆なのである。カントの例は存在論的証明を強めることもできたかもしれない。実在的な100ターレルは構想上の神々と同じ実存を持つ。実在的な100ターレルは、人間の一般的な表象であれむしろ共同的な表象であったとしても、表象におけるそれとは別のところで実存を持つだろうか。人々が紙幣の使用を知らない或る土地に紙幣を持って行け。そうすれば、君の主観的な表象を皆が笑うだろう。君の神と共に他の神々が通用している土地に行け。そうすれば、人は君が構想と抽象で苦しんでいることを君に証明するだろう。それは正しい。ヴェント族の神を古代ギリシャに持っていったとすれば、この神の非存在証明を見出だすだろう。というのも、ギリシャ人にとってそれは存在しなかったためであるからである。"ある特定の地が他所からの特定の神々に対する対峙は、理性の地が神々一般に対するものであり、そこは神の実存が止む場所である。"
 あるいは、神の現存在についての証明は"本質的な人間の自己認識の現存在についての証明"以外のものではなく、それの"論理的な説明"以外のなにものでもない。例えば、存在論的証明である。思惟されることのゆえに、どのような存在が直接的なのか?自己認識である。
 この意味において、全ての神の現存在についての証明は、その"非存在"の証明であって、神というものについての全ての表象の"反駁"なのだ。実在的な証明は、逆に以下のように奏でられねばならぬ。
「自然は悪く整備されている。ゆえに神は在る。」
「非理性的な世界がある。ゆえに、神は在る。」
「思惟は在らぬ、ゆえに、神は在る。」しかし、"これは、世界が非理性的であってそのために自分自身も非理性的であるという人にとっては神は存在するということ以外に、何を言っているのか?あるいは、非理性が神の現存在なのだ。"
「もし"客観的な神"の"理念"を前提とするならば、"自己自身について理性"がもたらす"法則"について、"自律"は"絶対的で自由なる本質"のみに到来しうるのだから、どのように語り得るか。」シェリング、前掲書、198頁。
「あまねく伝えられる原則を隠すことは人間性への罪である。」同書、199頁。

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寸評)学位論文のタイトルからしても、この時期のマルクスが若きヘーゲルを意識していることは明らかですが、それと同時に、この頃にヘーゲル宗教哲学』が出版されて、この訳出部分からだけでもマルクスがそれを読んだか見たかしたのもーどの程度読み込んだかという問題はともかくー明白です。詳しい話は追々書いていくとして、この文章から同時の哲学を志す若人たちの息吹きを感じ取ることができます。内容は勿論のこと、そうした哲学の雰囲気を味わうことも出来るので、この訳出部分のみならず、この著作全体を是非ともお読み頂きたいと思っています。学位論文本体には古典ギリシャ語が唐突に引用されており、そこから、マルクスが『資本論』でも引用しているアリストテレスをはじめとするギリシャ思想に敬意を持っていることも分かります。従って、マルクスという人が、歴史を自らの問題意識の中心に据えていることが見えてきます。

【書評・再録】Fichte, J. G., Einige Vorlesungen über die Bestimmung des Gelehrten, Kindle-edition.

