sekiwataruの日記

Ph.D(filosofia)のソリロキア

【論考】初期マルクスによる阿片としての宗教ー第5回

※第5回です。公開した後でも、ちょっと手を入れて修正します、すいません。今回の話が長くなりましたので、あともう一回だけやります。

結びにかえて、マルクス宗教批判の射程

 今まで、「宗教は民衆の阿片である」というマルクスの宗教批判を巡って、「マルクスは宗教を良い物だと言っている」という的外れな言葉を手がかりとして、まず宗教を阿片という語によって批判することはドイツ思想界では珍しいものではないことを資料から示し、次に「マルクスは宗教を良い物だと言っている」という解釈がマルクスの言説についての論考ではなく非常に政治的意図にまみれたものであることを論じ、その上でマルクス本人の文を読んできました。そこから分かったことは、マルクスは宗教が人間を天上的次元と地上的次元とに観念的に分裂させ、それから、全ての問題を天上的次元へと還元していく構造を持ったものであることを示唆していたのが「宗教は民衆の阿片である」という文であったことを明らかにしました。そして、その宗教の構造はまさに現実の世俗的民主主義国家が民衆を扱う仕方を映し出しているために、宗教を乗り越えていくその道筋が現実の問題を変えていくための端緒となるとマルクスが考えていたことを論じました。結果として、マルクスはそもそも宗教を良し悪しの視点で語っているのではないこと、だから、「マルクスは宗教を良い物だと言っている」という見方自体がマルクスを全く理解していないものであること、さらに、マルクスの宗教批判は現実批判であるがゆえにそれを理解できないまま「マルクスは宗教を良い物だと言っている」と主張するような集団は現実を変革する視座に欠けていてそれを語る資格なぞないことを見てきました。さて、今回は、そんなマルクスの宗教批判の射程を他の思想家と比べながら省察してみたいと思います。
 マルクスの問題意識は常に現実に向いていた、そのことは確かです。「宗教は民衆の阿片である」という文が書かれている『ヘーゲル法哲学批判序説』は、頁の至るところでドイツの後進性が問われ、そこからの脱却が模索されています。まぁこうした探究をどこかにあるらしい美しい国で今やったとしたら自虐的だの反国的だの言われそうですが、そうした御仁は何方かの言った言葉を御自分が知ってる限りで我田引水的に引用して何処かで聞いた用語で主観的なレッテル張りをなさるだけ、言ってしまえば観念的に自己疎外しているだけなので、観念的ジャンクフード漬けから抜け出して頂きたいものです。
 話はそれましたが、そういう視座をマルクスの宗教批判は持っています。ですから、例えば前回引用したPaul, J.-M.さんの著書のタイトル『ドイツにおける神の死』から想起される大人気哲学者のあの方とは一線を画していると言えます。「神の死」と言えば、1960年代以降にアメリカの神学者の中で「神の死の神学」なぞと言うものが流行りました。今でも、保守的なキリスト教神学者、とりわけ教会制度絶対主義の皆様は「神の死」を唱えた彼のことを愛好されているのを見かけます。これは、マルクスウェーバーなどといった社会科学者の書物をお読みになっていることを矢鱈と吹聴して御自身を「客観的」と僣する御仁ほど、その実はどす黒い他者否定欲求に汚染された差別的排他主義者で自己絶対主義者である本性が剥き出しになっている場合が多々あるのと同様です。根本は、御自分たちの頭の中だけにしか存在しない「絶対的なるもの」が現実にあると妄想し、そんな自己に陶酔しきっているのでそれに少しでも反していると烈火の如くに怒り散らすという傍迷惑な心性です。それはともかくとして、「神の死の神学」はアメリカ的な世俗化の問題を明らかにしつつ、しかし、その世俗化の向かう先である官僚制的な管理体制については無批判で提示し、しかも、神の意志としてそれを呼ばわるという愚をおかしています。
 これは、そもそも神学者の皆様が「神の死」ということをきっちりと自分たちの問題意識にしていないでただ言葉だけを観念的に借りてきたことに、一方では原因があります。しかし、他方では、「神の死」がそもそも観念的に語られているということにも原因があります。
 まぁ別に名前を誤魔化す必要はないわけでして、リクールという現代哲学者は彼とマルクスフロイトを「仮面を剥ぐ哲学者」として挙げて論じています("De l'interpretation. Essai sur Freud", Ed. du Seuil, 1965)。ちなみに、邦訳タイトルは『フロイトを読む』でして稀に心理学のコーナーに置いてありますのでご注意を。リクールは、全く異なるこれらの思想家を繋ぐ糸は脱神話化にあるとしています。まぁ、リクールさんほどの独自の思想をお持ちの方になれば御自分の視点から興味深い議論を構成されるのでしょうが、私のような凡人はただテキストに対峙することで手一杯です。ですので、まずは「神の死」が語られるテキストを読んでみましょう。長いので飛ばし飛ばしになっています。

  狂騒なる人間ー君たちはあの狂騒なる人間を聞かなかったか…「俺は神を探している!俺は神を探している!」…「神が何処にいるかだと?ー彼は叫んだー俺がそれを言ってやるよ!俺たちが奴を殺したんだ!そうだ、お前たちと俺が!俺たち皆が殺害者だ!でもどうやってそれを成したんだ?…俺たちは終わりのない無の中を歩いているんじゃないのか?…隙間なく夜が更なる夜がくるんじゃないのか?…神も腐敗するのさ!神は死んだ!神は死んだのだ!そうさ、俺たちが奴を殺したのさ!…こんなヤマは俺たちには尊大すぎじゃないのか?俺たち自身が神々にならなきゃならないんじゃないのかい、これを現にするに価するためには、な?
(Nietzsche, F., "Saemtliche Werke", III, Deutscher Taschenbuch Verlag, 1988, 481s.)

