sekiwataruの日記

Ph.D(filosofia)のソリロキア

【論考】初期マルクスによる阿片としての宗教ー第3回

※第3回、続きです。前回、前々回は文献サーヴェイが主でしたが、今回は思いつくままに文章を書いています。話があちこち飛んですいません。あと、暖房の節約生活をしているので手が悴んで誤字脱字がいつもより3割増しになっています、重ね重ねすいません。

3、「宗教は民衆の阿片である」そのテキストの読解

 色々と周辺的な事柄に触れてマルクスの言葉の問題射程をぼんやりとではありますが少しずつ明らかにしてきました。以下で、マルクス本人の言葉を聞いてみましょう。その前に一つだけ。あくまでも「マルクスの周辺は阿片という語で宗教を批判したかもしれないが、マルクス本人は違う。マルクスは宗教を良い物だと言っているのだ」と頑強に御主張なさりたい方もおいでかと思いますが、マルクスの言葉が周辺の言説と違うことは確かです。マルクスの言葉は宗教批判でありますが、単に宗教を問題にしてその作用を批判しているのではありません。マルクスは、宗教批判を通して現実の批判をしているのです。その辺りを念頭に置いた上で、どうぞ。

  "宗教の"不幸は、一つには現実の不幸の"表現"であり、一つには現実の不幸に向かう"抗議"である。宗教は抑圧された被造物の溜息であり、心なき世界の心情であって、同じく、精神なき状態の精神である。それは民衆の"阿片"である。(KMWS, I, 488s.原文で斜体イタリックになっている単語を""で囲んであります)