Amazonレビューの再録です。少し前に書いたのですが、現状の認識が全くもって変わらないことから備忘録として再録します。

 この電子書籍には表題である『学者の使命についての講義(1794年)』の他に『学者の本質、自由の領域におけるその現象について(1805年)』と『大学の自由を撹乱しうる唯一のものについて(1811年)』とが所収されています。
 この文章を書いている現在、議会では「学問の自由」が喧しく取り上げられています。しかし、その議論は互いを敵か味方かと罵り合うだけで、学問の自由がただの政争の道具にされてしまっています。学問の自由とは人間の存在の基盤を支えながらそれを根底から揺さぶる理念であるはずです。本書はフィヒテ哲学の根幹である自由の体系としての知識学Wissenschaftslehreを語っているためにフィヒテ哲学への導入としても有益な書籍でありますが、もし上述した現状に何らかの違和感を感じる方がおられるなら「学問の自由とは何か」を根本的に考えることができる本書を推薦させていただきます。
 フィヒテは学者を語る前提として、人間そのもの、つまり私であることには必然的に含まれていない私ならざるものを離れた私である人間を考えます。すなわち、学問をするということはまさに人間であるこの私を離れては成立しないのです。だから、学問の自由とは、ご立派な家庭の産まれで生活や社会的地位が安定している特殊な上流階層に胡座をかいている人々の組織にまつわる問題などと言ったマージナルな議論などではなく、本来的には人間の問題、従って私たち自身の問題なのです。そこが現状では棚上げになっているので、大衆とは無縁の絵空事になってしまっています。いくらエクスキューズした所で、大衆の現実の苦悩よりも、上流階層様の御機嫌の方が重要な問題なのだというのが本心だということは、人前でお話しになるのに費やした時間によって分かります。これは、投入労働時間が価値になる、そう初歩的マルクス経済学の教えです。御自分たちが後生大事になさっている教条によって御自分たちの隠された本音が出てしまう、笑ってはいられない茶番劇です。
 では、なぜ学問の自由は人間にとって必要なのでしょうか。私が人間である、すなわち私が本当に私であるために不可欠な事柄は、私は私であるという同一性を実現することです。というのも、私ならざるものによって私が支配されているならばそれは私ではなく、従って人間であるとも言えないからです。確かにこれを完全な形では遂行しえないでしょうが、それを完全な形へと少しでも近づけることは人間であるために必須です。その出発点は、私が何ものであるかそして何ものでないかを「知る」ことですーフィヒテ流の「汝自らを知れ」ー。これによって私は私であることを私が何ものなのかを知ることを通して自分の使命として発揮することが出来るようになります。しかし、人間が使命を確立しうるのは自分と同じ理性的存在者の関わりである社会においてですーフィヒテ流の「人間は社会的動物である」ー。私は私が決して作り出すことの出来ない私ならざる存在者との関わりのうちに、私のものと私ならざるものとを知り、そこから私がしなければならないことを把握して、そこに自分の意志で参与する。つまり、私の自由を見出だすのです。このように、学問の自由は社会哲学の問いともなり、そしてその問いは現代的な性格を持ちつつもプラトンアリストテレス以来の歴史を背負ったものであるのです。人間は鉄のような自然法則に隷属するのではなくてまさに自由な行為のうちにこそ存するのであってーこれはエンゲルスマルクス主義的法則性とマルクス自身の人間的自由との差違に類似していますー、自由であるがゆえに「何をすべきか」という道徳的実践が目標となっていきます。
 フィヒテの語る学問の自由とは人間にとっての事態であり、人間であることから解離した単なる標語や条文ではありえません。この人間であることを通した学問の自由を考える上でフィヒテによる本書は未だ色褪せないものであります。ただ、一般に流布している日本語訳である岩波文庫版は残念ながら「身分」という単語を「階級」と訳すなどの不充分さが垣間見られるために、原典たるドイツ語をお読みになられるよう、お勧めいたします。

