sekiwataruの日記

Ph.D(filosofia)のソリロキア

「美しい国」における学究的野暮ー『中世哲学の射程』なる紙媒体の現出状況に寄せてー

 書評という訳でもなく、またあちらで書くと"一応"配慮して読むに値する部分ないし益になる読み方を模索しながらの作業になりますが、こちらではそうしたこと無しに、こんな周回遅れの研究書が一般書籍に近い棚に並ぶ奇妙な醜聞を生み出した状況へと思いを向けてまさに"個人の感想です!"を述べていきます。ので、著者の狂信者は回れ右してお帰りになられるようにお願いします。
 不思議に思うのが岩下某もそうですがこの著者についても研究書としては最早賞味期限切れの手法による著書が矢鱈と再販されては、多くない紙資源と書棚とを占領していく現実。とくに岩下某なんぞは著書の矮小化した宗教概念によって自分の所属する派閥以外に対してしょうもない偏見と独善意識とをばら蒔くものでしかない訳で、まぁ確かにその意味で人はどのようにして他者に抑圧的に振る舞い得るのかを考察する上で好事例にはなりえますが、それにしてもそれに対する根本的批判も反省もなしに出版なさるとは、これでは中世哲学なる分野に発展も前進も求められないなと痛感いたしますよ、はい。
 この著者も御同様。まぁ岩下某的な宗派意識は全面に押し出さぬにせよ、要は敬虔な神信仰を帯びた人間のみが品性を持ち合わせるという大前提が見え隠れするので非常に気色悪い。しかも。その敬虔な神信仰が現れるのは、哲学だの神学だのの形而上にまつわる知の最先端であって、そこから溢れた流出を有り難く民衆は受けとる事で神信仰に至り得るという話に行き着く語りで、言い換えれば信仰のトリクルダウンを一見高尚な調味料をまぶして提示しているだけ。極論を言えば、そうした神信仰を溢れ出させる哲学者の側に自分はいるのだという下らない自負をこちらに押し付ける意識が垣間見られるので、まぁ御自身で考える力を棄て去られた狂信者連中は称賛なさるんでしょうね。だから、日々の寒さや空腹を凌ぎつつ何とか日銭を稼ごうとする民衆には神は見向きもしないし到来もしないということなんでしょう。ましてや、電気代を節約するために普段は紙と鉛筆で思想的に格闘している人間には知は自らを示さないのでしょうが、そんな差別的な神なり知なりは端から願い下げではありますが。
 今や中世に限らず哲学という学問はーいや学問という学問はー斜陽です。ゆえに、どうしたら生き延びることができるかを絶えず考えながら、その上で探究されるのです。日本の皆さんは最初から否定なさる欧州の哲学研究の傾向は、まさに哲学を学ぶ自分の負い目を実存的課題として背負いながら今を苦しむ民衆の生き抜く力となるように過去の思想を提示しようとします(何で日本の皆さんは否定なさるかって?そりゃ哲学をやってる自分はお偉いさんで苦しみとは大衆的無縁だと勘違いなさるからでしょうね)。だから、中世をやってようが近代だろうが様々な議論を御存じです。てか、日本にいますかね?ルッジェニーニのようにマルクスを片方で読み解きつつアンセルムスの神存在証明を論じられる人が?これができるのは神存在証明を単なる専門分野としての哲学的議論に留めずに人間の生き様の述懐として見出だしているからに他なりません。あるいは、ヴィッチエッロのように神存在証明から人間の弱さや限界性を語る思想や、セヴェリーノのような神からニヒリズムを語りつつそれを実際の資本主義的諸問題にぶつけていける思想は?あるわけがありませんよ、だって中世哲学ってのは神存在をめぐる哲学であって、それは人間の日常を離れた彼岸を志向するものだとして政治や経済といった民衆の苦痛なぞは周辺的課題にすぎぬかのように、この著者が領導している言説に批判も何もしないで大人しく従ってるのが学者さんなんですからね。
 一応、この著者の手法の古さを指摘しておきましょう。昔は文献を資料として手に入れるのが難しかった訳で、その意味でたくさん資料を占有していてそれをお読みになりうる連中(しかし、特定の宗教の一派閥の一団体が人類の知的遺産を資金にかまけて占拠するのは学問的搾取ですよ)が重宝されていましたーまぁ、えらいご本をお読みにならはってようお勉強してならはりますなぁとは思いますがー。問題はそれを単に右から左へ受け流してくれれば良いものを、そうした膨大な資料から御自分たちの気に入る文言を抽出して再構成しなおす事です。ソ連共産党あたりがマルクス文献を編集する時にやった手法と似てます。言い換えれば、普通の人が知り得ない思想家の言説を、御自分たちの既得権益に合致する形で提示しているのです。今やネットでかなりの文献を見ることができる時代ですなのでこの手法は古いのです。
 更に言えば、この著者は様々に対立したり矛盾したりする中世哲学者相互の思想を強引に一つに収斂させようとしています。まぁ中世哲学書についての逐語霊感説とでも言えば良いのでしょうが、そのために御自分の意図に合致する言説は高く持ち上げて意図に反する言説は蔑むか無視していきますー一例を挙げれば14世紀のアリストテレス主義とトマス主義を更に折衷させたカルメル会学派については無し。後に彼らは現実的諸問題への対応をトマス主義的解消を遂行しながら中世の諸文献を近世に渡す重要な役割をスペインで果たしていきますー。何と言う全体主義!言ってみれば、思想家の言葉をその人の人格から切り離して物件として利用するものです。で、収斂させる先というのは話は単純、神は存在そのものであって真理であって善である、だから存在を思考する哲学が中世哲学の根幹である。そして存在そのものである神は人間の知性を超えているから人間からは把捉できず、神が自らを人間の知性のうちに可知的にならしめることにより人間は神へと開かれる。…とまぁ何かファンタジーっぽい深夜アニメの梗概でも書いてるみたいになりますが、この単純で蒙昧な話はそこに留まらず以下のような帰結に至るのです。すなわち、そうした神が自らを現すのは知性の場である、ゆえに神へと開かれるのは知者である、民衆は知者の教導により神へと至りうる、とね。これが唾棄すべき論理であるのは、神存在なんて人間の妄想だと言い切る我々が言うのではなく、神へと至ることで人間は救われるという観念を拡散する側からの思考であるからです。つまり、"我らのような学者様の言いなりにならねば救われぬぞよ"と言ってるようなものだからです。こういう手合いは「神は知者を貶める為に此の世の愚を選び云々」にしても御自分は知者でなく"無知の知"たる哲学従事者だから神から選ばれた愚の方だと(普段は大衆を見下しているわりに)都合の悪い時だけ愚者ぶるので余計に鼻持ちならないのですが。これは思想家の諸言説以前に普遍的な思考様式が先在するかのように論じることで観念的に縛られていった結果、御自分の言説が絶対的であると何としても主張せねばならぬことになった哀れな道化の成れの果てとでも言えそうです。
 この著者への専門的な批判はWestbergさんに任せておくとして、その視座が如何に世界を歪ませるかという自己批判なしに研究に埋没しうるのは羨ましい限りです。中世哲学なんてのに興味はありませんが若いor若かった友人たちの前でなんやかんや語る時に必要があったりして読んだりする程度であっても、こうした観念的倒錯型解釈が気持ち悪くて仕方ありません。仮にーあくまでも仮にー、神問題を語る思想家に共通性を見出だすなら、それは"神"と"此の世"の闘争に落とされ、そこで踠きながら此の世の原理に抗って逆らう術を神の中に見出だす、謂わば"抵抗の言説"です。実際の苦痛を除去する為に自らを抑えつける力に叛くこと、ここに神信仰に基礎づけられた思想は向かうのです。例え傷を背負い痛みに疼く体ごと十字架にくくりつけられたとしても「何故なんだ!」と叫んで己の仕打ちに反抗しうるのです。まぁ確かに神秘主義に傾きながら職業差別と大衆蔑視にどっぷり浸かって自分の持つ幼稚な道徳意識を振り撒くだけの"善き運命"なんて名前の方もいらはりますが、それにしても自分を押し流そうとする濁流に抗うだけの気概はお持ちなわけで、そうした抵抗も何もしなくて良い地位に安寧されてる学者連中が無視する思想家の"気概"にこそ、何かを見出だすべきです。しかし、こうした抵抗をまさに踏みにじるのがこの著者の手法なのです。例えば、有名なオッカムのウィリアムさんはこうした暴力性の被害者です。オッカムの著作は"政治的著作"と"非政治的著作"とに恣意的に分断されます。というのも、オッカムさんは周知の如くに教皇権批判を展開したので、教皇派にとっては都合が悪い言説に溢れています。そこで、そうした著作は闇に葬られる為に適当な理由をつけられて切り離されたのです。残った"非政治的著作"を論理学的視点から研究すればオッカムさんを反教皇派と見なす必要もなくなって唯一普遍の中世哲学潮流から外れることなく扱えるわけです。しかし、オッカムさんの場合はまさに"政治的著作"の内にこそ彼の気概が見出だせるのであり、それは"貧しさ"です。清貧と訳すと何やら胡散臭いのですが、ものの所有を棄てることにこそオッカム思想の基軸があります。俗に言う多く存在者を増やさないというオッカムの剃刀も思想的次元において遂行される"貧しさ"です。従って、或る思想家の思想を理解しようとするならば、その思想が思想家の人格的営みのどこから位置づけられたものかという視点抜きにはあり得ません。だから、この著者とは違って新しい手法たる分析的手法も似たり寄ったり。結局の所、分析哲学アプローチなるものに傾倒したがる連中は与えられた問題文に何の疑問も挟まずに機械のように情報処理することに長けているだけで、現実の諸問題や民衆の実際的苦痛を理解するだけの知性を持ち合わせぬ三文役者でしかないであって、謂わば自分の意にそぐわぬ他者を権威と暴虐で以て辱しめる学問的ハラスメント野郎なのです。ちょっと話が逸れましたが、ここから分かるように、観念的に或る人物の思想を分断して一方を拾い他方を棄てる手法は本来的な意味で思想家に向かう態度として最も不適切なものです。まぁこの著者はある所でオッカム政治思想を「全く下らない」と評していたそうですが、そりゃぁ「より大いなる神の栄光の為に」とか言って小さき群を踏みにじるような標語を御題目のように大事になさる心性の連中には"貧しさ"の実践なぞ下らないものに見えるでしょうね。
