sekiwataruの日記

Ph.D(filosofia)のソリロキア

無神論者の読む『聖書』ー『ルカ福音書』2:14「地に平和」【後編】

 地に平和、すなわち抽象的観念の場でではなく、実際に人間が生きているその現場でこそ平和を遂行する。『ルカ福音書』2:14が語る平和はまさにそれを基点としているのであって暗夜を放浪するが如く彷徨する人間に負わされた苦痛を除去する為にこそ平和を語るべきという実践の端緒として示されるものであるが故に、通俗的リベラルが語る"平和"というもののように彼らによって概念的に歪曲された"憲法"だの"民主主義"だのを理由にしている観点的事態とは全く異なるのです。
 というのも、平和を言う、しかしその平和を言う根底にはその元締めである前述したハンバーガー提供国の平和にすり寄り、その同じ平和を唱えることで元締めが垂れ流す資本の恩恵に与らんと目論む欲望が蠢いており、実際の人間の苦痛を"憲法"だの"民主主義"だのという想念の場に吸収してしまい、抽象的に数値化して、個別的実情には目もくれないからです。これが良いとか悪いとかを言いたいわけではありません。むしろ、問題は同じ平和を唱えさえすれば彼らが享受する資本の恩恵に与ることを可能にする構造がどのようにして成り立っているかです。あるいは逆で、彼らの資本の恩恵に与っている現状を自己肯定しようとせんが故にハンバーガー提供国由来の平和は良いと思うのか。いずれにせよ、彼らが妄想する平和が普遍的で追求すべき価値であるという仕方で"思い込んで"しまう所に問題があるのです。それを乗り越える為の道筋を、全ての人々の苦痛を共通に解消すべきものであって何れの陣営に与すれば手に入るものではないという仕方で、私たちの箇所は示しています。
 私たちは、ここ数年のうちに大きなうねりを経験し、そこに由来するどうしようもない苦痛と不安に直面しています。夜は寒さに凍えて、すきま風を子守唄代わりに耳にしながら朝が来るまで眠るともなく時が過ぎるのを待つしかない生き方の内に投げ込まれている方々がいる一方で、「やさしい」だの「強い」だのと軽薄で浮泛な言葉で大衆を拐かす団体の領袖はクラシック音楽を聴きながら暖房と音響設備の整った部屋でゆったりとすやすやおねんねなさっていることを臆面もなく世間に吹聴なさる、しかもそれを称賛して追従することに何の戸惑いもない取り巻き集塊もいる。こうした現実の中ではもはや政治屋なぞ政党なぞ議会なぞ只の学級会の御遊戯の延長に過ぎぬのだと実感してそれに見切りをつけ、その一方で、自分自身が時代の混乱の力によって壊されていき、その力に為す術もなく流されるだけだと感じてしまう。そんな日常の即ち自分の実存全てがそこにかかっている現場での不安は何らかの寄る辺を探して流離うことを私たちに強制する。その寄る辺polisを作り上げることが本来的な政治politikaであるはずが、逆にそうした大衆の不安を上手く利用して誘導することで一つの観念的共同体に取り込む。ここに敵味方に分断していく思考を成立させる歴史的条件を見るのであって、今の時代における"平和"の言説が大衆の不安を煽って強固な一つのイデオロギー体を形成してそこから他を見下す為の観念装置に過ぎないのだということが鮮明になるのです。
 矢鱈と国名を出しては一方を持ち上げて他方を腐すやり方を自称コミュニスト集団がやっている、これは大衆の不安の上に胡座をかいて自らの団体とその中央に鎮座まします"御神体"の如き領袖の安寧と存続を企むことであり、そこでの"平和"はその内実が理性的に問われることなく、何かの呪文のように決まりきった文句を反復するのみであって、それはすなわち"平和"と唱える団体への帰属意識のみが大事となっていることを示しています。つまり、劣悪な種類の狂信者と化していき、何ゆえコミュニストの唱える"平和"が必要とされるのかという思考のないままに或いは何の根拠も哲学もないままにコミュニスト政党でなければならないのだと傾倒して頑強に固執する、これは阿片たる宗教の脱宗教化した現象であるのです。そして、その故にコミュニスト団体とその御仲間の提唱する"平和"以外を十把一絡げにして否定する。あれもだめこれもだめ、反党分子は追い出せ、反対言説は潰せ、ある意味でこれは歴史が示してきた悲しき人間の在り様なのです。これを乗り越えて自ら自身が平和の担い手となることなしに平和を唱えることなぞ無理なのにも関わらず。