現状についての蛇足
 人間にとって自由であること、これこそが基盤でありそしてそれを取り上げることは誰にも許されていません。しかし、関係者を強制的に上からの見解に合わせるように抑圧している団体にとってはただただ「反対!」と大声で叫ぶ拡声器があればいいのか、自由であることよりも団体への隷属ー執行部批判は許すまじ!ーこそが至上命題とされます。これは他からの自由の剥奪の例です。しかし、問題は自分の自由を自分から廃棄するという現実です。すなわち、そうした上位団体を支援する下位集団の若年層は自分たちの不遇さを自分が悪いのではないと主張したいがために社会に原因を押しつけて正義を騙りながら己れの独善的性向に基づいて大声を張り上げて妬みと謗りを晴らすだけの集団と化していきます。これは他から強制されているのではなく、自らの抑圧状態を根底から変革しようとせずに一時の鬱屈の開放こそが自己実現であるかのように振る舞うことで、本来的な自分の自由を放擲している例です。自由を剥奪され/放擲して集められた嘴の黄色い烏合の衆は、上位団体にとってパーティーの余興である道化芝居くらいでしかないにもかかわらず滑稽なほどに忠誠心を発揮します。彼らにとってはそれ以外の居場所がないからです。そのため、上位団体に反対するものを探して攻撃して曝しあげる愚行を繰り返し、しかしその暗愚さゆえに上位団体の単なる使い捨ての道具としてしか扱われていないという現実。それこそが根本的な意味で自分たちにとって学問の自由に反する現実ですが、その集団の誰もが無感覚でいます。まさに、自分たちの外へと向かう集団的行為が自分たちにとっての内奥の問題を隠しているのです。もし少しでも良心的な人間が上位団体にいればそれを彼らに指摘して変革を促すのでしょうが、その指摘をすることで下位集団からの支持を失うことを危惧しているのか単に道具としてしか扱っていないのかは分かりませんが、ともかく、この本来的な学問の不自由を野放しにしている団体が自らを形容する上で「科学的wissenschaftlicher」という語を使用していることは喜劇でしかありません。
 結局、大衆の現実の苦悩よりも、上流階層様の溜息の方が重要だということをあの方々は語っているのです。従って、大衆の自由は、選ばれた指導層の方々の思惑によって上書きされて、その方々のための機械とされられていく、それが、昨今の政治的言説の向かう先です。大衆がいま直面している様々な生きることを難しくしてしまう苦難、それよりも上流階層様の顔色伺いや御自分たちより数の多い友達仲間への忖度の方にお時間をお使いになるお姿をお見受けしまして、フィヒテが述べた本書の第三講義の言葉を思い出します。「我々の機構によって彼らの内の人間を抹殺して我々次第によって彼らと社会をも抹殺するのである」。学問の自由の主張を集団的な圧力によって強制することは、単に大衆の自由を破壊することだけではなくて大衆への抑圧を通して社会をも破壊することになるのです。この点を、フィヒテは鋭く批判しているのです。