 そう、このオッカム評価という個別的事態にこそ垣間見られるのです、繰り返し述べている気色悪い思考回路が。実際、時代を動かしているのは誰か、歴史を前に進めて来たのは誰か?こう問うと劇場版の『機動戦士Zガンダム』最終章を思い出します。「常に世界を動かして来たのは一握りの天才だ!」と宣う人物シロッコに「違う!それは違うぞ!」と投げつける主人公カミーユ、言ってみればこの著者の主張はシロッコなのです。カミーユは別の場面でこんな事もシロッコに言ってます。「お前だ!いつもいつも、脇から見ているだけで、人を弄んで!」まぁ哲学従事者なんてのは皆な多かれ少なかれこんなもんです。これには政治的な左派も右派も関係ありません。血や汗を流しながら働かねばならない民衆が少しばかりの余裕を求めて投資をしようとする思いを嘲笑しながら自分は社会主義者だから自分の言葉は理解されないだろうがと庶民の投資をまるで社会的害悪であるかのようなに宣う自称マルクス研究者も御同様です。この著者もかのマルクス研究者も、一方では御自分たちは決してそうした弱い立場に貶められる事が無いことを熟知した上で大衆を見下すような弁を放つ。しかし、他方では自分がそうした立場を失ってしまえば何者にもなれないことをも自覚しているが為に本心では自らがしがみつく地位や名誉を貪り食らう事に固執するという怯懦な小心者の振る舞いを見せる事になるのです。もし少しでも気概をお持ちなら御自分たちが何者であるかなんぞ誰も知らない気にかける余裕もないような限界状況に身を置いて汗と血を流しながらすったもんだしてご覧なさいよとは思いますが。で、話を『機動戦士Zガンダム』に戻すとカミーユはこんなことをも言ってます。「その傲慢は人を家畜にすることだ!人間を道具にして!それは人間が人間に一番やってはいけないことなんだ!」先ほども少し触れましたが、この著者の手法すなわち思想家の言説をその現場から切り離して己の利益拡充の補強として使用するという遣り口はまさに人格を道具つまり物件化することの学究的現象なのです。このように、単に古い手法は古いとして眺めていれば良いというものではなく、一昔前の封建的あるいは宗教全体主義的な抑圧と収奪の構造をそのまま持ち合わせているがゆえに、そこへの反省もないまま"研究者不可謬説"を信奉することは最早その研究分野は人間を人間であることから引き剥がす、カミーユの言葉を再利用すれば「人間が人間に一番やってはいけないこと」を現実化する為の補強に手を貸しているに過ぎません。
 しかし、話を先ほどの問い即ち時代を動かしているのは誰かに戻せば、名も知られぬような民衆であり、その民衆の流す血と汗と涙であって、決して哲学者や神学者連中ではありません。理由は二つ。一つは小学生でも分かる話で、「じゃぁ、その哲学者様や神学者様が食べてるパンやら何やらは誰が作ったんだ」と。幾ら頭が良いかのように振舞おうが自分が知者であるかのように誰がに尊敬させるように抑圧しようが人間である以上は食ったり寝たりせずには生きられません。なんぞと言うとあーだこーだ言い始める輩がでますが、だったら自分で食う寝る住む為の資材をお作り頂いてからにして貰いましょうか。で、もう一つはやや真面目な話。ちゃんと中世哲学のあれこれを中世という欧州の歴史の動きの中に戻してから読み解くと、哲学者は今のようにー或いはこの著者のようにー自分の地位や名誉が保持されてる限りは寝食の心配なく大学や研究所に閉じ籠ってうだうだしてれば良い、というわけでもなく、自分たちの団体やら何やらの存在意義を周囲に発信しなければならなかったのです(ので、この著者や研究者が安易に見積もる程には楽して生きてもおらず、食べてく為に働かなきゃいけない立場だったりする人が多いです)。そして、自分たちの存在意義を示すには、一方では王族の他方ではやはり大衆の関心領域に一言放つ必要が出てきます(しかも、今ほど大衆が骨抜きにされていないために王族も民衆蜂起に気を配っていたりと、良くも悪くも結果的に実際的諸問題の解決へと目が向かざるを得ないわけです)。
 例えば、アンセルムスさんなんかも土地の私的占有に反対して公共空間としての定置を計ったり、あるいはさっきの"善き運命"さんも妙ちくりんな商売ー今だと転売みたいな生産をするんじゃなく単に移動するだけで暴利を貪ろうとする連中とかーを口汚く批判したり、とまぁ色々ありますーこれらについては英米の"最近の"研究書を参考にー。或いは、かの聖なるトマス様ーちなみにこの人、現代研究者からは神の如き大哲学者として扱われていますが当時は危険人物と見なされていたようですよ。ジョーダンさんの『女性と信用取引』という法政大学出版から出されている邦訳書にこれについて一文だけ触れらていますーですが、俗に自殺は罪だと断罪してると言われますが、あれもそこだけ議論を切り取って普遍命題にするから問題が拡がるのです。これは、当時に流行ったファナティックな宗派による「現世で長生きして罪を何度も重ねるなら自殺して一回だけの罪を犯した方が救われる」とかいう今でも新興宗教で問題になる話が前提としてあり、それに対して「いや事態の回数じゃないから事態の深刻さだから」と論じているのがトマス様なわけで、そうした議論抜きに単に「聖なるトマス様は自殺を自然法と愛徳となんちゃらに逆らう罪だとしておるぞよ~」としたり顔で解説しちゃう訳者には呆れて物も言えません。歴史的状況を知らないなら下手に解説しないでスルーすればいいんですよ、無知は罪じゃないんだからーちなみにこうしたファナティックな信仰についてはマンセッリの著作で『西欧中世の民衆信仰』というタイトルで邦訳が八坂書房から2002年に出てます。てかこういう著作をこの著者のより先に一般書籍化したら?ー。
 で、ここから結論。上記のように哲学者の言説は当時の時代状況に対する応答なのです。つまり、大衆が周辺的なのではなく、哲学者連中こそ大衆の周辺にいて大衆の活動によってその存在意義が呼び起こされていたのですーじゃあ何で哲学者がそこまで重要だと思われるようになったかは近代の"国民国家"定立に向けたイデオロギー統率過程において見られるのであり、従ってこの著者の古い手法もそうしたイデオロギー的性格に染み込んでいるとして読み解く必要がありますがそれはまた哲学研究それ自体の批判的超克の課題となりますので今回は問題提議ということでー。大衆が苦痛の毎日の中から何を食べようかと考えること、これはまさに自己の存在を反省する作業です。自分の置かれた現在的状況を起こり得る将来的課題と比較しながら考えているのです。まさに"いのち"の悲しい程に弱々しくもしかし荒々しい輝きがここにあるのです。これを哲学者様の小難しい御託宣と比べて低く見積もるのは、事柄についての反省能力のない只の愚か者でしかありません。名も知られぬ民衆が土地を耕して植物を育てて動物を育んでパンを作って物を売って…そうした在り来たりの日常を一生懸命それぞれが生き抜いたからこそ、哲学がその時代に合った言説を展開できたのです。忘れてはなりません、民衆こそが時代を動かしているのだと。学者や権力者はその上がりを貪っているに過ぎぬのだと。こうした意識を眠りにつかせる阿片的作用を引き起こすのが、この著者の手法なのです。学者は純粋無垢ではなく、鼻を利かせて体制にすりよった言説をばらまく為に一部の人間ー聖なるトマス様でもマルクスでもレーニンさんでも誰でも良いですがーが時代を作ってきたかのように惑わします。しかし、現実は抽象的普遍の中では遂行されず、個別的な事象として現れるのです。これを絶えず批判的に思いを向けていないと、自分自身も忘れてしまいます。個人的には、案外と中世の哲学者自身はこういうことに気づいていたんじゃないかなと思ってはいます。民衆、とりわけ貧しい人々にこそ神はいて、その貧しい人々のおかげで我々も神を知りうるのだって。だって、彼らの頭はこう言ったじゃないですか、「幸い、貧しき者」ってね。頭の言うことに心酔できねぇ手代なんぞは家族じゃねぇと思いますが、現代の研究者様は違うようで。あの中世哲学者の頭もご苦労なこってすな。 
 思想家の言説を成り立たせる事態がどのようにして形成されてどのように現実と対決しながら屈折して体制の中に取り込まれていくのか、そうした思想家の生全てへと注意を払うような手法なくして、哲学がーそれが中世であれ近世であれー私たち自身の問題意識とはならない。この点こそ、まずは想起すべきなのです。

