sekiwataruの日記

Ph.D(filosofia)のソリロキア

【論考】初期マルクスによる阿片としての宗教ー第6回

※第6回、続きです。今回が最終回です。

(続き)
 前回は、途中でスマホの充電がなくなりそうだったので妙な所で切り上げましたが、その続きとして、もう一度、ニーチェさん本人のテキストに戻って見てみましょうーテキストは前回に掲載してありますー。
 テキストでは、神を探す狂騒なる人間と神なぞに興味のない町民という設定がされています。言い換えれば、「神」という価値基盤の喪失を問いにする孤高な人と、そんなことには関心もなく毎日をわちゃわちゃ暮らしているその他大勢とに分けて描写しています。いわば、智者と愚者です。そして、「神の死」が問題になるのは智者であるのです。その意味で、批判は選ばれた智者のみが気づく事柄であり、愚者は大勢でわちゃわちゃしているだけです。これは、視点として、今まで見てきたマルクスの「宗教は民衆の阿片」とは全く異なります。マルクスは、民衆こそが批判の担い手となり、現実を批判して変革する主体となっています。まぁ、ニーチェさんの場合、かなり劇画的な場面設定ですので、余りぐちゃぐちゃと言い連ねるのは無粋かと思いますが、こうした場面設定などがニーチェさんが貴族主義的と言われる所以でありましょう。それはともかくとして、ニーチェさんとの比較によって明らかになるマルクスの視座とは、批判を遂行するのは大衆であるということです。
 話のついでに、あくまでも個人的にニーチェさんのテキストを読むなら、超越的な価値基盤がなくなったことをニーチェさんは詩的に表現しています。曰く、ニヒリズムの到来を告げるかのような「終わりのない無」、価値という文化を導く羅針盤を失って流離わねばならない現状を語るかのような「隙間なく夜が更なる夜が」、こうした表現、確かにドイツ神秘思想の大家であるエックハルトの言葉使いに似ていて、そうした点からドイツ文学を考えてみてもいいのかしらとは思ってみたりしますが、それはさておき、価値がなくなったことで新しい時代が言わば「無からの創造creatio ex nihilo」によって幕を開けるかのような躍動感があります。が、その後の言葉で肩透かしをくらいます。「俺たち自身が神々にならなきゃならないんじゃないのか?」せっかく、神が、天国がなくなって、頭上にはただ青空が開けたというのに、まだ権威者を必要とするんですか、なぞと感じなくもありません。ニーチェさん的には、権力を自らが掌握するような強靭な人間こそが真の在り方だと仰りたいのでしょうが、真の在り方なんぞ出来なくていいから、今日の食べ物と寝床がしっかりと確保されて幾ばくか安心できる日々を送りたいなと思ってしまいます。もちろん、「神」という超越的存在である価値基盤を外部に設定することと、私たち自身が神々になるという価値基盤を内部化することとでは方向性が違います。ただ、価値基盤を問題にして語り出すという意味においては同じ土俵の議論になってしまいます。このニーチェさんの話を読むと、人間というものは外であれ内であれ、結局は「神」という概念を作り出さざるを得ない悲しい運命を背負っているのだという虚無性を感じます。そうだとすると、ハイネの言葉の方が強烈な響きを持っているように思います。

  有神論は今だ生存している、生き生きとした生を生きている、全くもって死んでいない、新規のドイツ哲学が死なしめたなんぞというのはどうにもありそうもない。(Heine, H., "Zur Geschichte der Religion und Philosophie in Deutschland", Independently publishedの電子書籍版、2020,「第二版の序文」より)