【論考】初期マルクスによる阿片としての宗教ー第6回

※第6回、続きです。今回が最終回です。

(続き)
 前回は、途中でスマホの充電がなくなりそうだったので妙な所で切り上げましたが、その続きとして、もう一度、ニーチェさん本人のテキストに戻って見てみましょうーテキストは前回に掲載してありますー。
 テキストでは、神を探す狂騒なる人間と神なぞに興味のない町民という設定がされています。言い換えれば、「神」という価値基盤の喪失を問いにする孤高な人と、そんなことには関心もなく毎日をわちゃわちゃ暮らしているその他大勢とに分けて描写しています。いわば、智者と愚者です。そして、「神の死」が問題になるのは智者であるのです。その意味で、批判は選ばれた智者のみが気づく事柄であり、愚者は大勢でわちゃわちゃしているだけです。これは、視点として、今まで見てきたマルクスの「宗教は民衆の阿片」とは全く異なります。マルクスは、民衆こそが批判の担い手となり、現実を批判して変革する主体となっています。まぁ、ニーチェさんの場合、かなり劇画的な場面設定ですので、余りぐちゃぐちゃと言い連ねるのは無粋かと思いますが、こうした場面設定などがニーチェさんが貴族主義的と言われる所以でありましょう。それはともかくとして、ニーチェさんとの比較によって明らかになるマルクスの視座とは、批判を遂行するのは大衆であるということです。
 話のついでに、あくまでも個人的にニーチェさんのテキストを読むなら、超越的な価値基盤がなくなったことをニーチェさんは詩的に表現しています。曰く、ニヒリズムの到来を告げるかのような「終わりのない無」、価値という文化を導く羅針盤を失って流離わねばならない現状を語るかのような「隙間なく夜が更なる夜が」、こうした表現、確かにドイツ神秘思想の大家であるエックハルトの言葉使いに似ていて、そうした点からドイツ文学を考えてみてもいいのかしらとは思ってみたりしますが、それはさておき、価値がなくなったことで新しい時代が言わば「無からの創造creatio ex nihilo」によって幕を開けるかのような躍動感があります。が、その後の言葉で肩透かしをくらいます。「俺たち自身が神々にならなきゃならないんじゃないのか?」せっかく、神が、天国がなくなって、頭上にはただ青空が開けたというのに、まだ権威者を必要とするんですか、なぞと感じなくもありません。ニーチェさん的には、権力を自らが掌握するような強靭な人間こそが真の在り方だと仰りたいのでしょうが、真の在り方なんぞ出来なくていいから、今日の食べ物と寝床がしっかりと確保されて幾ばくか安心できる日々を送りたいなと思ってしまいます。もちろん、「神」という超越的存在である価値基盤を外部に設定することと、私たち自身が神々になるという価値基盤を内部化することとでは方向性が違います。ただ、価値基盤を問題にして語り出すという意味においては同じ土俵の議論になってしまいます。このニーチェさんの話を読むと、人間というものは外であれ内であれ、結局は「神」という概念を作り出さざるを得ない悲しい運命を背負っているのだという虚無性を感じます。そうだとすると、ハイネの言葉の方が強烈な響きを持っているように思います。

  有神論は今だ生存している、生き生きとした生を生きている、全くもって死んでいない、新規のドイツ哲学が死なしめたなんぞというのはどうにもありそうもない。(Heine, H., "Zur Geschichte der Religion und Philosophie in Deutschland", Independently publishedの電子書籍版、2020,「第二版の序文」より)

 ハイネのこの言葉から50年足らずで「神は死んだ」と宣言したニーチェ。この間をどう考えるかもドイツ文学を問題にする上で一つの道標になりうるかもしれませんが、マルクスの宗教批判から言えるのは以下の点です。神は死んだと言い、しかし、それが最初から無かったものであることをしたり顔で断言するだけならば、何の意味もないでしょう。すなわち、何かの歌じゃないですが、神なんていないさ神なんて嘘さ、と嘲笑するだけでは、本当の意味での「神の死」にはなりえません。神を定置してそれを崇め奉り人々を強制する、そうした在り方を否定して脱却していく場においてこそ「神へのレクイエム」が奏でられうるのです。神を欲望する、これは人間の問題です。だから、問題は神ではありません。むしろ、神への欲望というものがぬぐい去り得ないという人間の現実から目をそらさず、神を生み出さざるを得ない人間の心性を倒錯していくこと、ここにこそ、全ての価値の価値転倒が存するのです。神というアプリをスマホからアンインストールするだけで、神への欲望の構造を内的に保存したまま、神への欲望が精神内的にこびりついていることに気づかない、そういう場合の方が「神の死」を語る言説には多いのです。ここを自覚的に脱却していくことが、これからの「神の死」の方向性だと考えています。
 さて、「神の死」はさしあたってこの辺りにして、マルクスの宗教批判の「宗教は民衆の阿片である」とは、宗教だけに留まらず、近代というものが人間の人間らしさを取り去り、観念的な次元へと解消していくという視座は「精神なき状態の精神」という表現にも現れているように思います。あるいは関係あるかもしれませんしあるいは関係ないかもしれませんが、このマルクスの言葉を聞くと思い出すのが、ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で最後から一つ前の段落終わりに語られるあの言葉、すなわち、

  それはそうと、こうした文化的発展の「最後の人々」にとっては以下の言葉が真理となるだろう。「精神なき専門人、心なき快楽人、この無なる者は、今まで到達されていない人間性の段階にまで登攀したのだとのぼせ上がる」と。(Weber, M., "Gesammelte Aufsaetze zur Religionssoziologie", I, J.C.B.Mohr, 1963, 203s.)