無神論者の読む『聖書』ー『ルカ福音書』2:14「地に平和」【後編】

 地に平和、すなわち抽象的観念の場でではなく、実際に人間が生きているその現場でこそ平和を遂行する。『ルカ福音書』2:14が語る平和はまさにそれを基点としているのであって暗夜を放浪するが如く彷徨する人間に負わされた苦痛を除去する為にこそ平和を語るべきという実践の端緒として示されるものであるが故に、通俗的リベラルが語る"平和"というもののように彼らによって概念的に歪曲された"憲法"だの"民主主義"だのを理由にしている観点的事態とは全く異なるのです。
 というのも、平和を言う、しかしその平和を言う根底にはその元締めである前述したハンバーガー提供国の平和にすり寄り、その同じ平和を唱えることで元締めが垂れ流す資本の恩恵に与らんと目論む欲望が蠢いており、実際の人間の苦痛を"憲法"だの"民主主義"だのという想念の場に吸収してしまい、抽象的に数値化して、個別的実情には目もくれないからです。これが良いとか悪いとかを言いたいわけではありません。むしろ、問題は同じ平和を唱えさえすれば彼らが享受する資本の恩恵に与ることを可能にする構造がどのようにして成り立っているかです。あるいは逆で、彼らの資本の恩恵に与っている現状を自己肯定しようとせんが故にハンバーガー提供国由来の平和は良いと思うのか。いずれにせよ、彼らが妄想する平和が普遍的で追求すべき価値であるという仕方で"思い込んで"しまう所に問題があるのです。それを乗り越える為の道筋を、全ての人々の苦痛を共通に解消すべきものであって何れの陣営に与すれば手に入るものではないという仕方で、私たちの箇所は示しています。
 私たちは、ここ数年のうちに大きなうねりを経験し、そこに由来するどうしようもない苦痛と不安に直面しています。夜は寒さに凍えて、すきま風を子守唄代わりに耳にしながら朝が来るまで眠るともなく時が過ぎるのを待つしかない生き方の内に投げ込まれている方々がいる一方で、「やさしい」だの「強い」だのと軽薄で浮泛な言葉で大衆を拐かす団体の領袖はクラシック音楽を聴きながら暖房と音響設備の整った部屋でゆったりとすやすやおねんねなさっていることを臆面もなく世間に吹聴なさる、しかもそれを称賛して追従することに何の戸惑いもない取り巻き集塊もいる。こうした現実の中ではもはや政治屋なぞ政党なぞ議会なぞ只の学級会の御遊戯の延長に過ぎぬのだと実感してそれに見切りをつけ、その一方で、自分自身が時代の混乱の力によって壊されていき、その力に為す術もなく流されるだけだと感じてしまう。そんな日常の即ち自分の実存全てがそこにかかっている現場での不安は何らかの寄る辺を探して流離うことを私たちに強制する。その寄る辺polisを作り上げることが本来的な政治politikaであるはずが、逆にそうした大衆の不安を上手く利用して誘導することで一つの観念的共同体に取り込む。ここに敵味方に分断していく思考を成立させる歴史的条件を見るのであって、今の時代における"平和"の言説が大衆の不安を煽って強固な一つのイデオロギー体を形成してそこから他を見下す為の観念装置に過ぎないのだということが鮮明になるのです。
 矢鱈と国名を出しては一方を持ち上げて他方を腐すやり方を自称コミュニスト集団がやっている、これは大衆の不安の上に胡座をかいて自らの団体とその中央に鎮座まします"御神体"の如き領袖の安寧と存続を企むことであり、そこでの"平和"はその内実が理性的に問われることなく、何かの呪文のように決まりきった文句を反復するのみであって、それはすなわち"平和"と唱える団体への帰属意識のみが大事となっていることを示しています。つまり、劣悪な種類の狂信者と化していき、何ゆえコミュニストの唱える"平和"が必要とされるのかという思考のないままに或いは何の根拠も哲学もないままにコミュニスト政党でなければならないのだと傾倒して頑強に固執する、これは阿片たる宗教の脱宗教化した現象であるのです。そして、その故にコミュニスト団体とその御仲間の提唱する"平和"以外を十把一絡げにして否定する。あれもだめこれもだめ、反党分子は追い出せ、反対言説は潰せ、ある意味でこれは歴史が示してきた悲しき人間の在り様なのです。これを乗り越えて自ら自身が平和の担い手となることなしに平和を唱えることなぞ無理なのにも関わらず。
 このようにして考えると、平和というものをある種の限定状況の内に語ることの危うさが見えてきます。ある特定の状況で語られる"平和"とは敵味方の分断を帰結します。平和的解決なんぞと言う胡散臭い言葉の具体化は経済制裁とかいうものであったりしますが、それを行って困るのは全ての国の大衆であって、それで利するのは例えばハンバーガー提供国の大資本家であったり、その関連する企業であったりするのです。そういう現実を見ることなしに普段は"対なんちゃら追従反対"とか口幅ったく語っている擬似コミュニスト連中は結局の所ハンバーガー提供国に媚び諂っているのと何ら違いはなく、そしてその盲信的追従集団はそんな事を露ほども気にすることなく上位団体が押しつける"平和"だの"憲法"だのと空語を振りかざしては自らの生で本来的に立ち向かわねばならぬ不安を安心へと上意下達の団体に属しているだけで解消して自己満足しているだけの様相を呈しているのです。謂わば、世間の趨勢あるいは"勝ち馬"に乗っかってー経済学で言うフリーライダーというものー、戦争を生み出しているその根本原因であるハンバーガー提供国内の軍備拡張を批判することすらなく同じ陣営に嬉々として没入して、そのくせまるで自分たちが"平和"を創設しているかのように世間を誑かしているだけです。いや、あんたらのやるべきことは他にあるだろうよ、あんたらが腐している国の労働者が追いやられている劣悪な状況をひっくり返すことなしにその国の軍事的状況を転換することは出来ないのだから、そうした人間の現実的な生き様を変えること抜きに只その国の上っ面に出てくる部分のみを論う権利なぞあんたらのどこにも無いのだよ、と言い放ちたくなります。
 こうした点、つまり平和が本来的に立ち向かわねばならぬ点の思考可能性を開示するものがまさに私たちの箇所なのです。語られている場面設定を見てみます。暗く寒い夜ー古代ですから本当に灯り一つ無い夜ーに屋外で働くことを余儀無くされている人々にこそ「地に平和」と告げられているのです。すなわち、平和がもたらされるべき人とは、劣悪な労働環境の中で文字通り心身を磨り減らしながら日々の糧を繋ぐ為に働かざるを得ない人、さらに言えば、働くということがその人がその人として大切にされるべき事態ー換言すれば「人格」ーを奪い取って物として扱われることを直ちに意味するような世界に投げ込まれて、深淵の闇の中に沈み込まされて自分の居場所すら追いやられている人ー働けようが働けまいが関係なくー、そういう人であるのです。通俗的コミュニストが自分たちに都合の良い"労働者"のみを相手にしてただ物として機械として"働く"ことを基底となして世間を判断するような"肩書き"や"所属"でしか人を見ていない視点とは決定的に異なり、誰からも見つけてもらえぬ程に暗い闇の中に居ざるを得ない人、そうした根本的な人間の苦痛をこそ癒して取り除くものだとして平和を語っているのが私たちの箇所です。それに反して、"平和"だの"憲法"だの"民主主義"だのと壊れた蓄音機よろしく連呼することで自分たちの不安や不満ややるせなさを帰属意識で安心することで紛らわし、そうしたルサンチマンイデオロギー化して一つの集団を作っては自分たちこそが平和を享受するに相応しいと自己欺瞞を犯している集塊が語る"平和"とは只の独善的自己言明に過ぎないのです。この点において、進化論を否定して創造論こそが真理だと語りかたがる心性と類似しています。というのも、創造論は"聖書"の文句に、かの集塊は"憲法"の文言に、そうしたエクリチュールに隷属さえすれば何の探究もせず何の葛藤もせずに世間よりも知の観点の内に上位に立って大衆を見下しうると思い上がる、そういう点において、両者は共通しているのです。
 しかし、私たちの箇所で語られる平和とは、そうした何らかの集団や組織に従い、さらに自分の苦しみや痛みの除去よりも団体教義にこそ自分の意識を集中させながら隷属することを根本的動機とする集塊の玩具として持て囃している妄言としての"平和"とまるきり違う位相にあるものです。私たちの箇所では、無条件で無制約的なものとして平和が提示されています。これは対になっているのが「栄光」ということからも明らかです。この栄光doxaですが、これは反映という意味の語で、神の反映を即ち栄光としてキリスト教用語では訳が定着しています。従って、神の神たることの内実の映し、あるいは人が神という概念を考案した際にそこに込めた希求、さらに言えば人が絶対者というものを思索する上でその本質たる無条件性や普遍性を具体化した事態と対になるものが平和として語られているのです。換言すれば、平和とは敵味方を分断して片方に肩入れして片方を傷める事を企てる為の方便ではなく、そうした分断や区別といった人間の側によって構成された観念的事行以前の或いは観念を乗り越えた剥き出しの人間に向けて現実化すべきものであるのです。哲学的用語を使うなら、定言命法としての平和といった形式的で抽象的な命法として私たちに対して現存するものではなく、実際の力として、この世界を支配する暴力的に人を踏みにじる権勢を吹き飛ばす力として、私たちを根底から生かしなおす力として在るものが平和の内実だということです。だから、国や種族や性別や年齢や収入や思想や所属によって条件づけられるものではなく、人が人として在るそのことに因って誰もが共通にその該当者となるものなのです。
 先ほど少し触れましたがビザンチン系写本の3行詩は、この点を考える上で興味深い含意を個人的に感じるのですが、即ちそこでは「地に」平和と謳われています。人の中だけにでなく地に。草も花も木も鳥も虫も動物も、そうした生きとし生けるもの全てに「平和」と告げらることになっています。実際、私たちの箇所では羊飼いに語られているのですから、一緒に羊がいることでしょう。或いは、牧草も大地を這う虫も。そうした地に在る全てのものを含んでこそ平和であると考える時、平和とは今ここにある景色に映るものを失いたくない、この空の下で生きている命を守りたいという思いから語られているのだと気づかされます。"民主主義"だの"主権"だのといった観念的で抽象的な妄想からしか"平和"を語れない集塊がこうした点を気にもしない割に調子合わせで"気候変動"だの"自然環境"だのと口にしても本心では実際の問題性を意に介しておらず、たかだか数値上のやりくり程度でしか意識していないのだということが暴露されるのです。平和というものこそが自然を考える為の基点となる、そういうことをビザンチン系写本は教えてくれます。
 私たちの写本の2対詩では「人」に向けられており、その意味で3行詩では自然と同等なる位相から語られている一方で、こちらは人間は自然のつまり地の中に投げ込まれていることが謳われ、自然から受動的にその生を維持する術を与えられていることが示唆されています。"エコロジー"だの何だのと言って人間のみが能動的に自然を守ってやれる或いは自然をコントロールしてやれるという何様意識が見え隠れするのとは全然異なる方向性です。謂わば、平和とは誰かー政治団体だとか官僚だとか学者連中だとかのテクノクラートどもーが設計主義的に上から大衆に啓示するようなものではなく、一人一人が今生きている中で被っている悲しみや痛みを少しでもいいから取り除いていくことで実現されるものーマルクスの言葉を借りるなら受苦的存在としての個人がその必要に応じてその能力に即してということになりますー、こうした事態が平和の内実として私たちの箇所で語られているのです。
 まだまだ色々と考えてそれを実践に向けていかねばならぬことが多くありますが、今回は序説的に語るに留めておきます。最後に余談というか蛇足というかですが、本当に最近の美しい国と呼ばれる地域に生息する建前だけのコミュニスト団体の妄言は呆れるものがあります。その"平和"が如何に軽佻浮薄かは語りましたが、そこから派生して彼らの示す社会変換の為の"政策"なるものの現実味のなさたるや。賃金を上げよう、労働時間を短縮しよう、そういう前世紀の東欧国家社会主義国で散々実施されてきた政策の二番煎じのような外皮的なことばかり声高に叫んでおられるようですが、いくらそうした数値上のことを操作したからとて生きることの根底に存する労働が"物として働かされる"次元から解き放たれない限り、本来の共産主義が目指すべき、労働というものが世界の内で実際に価値を作り上げていること、だからこそ働く者たちが自分たちの社会や現実を作っているのだと働く当事者自身が心から感じてそれを実践することができる生き様には到底到達しえぬのです。世を動かしているのは政治屋でも投資家でもなく名もなき人々の汗と涙なのです。これを基盤としえぬままコミュニストと僭称するのは表現の自由が保障されている範囲で御随意にですが、その結果は東欧国家社会主義国がどうなったかと同じ事になる御自覚の上でという感じです。こうした点、即ち労働する者が自らの労働を自ら自身のものとする為の実践は如何にして可能かという点も「地に平和」から探究せねばならぬ問いではありますが、それはそれでまたいずれ。