 ハイネのこの言葉から50年足らずで「神は死んだ」と宣言したニーチェ。この間をどう考えるかもドイツ文学を問題にする上で一つの道標になりうるかもしれませんが、マルクスの宗教批判から言えるのは以下の点です。神は死んだと言い、しかし、それが最初から無かったものであることをしたり顔で断言するだけならば、何の意味もないでしょう。すなわち、何かの歌じゃないですが、神なんていないさ神なんて嘘さ、と嘲笑するだけでは、本当の意味での「神の死」にはなりえません。神を定置してそれを崇め奉り人々を強制する、そうした在り方を否定して脱却していく場においてこそ「神へのレクイエム」が奏でられうるのです。神を欲望する、これは人間の問題です。だから、問題は神ではありません。むしろ、神への欲望というものがぬぐい去り得ないという人間の現実から目をそらさず、神を生み出さざるを得ない人間の心性を倒錯していくこと、ここにこそ、全ての価値の価値転倒が存するのです。神というアプリをスマホからアンインストールするだけで、神への欲望の構造を内的に保存したまま、神への欲望が精神内的にこびりついていることに気づかない、そういう場合の方が「神の死」を語る言説には多いのです。ここを自覚的に脱却していくことが、これからの「神の死」の方向性だと考えています。
 さて、「神の死」はさしあたってこの辺りにして、マルクスの宗教批判の「宗教は民衆の阿片である」とは、宗教だけに留まらず、近代というものが人間の人間らしさを取り去り、観念的な次元へと解消していくという視座は「精神なき状態の精神」という表現にも現れているように思います。あるいは関係あるかもしれませんしあるいは関係ないかもしれませんが、このマルクスの言葉を聞くと思い出すのが、ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で最後から一つ前の段落終わりに語られるあの言葉、すなわち、

  それはそうと、こうした文化的発展の「最後の人々」にとっては以下の言葉が真理となるだろう。「精神なき専門人、心なき快楽人、この無なる者は、今まで到達されていない人間性の段階にまで登攀したのだとのぼせ上がる」と。(Weber, M., "Gesammelte Aufsaetze zur Religionssoziologie", I, J.C.B.Mohr, 1963, 203s.)

 ここでウェーバーが言う文化的発展とは、プロテスタンティズムーカルヴィニズムが形成した近代合理主義的精神性とそれに端を発する様々な思考習慣といったものを全てひっくるめています。そして、ウェーバーはそうした近代性がもたらしたものは、最初は確かに人間の合理性を進展させはしたものの、それが今や「鉄の檻」となって人間を締め上げている現状だと述べています。資本主義という合理的な経済体制、それは出発点は宗教的な禁欲精神による世俗世界での富の生産と蓄財であったものが、宗教的な意味が取り去られて営利活動が単なる競争の感情へと陥落していく、そういう様相が語られていると言えるでしょう。そうした近代の中では人は精神なき専門人となり、自己満足的事柄に興じるのだ、そんなふうにニヒリズム的な感覚でウェーバーは時代を見ています。
 これは非常に冷めた態度であり、近代資本主義の体制に飲み込まれることで失われていく気概とも言うべき自らの精神性を、それを認めたくないという気持ちと共にそれでも冷徹に記述しています。従って、ウェーバーの描く近代資本主義とは、非常に冷たく虚無感を伴って浮き上がらせられたものであるということになります。
 しかし、その一方で『職業としての学問』(既存の訳語に文句はありませんがBerufはウェーバーにとっては非常に特徴的使用をされる言葉で「召命」とも訳しうる概念でもあると指摘させて頂きます)では、専門に閉じこもれ、さすれば幸いを得るだろうとでも言わんばかりに専門化された職業人であることを声高らかに告げています(vgl., Weber, M., "Gesammelte Aufsaetze zur Wissenschaftlichslehre", J.C.B.Mohr, 1963, 588s.)。これは明らかにおかしい話です。さっきは専門化することへの悲観を語り、ここでは専門化の奨励がなされる。しかし、これがウェーバーの専門化という問題への態度です。時間が経ってウェーバーの態度が変化したわけでも、論述と演説だからレトリックを変えたわけでもなく、上記の内的に分裂した在り方がウェーバーの専門化に対する態度です。だから、『倫理』を読む時には『学問』を、『学問』を読む上では『倫理』を念頭に置かなければウェーバーの態度は理解できません。たまに、すごく表象的にウェーバーの『学問』を人様に無責任に薦める御仁がおられますが、それはきっちりとこうしたウェーバーの分裂問題に御自分の中でケリをつけての上でしょうね、と伺いたくなります。いや、この問題は私個人の素人考えではなくて有名な話です。知らないではすまされません。まぁ、こういうややこしい問題が出たら無視してとにかくウェーバーの権威を借りて自分は知ってるぞと言いたいがためにとりあえず推薦しとけという態度には、なんと言いますか。
 それはともかく、これを専門化が問題ではなくて世間知と専門知の分断が問題なのだ、だから学際的研究をもしくは一般社会に学問の開放を、という向きもありますが、その世間知の担い手たる大衆の一人としては、そういう分け方自体が学者先生の上から目線を内包していて非常にむず痒く思います。というよりも、ウェーバーが問題にしているのは、「専門化」それ自体、すなわち、上で区分した両者共が近代合理化の枠内に定置されて発展してきたことにより生じた現実である専門化であるのであって、分け目を変えれば変わりますというのはせいぜい髪型ぐらいの話です。
 しかも、ウェーバーが学問の価値自由を語るなかで専門化された教授内容を民主主義を例に挙げて以下のように語りだします。