 このようにして考えると、平和というものをある種の限定状況の内に語ることの危うさが見えてきます。ある特定の状況で語られる"平和"とは敵味方の分断を帰結します。平和的解決なんぞと言う胡散臭い言葉の具体化は経済制裁とかいうものであったりしますが、それを行って困るのは全ての国の大衆であって、それで利するのは例えばハンバーガー提供国の大資本家であったり、その関連する企業であったりするのです。そういう現実を見ることなしに普段は"対なんちゃら追従反対"とか口幅ったく語っている擬似コミュニスト連中は結局の所ハンバーガー提供国に媚び諂っているのと何ら違いはなく、そしてその盲信的追従集団はそんな事を露ほども気にすることなく上位団体が押しつける"平和"だの"憲法"だのと空語を振りかざしては自らの生で本来的に立ち向かわねばならぬ不安を安心へと上意下達の団体に属しているだけで解消して自己満足しているだけの様相を呈しているのです。謂わば、世間の趨勢あるいは"勝ち馬"に乗っかってー経済学で言うフリーライダーというものー、戦争を生み出しているその根本原因であるハンバーガー提供国内の軍備拡張を批判することすらなく同じ陣営に嬉々として没入して、そのくせまるで自分たちが"平和"を創設しているかのように世間を誑かしているだけです。いや、あんたらのやるべきことは他にあるだろうよ、あんたらが腐している国の労働者が追いやられている劣悪な状況をひっくり返すことなしにその国の軍事的状況を転換することは出来ないのだから、そうした人間の現実的な生き様を変えること抜きに只その国の上っ面に出てくる部分のみを論う権利なぞあんたらのどこにも無いのだよ、と言い放ちたくなります。
 こうした点、つまり平和が本来的に立ち向かわねばならぬ点の思考可能性を開示するものがまさに私たちの箇所なのです。語られている場面設定を見てみます。暗く寒い夜ー古代ですから本当に灯り一つ無い夜ーに屋外で働くことを余儀無くされている人々にこそ「地に平和」と告げられているのです。すなわち、平和がもたらされるべき人とは、劣悪な労働環境の中で文字通り心身を磨り減らしながら日々の糧を繋ぐ為に働かざるを得ない人、さらに言えば、働くということがその人がその人として大切にされるべき事態ー換言すれば「人格」ーを奪い取って物として扱われることを直ちに意味するような世界に投げ込まれて、深淵の闇の中に沈み込まされて自分の居場所すら追いやられている人ー働けようが働けまいが関係なくー、そういう人であるのです。通俗的コミュニストが自分たちに都合の良い"労働者"のみを相手にしてただ物として機械として"働く"ことを基底となして世間を判断するような"肩書き"や"所属"でしか人を見ていない視点とは決定的に異なり、誰からも見つけてもらえぬ程に暗い闇の中に居ざるを得ない人、そうした根本的な人間の苦痛をこそ癒して取り除くものだとして平和を語っているのが私たちの箇所です。それに反して、"平和"だの"憲法"だの"民主主義"だのと壊れた蓄音機よろしく連呼することで自分たちの不安や不満ややるせなさを帰属意識で安心することで紛らわし、そうしたルサンチマンイデオロギー化して一つの集団を作っては自分たちこそが平和を享受するに相応しいと自己欺瞞を犯している集塊が語る"平和"とは只の独善的自己言明に過ぎないのです。この点において、進化論を否定して創造論こそが真理だと語りかたがる心性と類似しています。というのも、創造論は"聖書"の文句に、かの集塊は"憲法"の文言に、そうしたエクリチュールに隷属さえすれば何の探究もせず何の葛藤もせずに世間よりも知の観点の内に上位に立って大衆を見下しうると思い上がる、そういう点において、両者は共通しているのです。
 しかし、私たちの箇所で語られる平和とは、そうした何らかの集団や組織に従い、さらに自分の苦しみや痛みの除去よりも団体教義にこそ自分の意識を集中させながら隷属することを根本的動機とする集塊の玩具として持て囃している妄言としての"平和"とまるきり違う位相にあるものです。私たちの箇所では、無条件で無制約的なものとして平和が提示されています。これは対になっているのが「栄光」ということからも明らかです。この栄光doxaですが、これは反映という意味の語で、神の反映を即ち栄光としてキリスト教用語では訳が定着しています。従って、神の神たることの内実の映し、あるいは人が神という概念を考案した際にそこに込めた希求、さらに言えば人が絶対者というものを思索する上でその本質たる無条件性や普遍性を具体化した事態と対になるものが平和として語られているのです。