無神論者の読む『聖書』ー『ルカ福音書』2:14「地に平和」【前編】

 予め個人的立場を明確にしておくなら、"神"という概念は人間が考え出した観念に過ぎぬと見なすものです。何らかの経験的表象から抽出されたのではなく、単に"完全なる存在"という概念を通俗化したものです。だから、人の口に上る"神"とは、それを語る人間の想念の言表でしかないのであり、その現実存在性に裏打ちされたものではないのです。しかし、だからこそ、そうした"神"についての言明は人間の欲求、願望、思慕などの情念の映し鏡となっているのであって、"神"をつぶさに見ていくことによって、人間の欲望の体系を反省的に思索しうることになるのです。従って、ナザレという町に産まれた大工の息子であるイエスという歴史上類いまれなる人間に纏わる言説、とりわけ彼から歴史上の人間であることを奪い去り、超越的な救世主という茨の冠をかぶせて、自分たちの欲情の十字架に張り付けにしながら大衆を支配せんとしたキリスト教と名乗る集団の所業という、歴史の中の一つの情念の具体化過程から人間の欲望の体系を見る為の視座が開かれることになるのです。
 と、仰々しい物言いをしましたが、個人的な意図としては、古代の人が書き残したものである『新約聖書』と呼ばれる一群の文献を、上述した立場から読んでいこうという只の読書メモのようなものを少しずつ進めたいと思い立ったわけです。なお、『新約聖書』に関しましてはNestle-Aland, Deutsche Bibelgesellschaft Stuttgard, 26 Auflage, 7.revidierter Druck, 1983を用いていますが、理由は学生時代に古本屋さんで購入して手に馴染んでいるという個人的なものであって、とりたてて文献学的意味はありません。
 さて、今回は『ルカ福音書』2:14。季節的にはXmasの話なので時期外れの感はありますがそれはそれで。原文を日本語に置き換えるー翻訳ではなくーとこんな感じ。
  栄光が 至高なる所にて 神に
  そして 地の上に 平和が
  人々に 喜ばしき
 この最高の部分、前置詞en+人々となっていて、その人々の形容詞としてeudokiaが係っています。ネストレの註ではこの語をラテン語訳した際にbona voluntasという変ちくりんな訳語を当てたそうです。そのせいで、今でもローマに本店を置くキリスト教の一派に過ぎない組織の日本支店が主催する儀式の最中で「善意の人々」となっているそうですがーこちらは知人からの情報ー、このeudokiaにそんな意味はありませんし、そんな用例もありません。あるいは、これを「み心にかなう人々」と記してあるのもあるようですが、どこから「心」やら「かなう」やらが出てきたのかさっぱり分かりません。こういうのは創作であって翻訳とは言いません。しかし、ここでこれらの奇妙奇天烈な訳で人々の思考を誘導したことはかなり悪どい問題を引き起こすことになるので、それについては後述していきます。このeudokiaは人名や作品名にも用いられる頻繁に目にする単語で、その元たる動詞にしても善いものと思う、まさに喜ぶということなのですが、その形容詞になります。ただ、私たちの箇所では誰が喜ぶのかという点が分かりにくい。こうなると昔は困ったものですが、最近は便利になりました。ネットで検索すると、用例やら何やらが出てきます。この『ルカ福音書』が書かれた文化圏ではこの語一つで神が喜ぶところのという意味内容で用いられているようですので、それに鑑みれば、私たちの箇所でも、神が喜ぶそういう存在であるところの人間、あるいは人間とは神が喜びのうちに創造したものである、そういう人間の内実を示す語として用いられていることが分かります。つまり、人間とは神が喜ぶ或いは神によって善しとされた存在であるという宣言がここに刻まれているのであり、従って、ここでの「人々」とは『ルカ福音書』12:10での「全ての民に」という言葉と呼応しています。つまり、地に平和と言われてる時に願われているのは"全ての"人間に向かってであり、あれやこれやの偶有的状況によって左右される事柄ではなく、人が人として在るその現実全てを包み込むようにして言われているのです。なお、12:10の民laosという言葉、『旧約聖書』では定冠詞を伴ってイスラエルの民を示す語であるのでーこの辺りもネットで検索すると用例が出てきますー、ここでもイスラエルをそして新しいイスラエルである教会を示すとか何とかと矮小化したがる連中もいるようですが、『ルカ福音書』での用例を調べてみれば明らかですので、福音書著者は特に限定して用いる場合を除いて一般的に「人々」を示す語として使っています。すなわち、私たちの箇所で言われているのは、好き嫌い、敵味方、"隣人"、"異端"etcといった物差しによって区分される以前の生の人間それ自体が平和の基体となる、そういうことです。どこぞの国旗に接吻することが平和への祈念だと愚かにも考える知性とはまさに雲泥の差があります。
 因みに、ネストレの註を読みますと面白い話が。この形容詞として人々を修飾する語として用いられているeudokiaを主格として記して、
  栄光が 至高なる所で 神に
  そして 地の上に 平和が
  (そして) 人々に 喜びが
 というように3行詩にしている写本があるようで。これはビザンチン系列の写本に見られるそうですので、おそらく、ここに三位一体の"神秘"でも見たのでしょうね。気持ちは分からなくもないのですが、というのも、これは「救い主たるキリスト」の有難い降誕の場面を描いているように見えるので。そこで神聖なる教義を見出だすなんぞというのは如何にも机の上で文字をこね回すだけで"神theoー語りlogia"に着手なさる神学者様のお気に召しそうではありませんか。これについてこんなふうに説教できそうです、つまり、「御父は天に栄光をもたらし、次いで御子は地に平和をもたらし、それによって聖霊が人々に喜びをもたらすのです」とか何とか。つまり、東方教父であれば父→子→聖霊の位階秩序に従って成り立つと説くことになります。あるいは、西方教父であれば、栄光即平和即歓喜と同時性を強調することになるでしょう。素人の浅知恵レベルでも予想がつくような内容を勿体ぶって語るのが神学者という御職業ですので、ミーニュでも調べたら出てきそうですがそれはそれとして。この写本の読みの面白さは、地の平和という事態を人々にもたらされる喜びが示すものであるとしていることです。つまり、人々が喜ぶことが平和の理拠なのであり、"平和"だの"民主主義"だの"憲法"だのの自分たちの頭で都合良く組み換えた"観念"を人々に強要してその遂行の為に自分たちは食事一つ減らすでもなくただ人々に苦痛や我慢を強いる組織風土というものはまさに平和に反目するものであり、平和を根底から破壊する思想なのだということです。自称リベラルの説く"平和"の欺瞞を暴露する上で非常に有益な示唆に富んでいる写本の読みと言えます。
 で、話を戻して先ほどの「喜ばしきものたる人々」の解釈問題に移りましょう。これをbona voluntasと訳すことで、平和がもたらされる人々の範囲を「善意のある」に条件づけようとする妄言が今でもキリスト教界隈にこびりついているようです。ラテン語の善意の人々をそのまま継承せずとも形や姿を変えて、結局は信者のみが平和に値するという吝嗇くさい話に陥れているわけです。これは非常に悪どい仕方での曲解です。せっかくこの賛歌の作者は神が自らの喜びとした全ての人間という意味を踏みにじって身内だけに制限するという鼻持ちならぬ選民意識で塗りつぶしてしまったのですから。まさにこうした点をこそ、キリスト教批判とか言いたがる面々は叩くべきです。キリスト教批判が可能であるのは、それは徹底的に彼らの"聖典"たる聖書なるものを原典と原意に照らし合わせて読んでいくことに依拠するのであり、そうした営みを通してのみ通俗的教会教説と聖書との差を暴露していくことが出来るのです。つまり、ギリシャ語で聖書を読むこと以外にキリスト教批判はあり得ません。にもかかわらず、日本語で書かれた/訳されたあるいはせいぜいのところ英語で書かれた/訳された書物の文字面をなぞっただけでキリスト教批判がおできになるという知性をお持ちの御仁は、せいぜいその程度の批判精神しか持ちえていないのであり、そうした御仁におできになるのは他人様の論文を無断借用なさる教授様や口では十字架だの何だのと言いながら結局は権威に追従なさることしかおできにならぬ神学者様の言葉を称賛なさること位でしょうから、そうした御仁の説く"批判"ー思想であれ政治であれ作品であれーなんぞに構っている暇なぞ私たちは持ちあわせていないのです。まぁ、たくさん御本をお読みになって難しい漢字や英単語のお勉強なされてよろしおすなぁという感じです。
 話が横に逸れましたが、問題はこうした悪どい曲解、すなわち開かれた言説を閉鎖的で独善的意味にすげ替えることを可能にする構造は一体何なのかということです。この問題は、以前にこのブログで書いたヤハマン著『カントの生涯』の邦訳書レビューで言及しましたが、カント『永遠平和のために』に書かれている「いっさいの敵意がなくなること」としての平和を、いっさいの敵意をなくすために敵意を持って自分たちーそこでは西欧諸国ーに現れる相手ー要は西欧以外の国ーを殲滅することを条件として、それが遂行されることが平和の為に必要とされると宣っていた英国人の言説と類似しています。政治家や神学者の語る言葉、平和でも愛でもそうですが耳に心地よく響く言葉こそ、実はその裏に対峙する誰かの排除を直ちに含んでいるのです。すなわち、ハンバーガーを友好国の代表が訪問した際に提供する国で唱えられている"自由"だの"民主主義"だのといったものが自分とその仲間内にしか当てはまらずに、そこから一歩でもはみ出すや否や民主主義を脅かす排除すべき脅威と呼ばれるのと同じように。その意味で私たちの箇所についての愚劣な曲解は、昔々の宗教談義なぞではなく、まさに今の私たちが直面している問題なのですーそれをアクチュアルと言うって?そういう中途半端なカタカナ文字は不要ですー。
 ここで考えるべきは、平和というその語を用いて行われている敵味方の分断です。物事を分節して捉えていく知の動きは古今東西を問わずに人間の心性にこびりついています。その中で、かの分断する思考が頭をもたげてくる状況はある程度の類似性があるように思われます。例えば、私たちの箇所を信者と非信者とに分断する或いは善意の人々と悪意の人々とにーその語の意味規定を問わずにー分断する解釈は既に古代において成立しています。その特徴的な歴史状況とは、原始キリスト教の正統異端問題です。出来上がったばかりの教団を一つのイデオロギーの元に纏め上げる、この作業は教団内部での外部からの攻撃に対してどの考えに従うべきかという憂慮から出来しています。つまり、内的な不安状況がこうした2分法を成立させるのです。カントの『永遠平和のために』について敵国殲滅を前提として読んだその時代状況も、第一次大戦以前の各国による軍事同盟乱立期であり、軍備増強による民衆の日常生活の圧迫とそれに由来する不安の時代でした。この類比として考えられることは、今まさに敵か味方かと分断を叫ぶ声の背景には、私たち自身が痛感しているところの不安があり、その不安を上手く利用して大衆を煽動することで分断の言説が強固なものとして現状に根をはっているのです。 (続く)

【書評ー蛇足その1ー】Silva, Ludovico, "La Alienación como Sistema"