 何でしょうか、訳していると凄く疲れます。古代ギリシャの文献学者として名を馳せただけあって、文章が軽快でそれでいて重厚で、若い方々が魅惑されるのも分かります。これは、『悦ばしき知恵』と訳されるアフォリズムの125番です。ちなみに、知恵とはドイツ語でWissenschaftエンゲルスさんが拘り抜いた「科学的社会主義」の科学的はwissenschaftlicherですので同じ言葉となっています。それはともかく、この一節を読むだけで、ニーチェマルクスの視座はやはり違うものであることは極めて明瞭です。どちらが好きかとかそういう主観的な問題はとりあえず置いておいて、少し考えてみましょう。素人の浅知恵ですが、まぁご寛容の程を。
 ここでの「神」は、ヨーロッパ文化を支えて来た根底的な価値意識を示していることは、深く考えずともぼんやり分かります。逆に言えば、根底的な価値は、そもそもが人間を超えて先在するようなものではなく、人間の欲望によって生ぜせしめられたものであること、人間が作り上げたものに過ぎない、だから、人間が生殺与奪をなしうるのです。つまり、「神が死んだ」というのは、神は人間が殺しうる存在であること、人間の手で生成も破壊も成し得るものであることを前提としているのです。だから、ヨーロッパの価値体系に組み込まれている諸概念、古くは存在だの真理だの善だの正義だの愛だの近代で言えば資本主義だの民主主義だのといった諸概念は、超越論的に人間を規定するものではなく、人間がその時その時の欲望に応じた形で作り出したものに過ぎないことが暴かれるわけです。例えば、平凡社ライブラリーから再販されたセリグマン著『魔法』の中世の辺りを読めば分かりますが、聖人の奇跡や聖母の出現など、それらは全て中世の人々の欲望の裏返しになっています。宗教的な奇跡物語が人間の欲求を調整したのではなく、逆にそうした物語は人間の欲望の映し鏡なのです。話は脇道ですが、現代のサブカルチャーもこれと同じ構造であると言えます。だから、サブカルチャーの表現をいくら規制したところで人間の欲望の構造それ自体を変えることなしには、差別や偏見を失くすことはできません。
 あと、上記の引用には出てきませんが、ニーチェの有名なフレーズとしては、怨念つまりルサンチマンがあります。その視点は、例えば正義や平等を語ることの胡散臭さの要因はその語る人間の欲望がこびりついているからであるという理解でいいんじゃないかと思っていますが、それもこの「神は死んだ」という叫びの内に内包されていると言えるでしょう。
 こうして見てみると、やはりニーチェさんは文芸批評に鋭い視線をお持ちですなと感服する一方で、ちょっと図式的に取り上げすぎじゃないかなとも思ってみたりしています。というのも、様々な価値は抽象的な文献において生じたわけではなく、現実の人間の欲望の反映であるわけです。だとすれば、まずやるべきは価値が語られている現場へとそれらの言葉を戻すことです。各々の歴史的現場に合わせて諸概念の生成過程を精査して、その上で様々な問題を指摘すべきではないかと思うのです。だから、凡庸なニーチェ解釈が「正義は胡散臭い」という結論部だけを取り出してそれを一般命題にしてしまっていますが、それは結局、「正義は胡散臭い」と語るその語り手の欲望を裏返して映し出しただけの主観的雑言でしかなくなってしまうのです。だいいち、そうした諸概念は人間の抵抗の現実から編み出されたものであることが多く、ヨーロッパ文化を支えて来た価値は抽象的概念であるような理解をこそ、叩いていく必要があるでしょう。
 その意味で、ニーチェさん本人ではなくてニーチェ流の論法というものは、言っている内容こそ違えど、宗教が現実の問題を観念の次元へと追いやり、その次元の中で現実を反映しないままねじ曲げて提示する構造と同じことになってしまっています。だからでしょうね、ニーチェ的な「神の死」を好む神学者やら宗教家やらの多いこと。それは、宗教も「神の死」も、同様に現実を現実として見ることを止めさせて、都合よく加工した幻想の中で事態を語っているのに過ぎないからです。
 とりあえず、ニーチェさんというよりもニーチェさんに追従なさる方々の問題は、マルクスの宗教批判の視座とは全く異なる、というよりもマルクスの批判対象そのものだと言うことが明らかになったと思います。

(続く)