 ここでウェーバーが言う文化的発展とは、プロテスタンティズムーカルヴィニズムが形成した近代合理主義的精神性とそれに端を発する様々な思考習慣といったものを全てひっくるめています。そして、ウェーバーはそうした近代性がもたらしたものは、最初は確かに人間の合理性を進展させはしたものの、それが今や「鉄の檻」となって人間を締め上げている現状だと述べています。資本主義という合理的な経済体制、それは出発点は宗教的な禁欲精神による世俗世界での富の生産と蓄財であったものが、宗教的な意味が取り去られて営利活動が単なる競争の感情へと陥落していく、そういう様相が語られていると言えるでしょう。そうした近代の中では人は精神なき専門人となり、自己満足的事柄に興じるのだ、そんなふうにニヒリズム的な感覚でウェーバーは時代を見ています。
 これは非常に冷めた態度であり、近代資本主義の体制に飲み込まれることで失われていく気概とも言うべき自らの精神性を、それを認めたくないという気持ちと共にそれでも冷徹に記述しています。従って、ウェーバーの描く近代資本主義とは、非常に冷たく虚無感を伴って浮き上がらせられたものであるということになります。
 しかし、その一方で『職業としての学問』(既存の訳語に文句はありませんがBerufはウェーバーにとっては非常に特徴的使用をされる言葉で「召命」とも訳しうる概念でもあると指摘させて頂きます)では、専門に閉じこもれ、さすれば幸いを得るだろうとでも言わんばかりに専門化された職業人であることを声高らかに告げています(vgl., Weber, M., "Gesammelte Aufsaetze zur Wissenschaftlichslehre", J.C.B.Mohr, 1963, 588s.)。これは明らかにおかしい話です。さっきは専門化することへの悲観を語り、ここでは専門化の奨励がなされる。しかし、これがウェーバーの専門化という問題への態度です。時間が経ってウェーバーの態度が変化したわけでも、論述と演説だからレトリックを変えたわけでもなく、上記の内的に分裂した在り方がウェーバーの専門化に対する態度です。だから、『倫理』を読む時には『学問』を、『学問』を読む上では『倫理』を念頭に置かなければウェーバーの態度は理解できません。たまに、すごく表象的にウェーバーの『学問』を人様に無責任に薦める御仁がおられますが、それはきっちりとこうしたウェーバーの分裂問題に御自分の中でケリをつけての上でしょうね、と伺いたくなります。いや、この問題は私個人の素人考えではなくて有名な話です。知らないではすまされません。まぁ、こういうややこしい問題が出たら無視してとにかくウェーバーの権威を借りて自分は知ってるぞと言いたいがためにとりあえず推薦しとけという態度には、なんと言いますか。
 それはともかく、これを専門化が問題ではなくて世間知と専門知の分断が問題なのだ、だから学際的研究をもしくは一般社会に学問の開放を、という向きもありますが、その世間知の担い手たる大衆の一人としては、そういう分け方自体が学者先生の上から目線を内包していて非常にむず痒く思います。というよりも、ウェーバーが問題にしているのは、「専門化」それ自体、すなわち、上で区分した両者共が近代合理化の枠内に定置されて発展してきたことにより生じた現実である専門化であるのであって、分け目を変えれば変わりますというのはせいぜい髪型ぐらいの話です。
 しかも、ウェーバーが学問の価値自由を語るなかで専門化された教授内容を民主主義を例に挙げて以下のように語りだします。

  そこで、「民主主義」について何かを語るとするならば、それの様々な形態を取り上げて、それがどのように機能するのかという仕方について分析をして、どのように生活関係のあれこれに個々の帰結が生じるのかを確証して、それで、非民主主義的な形態である政治的秩序を民主主義的形態に対峙させて説明して、聴衆が自分たちの究極の理想から立ち位置を取る立場にいる、それが見られるそういうことに至るまで広げられるのである。(ibid, 601s.)