 前回は、シルヴァによる『システムとしての疎外』の要約を試みましたが、今回はその読書中に考えたことを述べることで、本書の射程を拡げていきたいと思います。
 本書の示す読み方で見えてくるのは、新たなーというよりも科学的社会主義を標榜するような政治政党による独裁的国家社会主義者によってねじ曲げらたこと虚像のマルクスを元に戻すだけですがーマルクスの姿です。
 例えば、エンゲルスさんが「マルクスは若い時分はフォイエルバッハ主義者であったがそれを捨て去った」と仰っているようですが、マルクスフォイエルバッハと同じ言葉を用いてはいますが、端から主義者なぞではなく、独自の視点で言葉を使っていたということです。そもそもの話ですが、或る思想と出会い、そこから影響を受けたに飽き足らず、主義者にまでなるというのは、そこいらで面白い本を読みましたレベルの話ではなく、それこそ抜けない棘のように刺さり続けていく体験なのです。仮に、そのようにして成った主義者だったならば、そこから脱却しようとしても、その棘のように刺さっている思想は彼女ないし彼の中で疼いて縛り上げていくものです。だから、エンゲルスさんの言うように、マルクスフォイエルバッハ主義者であった時期があるなら、後のマルクスの記述の中にもその傷痕が見られるのであり、読み手はテキストに当たる際にそれを絶えず取り除いていかなければならないくらいに目につくはずです。ある時期は主義者で後には捨てましたなんぞと単純に言えるのは、世話になった若手研究者を自分の利益や都合でころころ変えたりばっさり捨てたりする人の心のない大学教授様のようなサイコパス的心性ならいざ知らず、普通はあり得ない話です。まぁ、思想家の足元にも及ばない所か似ても似つかない軽薄な自称有識者の皆様は簡単に割りきれなさるようですが、御自分たちの単純な若しくは屈折した感性を歴史に名を残すような思想家の解説に持ち込むのはお止め頂きたいものです。
 もし、あくまでもこの点をどうしても基軸としてお読みになりたいというのであれば、それは「マルクスフォイエルバッハ主義者であったが後にそれを捨て去ることになるのだが、しかしその残滓は後期の著作の中にもこびりついている」という立場しかないでしょう。この立場からマルクスについての見通しを立てたものに、かの有名なドイツ哲学史家であるHenrich,D.によるKarl Marx als Schüler Hegelsという論文があります(元はUniversitätstage, Berlin, 1961, S.5-19、現在は"Hegel im Kontext", Suhrkamp, 2015に所収)が、これは短い論文なので細かくテキストを見ているのではなく、その視座を与えるに留まっているものですが、こうした残滓を見ていく的な手法を唱えているのがヘンリッヒさんだという時点で「あっ…(察し)」となるのではないでしょうか。確かに、ヘンリッヒさんほどの顕学は他にはいませんが、しかし、難しく書かれている内容を更に難しく解説することに定評のある方です。その方の唱える解釈ですから、この読みはテキストにはないものを外部から持ち込んでテキストを見ていくことによって複雑にしてしまい、一般人には縁遠いものにしてしまう読み方なのだということを問わず語りに示しています。もっと言ってしまえば、この読み方はヘンリッヒくらい哲学史について造詣が深く知識を持ち高度なそれらの処理能力をお持ちの学者クラスにならねば到底無理だということで、美しい国と称される地域で見回してもそんな方は絶滅危惧種なために、学界での身の振り方に長けているだけの方々は素直に止めておくのが無難です。むしろ、きちんとテキストに向かい、余計な読み込みを入れないでー昨今流行りのエコロジー的なんちゃらとかもこの余計な読み込みの弊害を生む要因ですがーマルクスの言説に向かうこと、そのことの方がはるかに実りが大きい。というよりも、そのことでしか、マルクスの言説を理解するには至らないのです。残念ながら、マルクスレーニン主義だの科学的社会主義だのといった御題目を毎朝毎夜唱えておいでのような方々が執着される「正しいマルクス」だのといったものを喧しく叫ばれてる声が数を頼みに自分たち以外を弾圧せんと息巻いているような現状では、テキストそれ自体に向かうことは非常に困難かも知れません。実際、なんちゃら主義のためにマルクスを読んでいるほうが楽なんです、結論はどっかの指導者層が自分たちの利害に合わせて用意してくれていますので。しかしながら、それは本来的な意味での「科学的wissenschaftlicher」、つまり人間の能動的な活動としての知るという在り方に根差した事態ではなく、それは人間が人間たることを自ら放棄することになります。こうした現状を見るにつけ、科学的社会主義と僭称される方々は本当に科学というものを考えようとなさっているのかしらと心配になります。どのようにマルクスを読むかとは、単に読書の態度ではなく、読む主体の在り方そのものが問われているのです。
 で、話は変わって、『システムとしての疎外』を読んで思うのが、疎外論という問題意識はマルクスの全生涯に渡る問題だったとして、なぜ或る場面では疎外という語を用いて、また他の場面ではーそれが明らかに疎外という事態を扱っているにも関わらずーその言葉を用いないのか、ということです。このことを明らかにするためには本来なら一つ一つ丁寧にテキストに当たることを必然とするでしょうが、なにせこちらは素人の横好き、草稿を含めた全著作なんぞ知る由もなく、とりあえずの見通しをつけるならば、著者シルヴァが指摘したように、『経済学・哲学草稿』では疎外が「現象学的に」(本書p.184)語られていたという点がヒントになります。すなわち、疎外とは、前述したようなその語源たるalienatioの中世的用法から分かるように、ある人が置かれている遠ざかりの状況、すなわち、その人が持っていてその人自身のものである事柄がその人から遠ざかっているという状況に関わっています。だから、マルクスにおいては労働者が自分のものである労働から遠ざかっているのが現存する労働の実情であることを描写する際に疎外という語を用いているのが本書の記述からも分かります。それに対して、明らかに疎外つまり労働者の労働は労働者自身のものであるにも関わらず労働者から遠ざかっているという問題を扱いながらもその語を用いない時は、疎外という状況に陥っている現状が、どのようにして定立したのかという成立過程が主眼になっているように思われます。
 例を挙げます。これの元ネタは、Dussel,E., "Metafora teologiche di Marx", trad. di Infranca, A., Inschibboleth Edizioni, 2018, p.122なんですが、それはともかくとして、マルクスの言に、

  もはやこの関係は、端的に一つの倒錯、つまり物件Sacheの人格化であって人格Personの物件化なのだ。というのも、この形式をそれまでの形式から区分するものは、資本家が何らかの個人的[=人格的]資格に基づいて労働者を支配するということではなくて、労働者が"資本"である限りにおいてのみ、そのような仕方で支配するということだからである。資本家の支配は、生きた労働に対置される対象化された労働が支配するということ、労働者自身に対置される労働者の生産物が支配するということ以外の何ものでもないのだ。(新MEGA II 3-6, s.2161)

 とあります。これはーよく読めば容易に分かりますがー、資本家が悪い奴で労働者はその悪意によって玩ばれているというような表皮的な話をしているのではありません。マルクスはあくまでも、資本主義社会の現状を淡々と、しかしそれに対する憤慨と怒気を以て、冷徹に記述しているのです。すなわち、ハンス(仮名)という資本家が労働者のペーター(仮名)を強要しているという個別的図式ではなく、というのも、そうであればハンス(仮名)を改心させて酷い目に合わせた分をペーター(仮名)に保障すれば解決する話となってしまいます。そうではなく、資本主義社会の中に投げ込まれた瞬間に資本家ー労働者の関係は、物件の関係と化すのです。
 それは何故か。違う文献に飛んで恐縮ですが、『Grundrisse』の有名な箇所を。

  交換価値のうちに、人格の社会的関わりは物件の社会的関係に化する。人格的な能力は物件的な能力へと化するのだ。(Marx, K., "Grundrisse der Kritik der politischen Ökonomie", Dietz, 1974, s.75)

 このようにして、マルクスは労働者はそれ自身ユニークな存在であるにも関わらず、交換価値の抽象に取り込まれていくそのことでを、人格から物件と化すことを描写しています。先ほどの箇所では、生きた労働ではなくて「対象化された労働」すなわちその人自身のものであってその人に固有なものである労働が、その人の固有性から遠ざかってオブジェになっていくーこうした過程によって疎外という現実が出来したという問題意識を読み込むかどうかは御随意にー、労働者自身ではなく労働者の生産物が労働の眼目となって労働というものから人間らしさが滑り落ちていく、その結果として労働者の労働が労働力という商品と化していくことを暴いているのです。この辺りは、もっと厳密にテキストを読まなければならないでしょうが、とにかく、疎外の現実を語るに当たり、それをそれとして提示するのではなく、それがどのような過程で産み落とされたのかを経済学の批判を通して明らかにする時には、余計な概念は持ち込まずに経済学の批判に徹して、そこから事態を述べるのがマルクス的な手法だということが分かります。
 お気づきのように、Sacheを物象ではなく物件と訳しています。それは、前回触れましたが、このSacheとPersonの対比によって人間の在り方を問うものにはカントの倫理学がすでに先んじて存します。このカントは営みとの比較によってマルクスの問題射程が明確になると思われる為に、カント的な伝統を汲んで訳しているのです。では、そのカントの言を見てみましょう、少しだけ。

  このように我々の行為を通して獲得される全ての対象の価値は絶えず条件の元にある。我々の意志の上にあるのではなく、むしろ自然の上にある現存在の存在は、理性の欠落した存在であるなら、手段としての相対的な価値だけを持つに過ぎない。そしてこのことから物件と呼ばれるのであり、それに対して理性的な存在は人格と呼ばれるのであって、というのも、その自然本性はまさしく目的それ自体であるためであり、すなわち、単に手段として使用されるようになってはならないのであって…(Kant,I., "Grundlegung zur Metaphysik der Sitten", IV 428)

 云々と続きますが、明確にカントは物件ということの内実を示しています。すなわち、物件とは、気まぐれな欲求によって調達されるものであり、理性の欠いた存在物であり、他のものと代替可能な手段であり、理性的な存在は、それに対して、目的として扱われるべきものとされています。図式的には一見すると分かりやすいのですが、ちょっと立ち止まって考えると、ではなぜ目的として扱われるべき存在者が手段として、他の欲求に隷属するものとされてしまうのか、そういう視点がないために、目的―手段の倒錯が生じる理由と解決という問題をどうしたらよいのか戸惑います。ここでのカントの記述を読む限りでは、あくまでも個人の倫理性の事件でこの問いが対応されることになってしまいます。確かに、人間が他者に対して意図的に善となるように振る舞ってみても、その振る舞いのうちには何らかの自分への見返り要求が入っていて、従って、そうした善行為も結局は他者を自分の利得のための手段として扱っているのであり、それは人間に対する接し方として間違っているのであるから、そうした関係性をひっくり返して、一人一人がただ他者に相応しい在り方を実現することを義務として行為することによって多少なりとも変化が生じるのかも知れません。しかし、そんなまどろっこしいことを語る間にも、働く人たちは日銭を稼ぐために身を削っていて、すなわち、毎日の生活を成り立たせるために働かなければならないが故に働くことで心身ともに疲れて傷いてしまっていくというこの現状は進んでいくのです。従って、個人の内に物件化の要因とその解決を見るとしても、それはある程度余裕のある向きには適しているかもしれませんが、「日ごとのパンを我らに」という言葉が単なる祈りではなくて切実とした要求とならざるをえない立場に追いやられてしまっている人たちが安心して食って寝ることをまさに今日それを可能なするのかどうかは私には分かりません。
 つまり、こうした物言いでは、人はまだ物件とも人格とも扱われることになりうるその分岐点に立っていることになります。それに対して、マルクスの言説では、もはや労働者は物件でしかないのです。マルクスの物件という言葉のうちに、カント的な意味合いの、誰かの気まぐれな欲求に隷属させられるような非理性的な自然物体として、あるいは、壊れたら取り替えられるだけの扱いを受けるような存在として、そういうニュアンスを読み込むと、人格が物件にされています、という記述が単なる事実を述べているのではなく、そこにどれ程の嘆きと悲しみと憤りがあるのかを痛感できます。だから、巷で耳にする「マルクスは疎外概念を物象化概念に置換した」という言い回しが、日焼けもしなければひび割れもしたことのない綺麗な手で書かれた文言であることを知ると、もはや何を言うべきかも分からなくなります。いや、物象化でもいいんですよ。しかし、マルクスがその語をわざわざ選んでその語を使用して、しかもその語の背景を考えていくならば、そこにどれ程マルクスのパトスが込められているかを少しでも感じようとなるはずであり、単純な理論の変遷の問題には出来ないでしょう。
 だから、私は物象と訳さないのです。そう訳すると、ただそういうふうに現れているということを記しているに過ぎないように聞こえるからです。しかし、物件と訳し、その語が使用されてきた背景を絶えず絶えず想起するなら、それは本当に解決していかなければならない問題なのだと心から感じるのです。例えば、この世に生を受け、冷暖房の効いた部屋で人事問題に介入しただの何だのを叫ぶことで学術と騒げるような身分でいられる人たちがいる一方で、生活のためや家族のためにこつこつと勉学に励んでいる方々が労働者という物件として扱われて、他者の欲求に飲み込まれて他者の利得のためにその方々の尊厳が踏みにじられた挙げ句、壊れた玩具のように捨てられても文句すら言えずに日々の苦痛を身に刻んでいるなんてことがあっていいのか、と。
 だいぶ長くなったので、今回はこれ位で。次回も、少しばかり考えたいことがあるので、それについて。