 この言葉が出てくる『ヘーゲル法哲学批判序説』の時代状況については、岩波文庫訳の城塚昇氏による訳者解説が詳しいのでそちらをご参考に。この明らかな文章を「マルクスは宗教を良い物だと言っている」と解説なさる方々がいるのだから大した神経だなぁと感心しますが、そういう方々は自分たちの主義主張とそれに由来する利権に合致させるために色々と無理難題を仰って周りの人々を疲弊させているのではと心配になります。それはともかく、この散文調に整えられた文体から、マルクスが宗教に積極的な役割を見ていないことが分かります。
 マルクスは言います、宗教とは現実の、つまり実際にこの世で生きている人間の苦しみや痛みを表現したものなのだと。表現、この語がさしあたって考えるための手がかりになります。表へ―現す、あるいはAus-druck外へ―圧出、文字通り目に見える形へと加工されたものが表現という言葉の語意です。換言すれば、表現することは、その指示対象それ自体をそれとして把握することではありません。その対象を認識主体にとって認識可能な鋳型へと落とし込む、すなわち、形式的に作り上げられた表象形態なのです。ゆえに、宗教とは、宗教の形式に依拠して人間の苦悩を規定しているのです。人間は有限的な存在であり、従って本来的に認識論的限界性を帯びています。この事実から、宗教は有限的存在に対立する無限的ないし超越的存在を想定します―有限が有限であるのは無限によって根拠づけられるからだというのが大まかな理由づけです―。そして、宗教の形式とは、超越的存在へと人間はあたかもその限界を突破しうるかのように定置し、世界内的な問題を霧消するものとしての絶対的次元―そんな立場から人間が語り得るはずもないにもかかわらず―から語るのです。人間の限界ある理性では決して到達しえない事態へと押し出す、従って人間の現実的な苦悩を問題の外へと追いやってしまう。これが、宗教的に加工された苦悩の内実なのです。
 こういうふうに書くと、なんとなく宗教は観念的なものであってそのために現実的なものと対峙しているということ、すなわち、観念と現実の二項対立の図式、そういうものとしてマルクスの宗教批判が成されているかのように見えてしまいますが、そうではありません―論述の仕方が下手くそですいません―。そうではなく、上述したように、人間は有限的存在です。従って、状況に投げ込まれ、その投げ込まれた構造の中で生を遂行していきます。その投げ込まれる過程で、人間は個人としてのそれ自体の在り方から、他の人間にとって把握可能な形式の中へと処理されていきます。つまり、人間は現実の場において、本来的な人間と形式化された人間とに分裂しているのです。別言すれば、私たちは各々、存在としては固有であり代替不可能です。しかし、資本主義社会の中においては、偏差値やら収入やらの数値的仕方によって社会的に規定されます。そのために、本来的には代替不可能な人間を収入やら何やらの数値で代替可能なものへと変容させられているのです。この分裂が宗教においてその論理によって映し出されている、しかし、宗教的論理では事態を有限と無限という形式によって捉え、人間を無限に触れうる存在であるかのように考えることで有限的事態が解消されるとするが、本当はそうした仕方で考えること自体が現実から解離しており、その結果、実際に人間が苦しんでいる現実は隠蔽されてしまっている、ここにマルクスの宗教批判が向かっているのです。
 マルクスが宗教をどう見ていたかは、マルクスが受けた宗教教育から推察できますが―当ブログ内の宗教科課題作文の拙訳をご参考に―、彼は宗教において人間が神的次元と地上的次元とに分けて捉えられているものと見ています。そこでは、地上の今の状態の人間は様々な欠損を抱えているが、神的次元においてはそれは消し飛ぶ、そういう論理で宗教は人間の問題の解決を語っていることが記されているのです。この問題を直接に扱っているのが『ユダヤ的問題について』ですが、そちらの問題はさしあたってそのままにしておくとして、以下のように言うことができます。例えば、今の私たちにとって、大きな苦しみは貧困です。と言うのも、収入の多寡の問題、言い換えれば資本主義社会において資本をどれだけ持っているかという問題は、その人の行動の選択肢がどれだけあるのかという人間の問題として跳ね返ってくるからです。収入が多い家計ならば、それだけ教育等々に投資でき、行動の選択肢に幅が出来ます。しかし、収入が少ないならば、食べることや住むことで手一杯です。寒いときに暖を取るのも難しくなります。こうした現状を、余り考えもせずに命題として「貧しい者は幸いである」(『ルカ福音書』6:20)と語るなら、その言表によって、貧しさは貧しさとして現実に存在することを認められつつも、問題がすり替えられていきます。貧しさは実体的問題ですが、幸いは精神的な内容です。問題は実体の次元で起きているのに、それを精神的次元に追いやっているのです―これが『マタイ福音書』の山上の垂訓では「幸い、霊によって貧しき者」となり、貧しさの問題がそもそも精神的事態とされてしまっています―。そして、問題は、その精神的事態とやらが宗教の形式によって作り出されたものであり、頭の中で考えられただけのものにすぎないということです。この「貧しい者、幸い」という言葉は、イエスがどういう状態でもともと語ったものなのかについての資料が残っているわけではないのですが、ガリラヤというエルサレムの中央支配から離れて見下された民衆の生きていた場において発せられた言葉であるという事情を考えると、いわば悔しさや嘆きを含んで語られた言葉であると言えます。しかし、そうした言葉が実際の現場を離れて普遍的命題として唱えられる時、それは人間の現実の苦しみをその命題の範疇で絡み取ってしまうのです。
 このようにして考えると、今回のマルクスの言葉である「現実の不幸に向かう"抗議"」の内実も明らかになってきます。実際に直面している貧しさという苦悩が、宗教的な仕方によって、すなわち、地上的課題を天上的論理において解消する、そういう仕方によって加工された抗議として提出されるのです。その結果、実際的課題はもはや存在しないことになり、ただただ宗教的な仕方において現実が扱われていきます。再び、「幸い、貧しき者」を考えてみれば、それを「だから貧困であることを受け入れよ」と説教されることにより、確かに貧困であることの慰めとなり、問題は一旦は停止したかのように感じます。しかし、一歩外に出れば、やはり貧困という現実は変わらないままで、しかも、その状態から抜け出すよりもそのまま滞留することが最善であると語られれば、もはや問題を変革しようとする意志さえも掻き消されてしまいます。このようにして、宗教的言説は問題の方向性をねじ曲げることで問題そのものが無いかのように錯覚させるのです。
 そこにおいては人間は理性的動物であることすら剥奪されていきます。現実を生きる人間は、数多の悲しみ苦しみを惨めに被っています。しかし、そうした抑圧された状態について、それを変えるでもなく、また問題を指摘するでもなく、現状に問題はないかのようにして状況を受け入れさせるように導く宗教的な仕方は、もはや声ではありません。声ですらないのです。「溜息」なのです。つまり、言葉、すなわち理性的に伝達が可能な事柄、そういうものが宗教的な仕方においては奪われているのです。
 しかし、解決は到来しません。最初からそんなことは問題をすり替えているだけではできないからです。ありもしないことをあるかのように騙り、できもしないことをできるかのように騙る、その故に「心なき世界の心情」、「精神なき状態の精神」と言表されているのです。このように、現実に存在している苦悩を眠り込ませ、それによって変えなければならない問題への感性を麻痺させる、だからこそマルクスはこう語るのです、「それは民衆の阿片である」と。
 マルクスの言葉を実際に見ると、「マルクスは宗教を良い物だと言っている」という理解の仕方自体がマルクス本人の意図とまるで違う位相にかかずらわっていることが分かります。マルクスは宗教を云々しているわけではなく、宗教が語る内実を明らかにすることで、神的次元と地上的次元とに分裂させた上で全てを神的次元へと解消させて無とする、そういう宗教の構造が、資本主義社会の生産様式に取り込まれることで本来的な人間から抽象化されてしまった在り方へと押し込まれて抑圧される人間が何故に苦悩する状況を変革できずにいるかの内実をまさに示しているとして、宗教批判を行ったのです。宗教が人間を神的次元へと解消するように、資本主義的生産様式の内に人間は形式化されて抽象化される。その形式化された立場でのみ問題の対峙が留まっている限り、解決は抽象的次元を脱し得ず、現実にまで降りてこない。それは、宗教が全てを神的次元で解消して地上的次元を吹き飛ばすやり方と同じである。マルクスは宗教批判によってこの問題を明らかにしました。だから、宗教を良し悪しの観点で語ることなぞ、端からしていないのです。にもかかわらずマルクスの言説を宗教の良し悪しとして見ている方々は、現実の人間の問題を分かっていないことにもなります。約言すれば、「マルクスは宗教を良い物だと言っている」と語りたがる人々は、現実にある人間の苦悩を自分たちのイデオロギーの中へと押し込んでそこでしか把握できていないのです。マルクスの宗教批判をそれとして理解できないということは、まさに人間の問題を変革する視野に完全に欠けている、人間の苦悩を扱うに価しないということを意味するのです。
 今回は、マルクスの言葉をめぐってじっくりと思いをめぐらしたので文献を挙げることはしませんでした。ただ、上記の論点自体は単なる思いつきではなく、それなりに哲学的な伝統に依拠した格闘の試みではあります。
 次回も、もう少し「宗教は民衆の阿片である」の内実を追ってみたいと思いますので、マルクスの言葉の続きを考えてみます。

(続く)