  そこで、「民主主義」について何かを語るとするならば、それの様々な形態を取り上げて、それがどのように機能するのかという仕方について分析をして、どのように生活関係のあれこれに個々の帰結が生じるのかを確証して、それで、非民主主義的な形態である政治的秩序を民主主義的形態に対峙させて説明して、聴衆が自分たちの究極の理想から立ち位置を取る立場にいる、それが見られるそういうことに至るまで広げられるのである。(ibid, 601s.)

 こんな長い文を聞かされる講演はちょっと遠慮したいなと思いますが、それはそれとして、『学問』を御推薦される方は本当にこのウェーバーの言ってることに同意されるのでしょうか。これは天下のウェーバー様だからこそ語り継がれてきたものですが、そうでなければ民主主義というものをもう一度勉強し直すように促されかねない内容です。ウェーバーの問題点は、ニーチェの時にも同じような話をしましたが、民主主義をそれが生成されてきた現場から切り離して論じることは本来的には不可能です。切り離して語れば客観的だと考えるなら、その客観性は単なる上っ面であり、語り手によってどうにでも構成しうるように加工されたものでしかありません。何処其処の民主主義は、その何処其処性によって生成されたものであり、あらゆる問題を背後に持っている事態なのであり、それはもはや何処其処の民主主義を取り上げたという主体の側の問題意識が含まれている、そういう意味において自分自身への問いも帯びたものとならざるを得ないのです。
 しかし、ウェーバーがそんな上っ面の客観性を自らの研究において行ってはいるわけではありません。カルヴィニズムに端を発する近代合理性の世界をまさに自分への問いとして扱っているのです。ここにも、『学問』と『倫理』の分裂が見られます。にもかかわらず、安易に『学問』を推薦図書として挙げる向きは…、あ、いい加減しつこいですか、ですね、まぁとにかく、そうしたウェーバーの分裂の問題こそ実は近代の問題に切り込む入り口なのです。一方では、近代資本主義の合理性に取り込まれることを拒みながら、他方で、その合理性の中でしか生きられないことを自覚し、だから、その合理性を邁進させていくような仕方で自らの在り方を規定していく。この分裂は、マルクスの宗教批判の前提とした、現実の人間がそれ自身としての在り方と抽象的に加工された在り方とに分裂させられている現状のウェーバー的現象となっているのです。
 つらつらと書き連ねてきて、もはや落とし所が行方不明になってしまったので、ついでにもう一つ。話は少し変わって、最近の共産思想絡みで著名な思想家にジジェクやバデュウと共にヴァッティモを挙げていいと思います。彼は『解釈学的共産主義 Comunismo hermenéutico: De Heidegger a Marx, Herder Editorial, 2012(スペイン語訳です、元は英語。邦訳があるかどうか調べていません、すいません)』なる著作に携わっていますが、その中で彼が語るのは「弱い共産主義」です。これは、イタリア共産党の瓦解を踏まえた上での議論なのですが、強い共産主義、すなわち、党の勢力を拡大して党の影響力を増大させようとして党員の増加と支持者の獲得に奔走するあまり、なりふり構わぬようになり、結果としてイタリア共産党の持ち味を他の左派政党に持っていかれて、最終的には崩壊したという問題を提起しています。何やら現在進行形で耳目にするニュースと良く似た話ではありますが、問題は政治団体がどうなるかなんぞではなくて、「弱い共産主義」の元にある彼の「弱い思想」についてです。『弱い思想』というヴァッティモの編著書は邦訳もされていますのが、彼はその「弱い思想」をハイデガーの「死への気づかい」から構想を得たと述べています。人間は死すべき存在であり、その死とは人間によってどうこうなしうるものではない唯一のものである。しかも、人間は日常を怠落的に生きているが死に気づくことにより、自分の限界を認めて、良心の呼び声によって本来的な自分へと戻る。すなわち、死という言わば主体によって構成不可能な事態こそが人間をその存在の根底において基礎づけている。だから人間は弱い存在であるのだとしています。