【書評ー本文ー】Silva, Ludovico, "La Alienación como Sistema" , Alfadil Ediciones, 1983

 前回の長い前置きに続けて、今回は『システムとしての疎外』の内容を要約していきたいと思います。
 著者シルヴァは、本書を始めるにあたり、欧州や北米の研究者の中には疎外論マルクスの若い頃のみに限られた議論であって『経済学・哲学草稿』(1844年)に見られるだけの内容だという偏見に陥っている傾向が散見されるとします。これは、本書では語られていませんが、Dussel,E.,"El último Marx(1863-1882) y la Liberación Latioamericana", Siglo xxi editores, 1990に詳しいのですが、この本はそれとして語らなければならないことが多いので、とりあえず指摘すると南米のマルクス受容は経済学的な理論書ではなく、『フランスの内戦』や『ルイ・ボナパルトのブリューメル18日』などの政治的著作から始まったことが特徴とされています。従って、科学的マルクス経済学の教条に拘る必要なかった、このことがシルヴァの指摘の背景にあると思われます。そこで、著者は「テキストに目を向けることにより、私は疎外の理論がマルクスの全生涯に渡る課題であったことを示す」(p.9)としています。そして、疎外は確かに哲学上の用語ではあるが、それは決してヘーゲル哲学の継承ではなく、マルクスの思想、つまり、社会―経済学的理論の基盤として存するものであると論じ、「疎外は使用価値から交換価値へと至る普遍的過程である」(p.11)と定置します。こうした著者の仮説とその検証が適切であるかの判断は読者に委ねられているとして、本著作の特徴は、疎外という概念がマルクスの著作全体に根づいていて、そこを見ていくことで、マルクスの思想についての理解を深めるための展望が開かれるとしている点にあると感じます。
 その上で、著者は、従来の疎外理解の中にある、例えば人間主義か科学主義かというような2分法は解釈者によって作り上げられたものであり、実際のマルクス理解の為の障害となることを指摘します。(p.15)読み手が知らず知らずのうちに囚われているマルクス解釈というものをいったん括弧に入れてマルクスのテキストそれ自体に向かうように著者は促していると言えます。特に若きマルクスと円熟期マルクスという分断を無用であるとして作り物とする所(p.17)には、私自身も反省させられます。
 本書では、一つずつマルクスの主要著作を見ていきます。まずは『経済学・哲学草稿』(以下、『経哲草稿』)。ここでの大きな指摘は、疎外が哲学用語であったとしても、それは哲学のカテゴリーのうちに扱われているのではなく、歴史的・社会経済学的範疇において語られているのであり、従って、疎外された人間の姿はまさに資本主義社会の本質的問題を反映したものであるとしています(p.72)。
 次は『聖家族』。かの有名な「思弁哲学」について論じた部分(KMWS, I, 731s)を長々と引用して、そこで言われているイデオロギーとしての哲学は疎外された哲学の姿であるとしています。それは、抽象的に事物を認識するというその仕方のうちに疎外という事態が生じる様を指摘します(p.93)。さらに、『聖家族』のうちに、人間と対象の間に存する疎外された実践的関係を克服する方向性が語られているとして(p.112)、その為にこそ共産制社会、つまり生産手段の社会的保有を実現する必然性が説かれているとしています(p.113)。従って、疎外された人間をその状況から解放すること、このことのうちに自由が現実化するとマルクスは定置していることになります。
 続くは『フォイエルバッハのテーゼ』。なぜこうしたテーゼの形で書かれたのかという問題意識から著者はテキストを読んでいくのですが、理論と実践の関係を扱う箇所に疎外の問題を見て取ります(p.123)。ヘーゲル的な思弁哲学体系のうちに人間の思考が取り込まれていくその過程こそがまさに人間の疎外であると見るわけですー全くの私見ですが、これはマルクスの『学位論文』において既に展開されている問題意識だと思われますー。
 そして、『ドイツ・イデオロギー』(以下『ド・イデ』)。これは、テキスト成立上の著者問題があることで有名ですが、それを無視できない点であるとして、かなりのページをテキスト問題に割いて論じています。その上で、イデオロギー的な疎外、近代国家において抽象化された人間の姿のうちに原初的疎外を見ています(p.179)。『経哲草稿』ではブルジョア社会を持続させている事柄のうちに疎外の問題があることを見ていた一方で、『ド・イデ』は疎外が歴史的地平として現存することを論じるものであるとし、歴史的課題として疎外という問題があるのだとマルクスは語ると著者は見ています(p.184)。この次の『哲学の貧困』については、プルードンへの批判から、人間の労働が価値を作り出すことをマルクスが論じていくことで疎外の生まれる経済学的視点を発展させたとしていますが、ここでの著者の記述はあっさりしています。
 さらに議論は進んで『Grundrisse』ー欧語でタイトルを書いてるのはGで一発変換できるように単語登録していて楽という非常に個人的な理由で他意はありません、すいませんー。この著作で疎外が取り扱われていることは周知の事実ではありますので、私たちの興味関心の対象となるのは疎外がどのような射程でもって論じられているかだと思われます。著者シルヴァは『資本論』よりも『Grundrisse』の方が広範であるとして(p.205)、剰余価値論や貨幣理論といった更に経済学的に踏み込んだ問題領域に入っていることを提示します。また、労働時間の問題について概略しつつ、『Grundrisse』における疎外の問題を貨幣の問題の中で取り上げられていることに特徴があるとしています(p.215)。そしてこれが『資本論』における貨幣物神に継承されていくことになるとしているのですが、それを定式化したのが「物件Sacheの人格性化と人格Personの物件化」(p.217)であると著者は述べますーこのSacheを従来のマルクス語の物象ではなくて物件と訳すことについては、この語は、PersonとSacheを対峙させたカント倫理学との比較において鮮明にマルクスの内実を明らかにしうるのではないかと考えているためであって、次回にちょっとこの問題について考えてみたいと思っています。ただし、本当にちょっとの予定ですので期待外れになるかもしれませんがその時はすいませんー。ここで、ヘーゲルにとっては疎外とは観念の世俗化の契機であったものが、マルクスにおいては人間の現実であり、歴史的に克服されるべき課題として示されていることに特徴があると著者は論じます(p.223)。つまり、人間を抑圧して縛り上げる状態であるところの疎外を取り除くことが個人の自由の実現となるのです(p.236)。この視点はオスカー・ワイルドと共有しているものだとして筆を進めていく辺りに(p.247)、マルクスの文体論や文学的表象において功績のある著者の面目躍如たるものがあります。その上で、この個人の自由の実現のうちにこそ、マルクスが課題としているものである内容、つまり、近代社会において人間が物件化されている現実が反映されていて、その現実を克服することこそが必然なのであるという内容が見られると著者はしています(p.253)。つまり、この疎外は生産手段の私的所有という近代社会のイデオロギーが生み出した歴史的産物の結果であるとマルクスは語るのだと著者は論じているのです。ちなみに、本書での記述は『Grundrisse』についての箇所が最も興味深いと思われますが、あくまでも私個人の感想です。