 こんな長い文を聞かされる講演はちょっと遠慮したいなと思いますが、それはそれとして、『学問』を御推薦される方は本当にこのウェーバーの言ってることに同意されるのでしょうか。これは天下のウェーバー様だからこそ語り継がれてきたものですが、そうでなければ民主主義というものをもう一度勉強し直すように促されかねない内容です。ウェーバーの問題点は、ニーチェの時にも同じような話をしましたが、民主主義をそれが生成されてきた現場から切り離して論じることは本来的には不可能です。切り離して語れば客観的だと考えるなら、その客観性は単なる上っ面であり、語り手によってどうにでも構成しうるように加工されたものでしかありません。何処其処の民主主義は、その何処其処性によって生成されたものであり、あらゆる問題を背後に持っている事態なのであり、それはもはや何処其処の民主主義を取り上げたという主体の側の問題意識が含まれている、そういう意味において自分自身への問いも帯びたものとならざるを得ないのです。
 しかし、ウェーバーがそんな上っ面の客観性を自らの研究において行ってはいるわけではありません。カルヴィニズムに端を発する近代合理性の世界をまさに自分への問いとして扱っているのです。ここにも、『学問』と『倫理』の分裂が見られます。にもかかわらず、安易に『学問』を推薦図書として挙げる向きは…、あ、いい加減しつこいですか、ですね、まぁとにかく、そうしたウェーバーの分裂の問題こそ実は近代の問題に切り込む入り口なのです。一方では、近代資本主義の合理性に取り込まれることを拒みながら、他方で、その合理性の中でしか生きられないことを自覚し、だから、その合理性を邁進させていくような仕方で自らの在り方を規定していく。この分裂は、マルクスの宗教批判の前提とした、現実の人間がそれ自身としての在り方と抽象的に加工された在り方とに分裂させられている現状のウェーバー的現象となっているのです。
 つらつらと書き連ねてきて、もはや落とし所が行方不明になってしまったので、ついでにもう一つ。話は少し変わって、最近の共産思想絡みで著名な思想家にジジェクやバデュウと共にヴァッティモを挙げていいと思います。彼は『解釈学的共産主義 Comunismo hermenéutico: De Heidegger a Marx, Herder Editorial, 2012(スペイン語訳です、元は英語。邦訳があるかどうか調べていません、すいません)』なる著作に携わっていますが、その中で彼が語るのは「弱い共産主義」です。これは、イタリア共産党の瓦解を踏まえた上での議論なのですが、強い共産主義、すなわち、党の勢力を拡大して党の影響力を増大させようとして党員の増加と支持者の獲得に奔走するあまり、なりふり構わぬようになり、結果としてイタリア共産党の持ち味を他の左派政党に持っていかれて、最終的には崩壊したという問題を提起しています。何やら現在進行形で耳目にするニュースと良く似た話ではありますが、問題は政治団体がどうなるかなんぞではなくて、「弱い共産主義」の元にある彼の「弱い思想」についてです。『弱い思想』というヴァッティモの編著書は邦訳もされていますのが、彼はその「弱い思想」をハイデガーの「死への気づかい」から構想を得たと述べています。人間は死すべき存在であり、その死とは人間によってどうこうなしうるものではない唯一のものである。しかも、人間は日常を怠落的に生きているが死に気づくことにより、自分の限界を認めて、良心の呼び声によって本来的な自分へと戻る。すなわち、死という言わば主体によって構成不可能な事態こそが人間をその存在の根底において基礎づけている。だから人間は弱い存在であるのだとしています。