 ヴァッティモのハイデガー解釈はさしあたって置いておくとして、彼はハイデガーが言う人間の怠落的在り方をマルクスの疎外に絡めて考えていきます。これは、彼の自伝(現在未邦訳)でも語られています。しかし、それは無理な継ぎ接ぎではないかなと思ってしまいます。いや、もちろん、思想の自由はあるので、自由にあれこれ結びあわせていいと思いますよ、例えば、アウグスティヌスの『告白』と宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を組み合わせた知人のブログ日記は目から鱗でしたし、そういう従来見られない比較は面白いと思います。しかし、マルクスハイデガーの場合、問題の視点がまるで違います。ちょっと長くなりすぎてきたので論点だけ扱うなら、ハイデガーは怠落的在り方と本来的在り方とに分断して語っていますが、まさにその分断を行う視点こそがマルクスの批判の矛先です。そうした分裂を引き起こす事態にこそマルクスの批判は向かっていますが、ハイデガーはそうした分裂を前提に人間の実存の本来的在り方を考えていきます。個人的には、汗水まみれになりながら何とか日銭を稼いで生き繋げている日常を怠落的在り方と言う視点は何なのかが非常に気になる所です。だいたい、死への気づかいが出来るのはそれなりに日常が安定して保証されている階層の方々ぐらいで、こちらとしては半額弁当と自炊の間でやりくりしながら生き抜かなければならないのが現実なわけで、生きることそれ自体が問題の全てなのです。本来的な自分になんぞきづかなくてもいいので、何程か食事や生活にゆっくりとしたいものです。仮にハイデガーマルクスを組み合わせるなら、ハイデガー自身がマルクスについて語っているテキストを離れては実現できないと思いますので、いずれ機会を見て考えてみたいと思ってはいますが、「行けたら行く」的な感じでたぶんこの調子だとやらないんでしょうね。
 最後に。ここまで論じてきて今さらですが、宗教とはそもそも何でしょう。こういう時に取り上げられるのがアウグスティヌスの『真の宗教について』の一節、「我々の魂を神へと結びつけるreligare、そこから宗教religioneという語が考案された」(111)という定義です。これは言葉遊びの一種だと聞き流せない問題を孕んでいます。それは、現実に生きているこの現場ではなく、超越的な何処かを前提として語られてしまっているからです。ただ、アウグスティヌスという人は司教になってからは「貧しい者たちへの奉仕なくして支配者たることはありえない」という内容の書簡を書いた人ですので、宗教は単に心理的な問題ではなく、まさに魂つまり命の次元で捉えていたと言うこともできるでしょう。しかし、そうした本人の意図を離れて単に概念として消費されているのが実状です。そして、その理解内容が宗教の阿片たる所以を鮮明にしているのです。
 新約聖書に『ヤコブ書』なる書簡的体裁を後に整えられた文章があります。著者は伝統的にはイエス実弟たるヤコブということになっていますが、とりあえずその説を維持するのは内容的にも語学的にも無理です。この著者は質の高いギリシャ語を使いながら非常に批判的で理性的な目を教会構成員に向けています。その中に、宗教の問題を語っています。だいたいの翻訳では「信心」となっていますが、「心」の話ではありません。立ち振舞い、人間の行為の問題として宗教を論じています。そうであるから、人間にとっての宗教とは誰かに善いことを為すことになるのです。

  宗教的振る舞い、父なる神のもとで清くて純粋なそれとは、苦しめられている孤児や寡婦をよく看て、世のしみに汚されずに己れを保存することである。(『ヤコブ書』1:27、翻訳はネストレ26版から)

 マルクスの宗教批判が実現する先はまさにここにあるでしょう。知人からの受け売りで知った箇所ではありますが、二千年近く前の名も知らぬ誰かと同じ思いで世界を見ざるを得ないことに落胆しつつも、それでもこの世界を歴史を生き抜いてきた数多の人々と願いを共にしているのだと力づけられて、さらに問いを進めていきたいと思います。
 とりあえず、「宗教は民衆の阿片である」を巡る思索はここまで。ありがとうございました。

(了)