 話は『政治経済学批判』に移りますが、著者シルヴァは、ここで疎外が使用価値と交換価値の弁証法のうちにおいてあらわれるものであり、下部構造に基礎づけられた上部構造を映し出すものであることを指摘します(p.286)。すなわち、土台ないしは経済学的基盤は建物ないしイデオロギーを支えるものであり、そのために経済学的カテゴリーとしての疎外は、そのイデオロギーを維持するものとして定置されているのであるから、疎外を克服することでイデオロギー的な状況を乗り越えていく足掛かりとなるということをマルクスから著者は読み取ります。
 ここで『資本論』の登場。『資本論』は厳密に経済学的問題が扱われていると著者は語り、その成立史を概略します。資本論成立史については、各々の研究者で独自の理解があるかとは思いますのでそれについてはそれぞれの御意見にお任せするとして、本書は搾取の理論の側面を重視して読み解きます(p.302)。この搾取の理論には、価値論の理解が必然であることを著者は述べ、使用価値と交換価値の問題を取り上げます。そして、交換価値の抽象に人間の労働が飲み込まれていくことで抽象的労働へと化していき、労働者の労働が商品となっていく。こうした著者シルヴァによる概略は『資本論』をそのままに読めば書いてあることを非常に端的に示してくれています。時に『資本論』を宇野理論だの分析的マルクス主義だの何だのと外皮的な理論の立場からの解釈を後生大事になさる方々がおいでですが、そうした方々の御言葉はもはや読んでいるのが目の前のマルクスのテキストなのか御自分達の頭の中にある宇野経済学の文言なのか分からなくなっていき、何と言いますか、辟易とするばかりです。しかも、その語る用語たるやいわゆる中二病っぽい造語の連発。いや、中二病はセンスある上に自分で考えているので中二病に失礼ですね。難しい言葉を御存知で偉いですなぁと言ってみたら満足しなさるんですかね。分かりもしない気色の悪い言葉を知っているんだとただただ振り撒く。こちらとしては、漢字に漢字を繋げたゲシュタルト崩壊を起こしそうな文字の羅列を見る度に「戒名かな?」と思ってしまいます。まぁ、借りてきた作り物の言葉で理解なさろうとする時点で、マルクスの生き生きとしたテキストを読み解く地平には至るわけもないので、その言葉が日本語的に意味をなしているのかをもう少し考えて頂きたいものです。それに比べて、この著者シルヴァは非常に平易で日常でも無理のない言葉使いをしています。その上で、マルクスのテキストの中に息づいている言葉を成り立たせている地平そのものを私たちに示していると言えます。
 以下、横道の注。思想家の言葉に対しては、「その言葉の意味は何か」という問いはー確かに必要ではありますがー充分な視座を開くものにはなりません。つまり、言葉を対象化して捉えるものですが、この問いの仕方では、思想家の言葉が、その意味を把握しようとする研究者によって断裁され加工されてしまいます。たいていは研究者の方が思想家よりも浅薄な知性しか持ち得ないので、結果として、この問いによって示された事柄は、愚鈍なコピー機によって印刷された劣化模写にしかなりえません。言わば、研究者自身が格闘して紡いだ言葉にすらなり得ていない、仲間内だけでしか通用しえない研究動向にどっぷり浸かっただけの学問オタクの戯言に留まってしまうのです。
 そうではなく、問いは「その言葉は何によって意味あるものとなっているのか」です。書かれた言葉のみに執着するのではなく、その言葉が産み出された位相そのものを思索するのです。従って、この問いは思想家の問題座標そのものへの模索であり、思想家のいる場に到達しようとするものです。思想家と同じように見ようとする、言ってみれば、その思想家に「倣うimitatio」ことです。マルクスの言葉を借りれば思想家は「様々に世界を解釈してきた」わけですが、その解釈は思想家が立っている地平から遂行されたものです。私たちも各々で独自の地平に立っています。だとしたら、私たちが自らの立っている地平に固着したままで、思想家がその人自身の解釈学的地平の上で紡いだ言葉それ自身へと入っていくことはできないでしょう。思想家の言葉は抽象的命題なぞではなく、その思想家の生き様全てを背負ったものなのです。確かに、思想家が立っている地平は多くの場合、思想家自身にとっては否応なしに投げ込まれたものです。だからと言って、その思想家と同じ社会的条件になれば同じ視座を獲得できるわけでもありません。マルクスが言うにはプロレタリアートは人々が苦しんでいるこの世界を変えていく担い手です。しかし、体制側のお偉いさんに追従することで満足して弱い者虐めを生業とするような卑賤な連中もいることもマルクスは暴きます。このことは、ある社会的条件がその人の在り方そのものを決定するのではないということを示します。言い換えれば、その人がどの解釈学的地平に立っているのかはその人自身の実存的決断によるのです。この事実は、もし思想家に倣うことを志向するなら、私たちに非常な難題をぶつけてきます。社会的条件を合わせればいいだけならこれ程単純な話はありません。思想家のコスプレでもしてればいいのです。しかし、そうではなく、読み手が自分の実存的決断によって解釈学的地平を獲得しなければならない、これは、日々の中でともすれば状況に流されてしまいそうになる自分自身を覚知し、その状況に抗っていかなければならないことを私たちに迫ってくるのです。そうした覚悟のないまま思想家の言葉の上っ面だけをなぞりたいのであれば、それは個人の自由が保証されている範囲で御随意にですが、その程度の態度であるから研究論文が読書感想文にしかなりえないわけで、それなら端から思想なんぞに手を出さずに研究者各位は仲間内で称賛し合っているだけの自己啓発本紛いでもお読みになっておられれば宜しい。私たちはそうした稚拙な研究者の妄言に惑わされることなく、自分の決断によって思想家の言葉を体験しなければならないのです。
 以上、注終わり。話を戻して、著者シルヴァによるマルクスのテキストそのものへと向かっていく視点が示しているものは、マルクスの格闘とは新しい経済学を志向したのではなく、現実の世界を映し出している古典派経済学の批判を行い、その批判を通して現実の問題に切り込んで行ったものなのだ、ということです(p.322)。この点について、他の論客のマルクス解釈を著者自身の見解に比較して検討しています。そして、貨幣物神の問題が主題的に論じられる中に、本書のテーゼである「疎外は使用価値から交換価値へと至る普遍的過程である」が定置されています(p.323)。そして、この貨幣物神の問題はあまりに哲学的かつ文学的に描写されているものの、それは現実の問題に切り込んでいくための手法であり、主眼は哲学にあるのではなく、商品の分析に関する経済学への批判にあるのであり、それを通した現実世界の克服にあるのだと著者は論じます(p.328)。この議論の過程で、人間の物件化が語られてることになり、『Grundrisse』からの問題の継承と発展について論じられます(p.350)。同様に、分業と疎外の問題について『資本論』の中にもその視点が存することを論じることにより、マルクスの思想的格闘全体に渡って疎外の現実とその解放のための過程が考察されていると著者は述べます(p.365)。
 最後に『剰余価値論史』について扱われて、経済学説史の中での疎外について、マルクスがどのように論じていたのかについて語られます(p.370)。このように、マルクスにおいて疎外の問題は多様な仕方で扱われて多岐に渡って論じられている、このことを覚知することこそマルクス理解において必要な視点なのだと著者は結論づけています(p.386)。
 以上、多少なりと『システムとしての疎外』について見てきました。著者は、主張は上記の要約の中で何度も繰り返されているので明白ですが、マルクスのテキストそれ自体にきちんと向き合うこと、そして自分の言葉でマルクスを理解していくこと、このことが何よりもまず求めれているということです。
 次回は、この著作に触発されて考えたことを蛇足的に書き連ねます。