 ヴァッティモのハイデガー解釈はさしあたって置いておくとして、彼はハイデガーが言う人間の怠落的在り方をマルクスの疎外に絡めて考えていきます。これは、彼の自伝(現在未邦訳)でも語られています。しかし、それは無理な継ぎ接ぎではないかなと思ってしまいます。いや、もちろん、思想の自由はあるので、自由にあれこれ結びあわせていいと思いますよ、例えば、アウグスティヌスの『告白』と宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を組み合わせた知人のブログ日記は目から鱗でしたし、そういう従来見られない比較は面白いと思います。しかし、マルクスハイデガーの場合、問題の視点がまるで違います。ちょっと長くなりすぎてきたので論点だけ扱うなら、ハイデガーは怠落的在り方と本来的在り方とに分断して語っていますが、まさにその分断を行う視点こそがマルクスの批判の矛先です。そうした分裂を引き起こす事態にこそマルクスの批判は向かっていますが、ハイデガーはそうした分裂を前提に人間の実存の本来的在り方を考えていきます。個人的には、汗水まみれになりながら何とか日銭を稼いで生き繋げている日常を怠落的在り方と言う視点は何なのかが非常に気になる所です。だいたい、死への気づかいが出来るのはそれなりに日常が安定して保証されている階層の方々ぐらいで、こちらとしては半額弁当と自炊の間でやりくりしながら生き抜かなければならないのが現実なわけで、生きることそれ自体が問題の全てなのです。本来的な自分になんぞきづかなくてもいいので、何程か食事や生活にゆっくりとしたいものです。仮にハイデガーマルクスを組み合わせるなら、ハイデガー自身がマルクスについて語っているテキストを離れては実現できないと思いますので、いずれ機会を見て考えてみたいと思ってはいますが、「行けたら行く」的な感じでたぶんこの調子だとやらないんでしょうね。
 最後に。ここまで論じてきて今さらですが、宗教とはそもそも何でしょう。こういう時に取り上げられるのがアウグスティヌスの『真の宗教について』の一節、「我々の魂を神へと結びつけるreligare、そこから宗教religioneという語が考案された」(111)という定義です。これは言葉遊びの一種だと聞き流せない問題を孕んでいます。それは、現実に生きているこの現場ではなく、超越的な何処かを前提として語られてしまっているからです。ただ、アウグスティヌスという人は司教になってからは「貧しい者たちへの奉仕なくして支配者たることはありえない」という内容の書簡を書いた人ですので、宗教は単に心理的な問題ではなく、まさに魂つまり命の次元で捉えていたと言うこともできるでしょう。しかし、そうした本人の意図を離れて単に概念として消費されているのが実状です。そして、その理解内容が宗教の阿片たる所以を鮮明にしているのです。
 新約聖書に『ヤコブ書』なる書簡的体裁を後に整えられた文章があります。著者は伝統的にはイエス実弟たるヤコブということになっていますが、とりあえずその説を維持するのは内容的にも語学的にも無理です。この著者は質の高いギリシャ語を使いながら非常に批判的で理性的な目を教会構成員に向けています。その中に、宗教の問題を語っています。だいたいの翻訳では「信心」となっていますが、「心」の話ではありません。立ち振舞い、人間の行為の問題として宗教を論じています。そうであるから、人間にとっての宗教とは誰かに善いことを為すことになるのです。

  宗教的振る舞い、父なる神のもとで清くて純粋なそれとは、苦しめられている孤児や寡婦をよく看て、世のしみに汚されずに己れを保存することである。(『ヤコブ書』1:27、翻訳はネストレ26版から)

 マルクスの宗教批判が実現する先はまさにここにあるでしょう。知人からの受け売りで知った箇所ではありますが、二千年近く前の名も知らぬ誰かと同じ思いで世界を見ざるを得ないことに落胆しつつも、それでもこの世界を歴史を生き抜いてきた数多の人々と願いを共にしているのだと力づけられて、さらに問いを進めていきたいと思います。
 とりあえず、「宗教は民衆の阿片である」を巡る思索はここまで。ありがとうございました。

(了)