換言すれば、平和とは敵味方を分断して片方に肩入れして片方を傷める事を企てる為の方便ではなく、そうした分断や区別といった人間の側によって構成された観念的事行以前の或いは観念を乗り越えた剥き出しの人間に向けて現実化すべきものであるのです。哲学的用語を使うなら、定言命法としての平和といった形式的で抽象的な命法として私たちに対して現存するものではなく、実際の力として、この世界を支配する暴力的に人を踏みにじる権勢を吹き飛ばす力として、私たちを根底から生かしなおす力として在るものが平和の内実だということです。だから、国や種族や性別や年齢や収入や思想や所属によって条件づけられるものではなく、人が人として在るそのことに因って誰もが共通にその該当者となるものなのです。
 先ほど少し触れましたがビザンチン系写本の3行詩は、この点を考える上で興味深い含意を個人的に感じるのですが、即ちそこでは「地に」平和と謳われています。人の中だけにでなく地に。草も花も木も鳥も虫も動物も、そうした生きとし生けるもの全てに「平和」と告げらることになっています。実際、私たちの箇所では羊飼いに語られているのですから、一緒に羊がいることでしょう。或いは、牧草も大地を這う虫も。そうした地に在る全てのものを含んでこそ平和であると考える時、平和とは今ここにある景色に映るものを失いたくない、この空の下で生きている命を守りたいという思いから語られているのだと気づかされます。"民主主義"だの"主権"だのといった観念的で抽象的な妄想からしか"平和"を語れない集塊がこうした点を気にもしない割に調子合わせで"気候変動"だの"自然環境"だのと口にしても本心では実際の問題性を意に介しておらず、たかだか数値上のやりくり程度でしか意識していないのだということが暴露されるのです。平和というものこそが自然を考える為の基点となる、そういうことをビザンチン系写本は教えてくれます。
 私たちの写本の2対詩では「人」に向けられており、その意味で3行詩では自然と同等なる位相から語られている一方で、こちらは人間は自然のつまり地の中に投げ込まれていることが謳われ、自然から受動的にその生を維持する術を与えられていることが示唆されています。"エコロジー"だの何だのと言って人間のみが能動的に自然を守ってやれる或いは自然をコントロールしてやれるという何様意識が見え隠れするのとは全然異なる方向性です。謂わば、平和とは誰かー政治団体だとか官僚だとか学者連中だとかのテクノクラートどもーが設計主義的に上から大衆に啓示するようなものではなく、一人一人が今生きている中で被っている悲しみや痛みを少しでもいいから取り除いていくことで実現されるものーマルクスの言葉を借りるなら受苦的存在としての個人がその必要に応じてその能力に即してということになりますー、こうした事態が平和の内実として私たちの箇所で語られているのです。
 まだまだ色々と考えてそれを実践に向けていかねばならぬことが多くありますが、今回は序説的に語るに留めておきます。最後に余談というか蛇足というかですが、本当に最近の美しい国と呼ばれる地域に生息する建前だけのコミュニスト団体の妄言は呆れるものがあります。その"平和"が如何に軽佻浮薄かは語りましたが、そこから派生して彼らの示す社会変換の為の"政策"なるものの現実味のなさたるや。賃金を上げよう、労働時間を短縮しよう、そういう前世紀の東欧国家社会主義国で散々実施されてきた政策の二番煎じのような外皮的なことばかり声高に叫んでおられるようですが、いくらそうした数値上のことを操作したからとて生きることの根底に存する労働が"物として働かされる"次元から解き放たれない限り、本来の共産主義が目指すべき、労働というものが世界の内で実際に価値を作り上げていること、だからこそ働く者たちが自分たちの社会や現実を作っているのだと働く当事者自身が心から感じてそれを実践することができる生き様には到底到達しえぬのです。世を動かしているのは政治屋でも投資家でもなく名もなき人々の汗と涙なのです。これを基盤としえぬままコミュニストと僭称するのは表現の自由が保障されている範囲で御随意にですが、その結果は東欧国家社会主義国がどうなったかと同じ事になる御自覚の上でという感じです。こうした点、即ち労働する者が自らの労働を自ら自身のものとする為の実践は如何にして可能かという点も「地に平和」から探究せねばならぬ問いではありますが、それはそれでまたいずれ。