【書評ー前置きー】Silva, Ludovico, "La Alienación como Sistema" , Alfadil Ediciones, 1983

 Amazonさんで探したのですがどうも掲載されていないようなのでこちらで取り上げたいと思います。マルクスの疎外についての著作なので、ついでに個人的なマルクス疎外論への見通しをつけることも兼ねて論評していきます。今回はそのための長い前置き。著作の紹介自体は次回です。まぁ素人の浅知恵ですがご寛容の程を。
 著者はルドヴィコ・シルヴァ(1937―1988)の名で知られているベネズエラの思想家・詩人です。日本語訳された彼の著作があるのかは寡聞にして知りませんが、マルクス読解の中ですらも言及されていた記憶がありません。どうも、日本の学問好きの手合いはドイツやフランスを中心とする西欧の方々には必要以上のお追従と媚びを表されて西欧セレブの仲間入りを果たしたと御満悦の御様子の一方で、南米や南欧などを軽視する傾向が鼻につきます。和辻哲郎の『風土』なぞその最たるものでその著作からは自虐的な卑屈さを感じますが、それはさておき。以下で扱うこの著作のタイトル、日本語に直訳すると『体系としての疎外』となります。確かにsistemaは体系と訳しえます。しかし、こう訳してしまうと、ヘーゲルに代表されるドイツ観念論の体系化された望洋な哲学思考をイメージしてしまいます。しかし、著者の言いたいことはそうではなく、疎外という語は様々な概念と関係しあいながら一つのまとまりを作り上げていく、あるいは、マルクスを理解する上で疎外という言葉は彼の多岐に渡る思想的格闘に一本の道筋をつけるものとして提示していて、そういう点を強調したタイトルなので、カタカナ語で「システム」と軽く置き換えたほうが本書の内容に即しているように思われます。
 さしあたり、著者のマルクスにおける疎外理解に結びつけて言うべきことは、疎外はたとえそれをマルクス理解に必要ないと切り捨てるにせよ逆にそれを重視するにせよ、宗教批判を通して現実批判を行っていた時期である若きマルクスの考えをきっちりと読み解くことなしには語ることはできるはずもないということですー後で例を挙げますがテキストの読解抜きに断定する傾向が過去にありますー。マルクスは宗教を現実の苦悩を写し出すものであるとし、しかし、その写し出す仕方は宗教的な抽象による、すなわち、人間が生きている現実を天上的在り方と地上的在り方とに分裂させ、問題を全て人間が頭の中で観念的に考え出した抽象に過ぎない天上的在り方へと還元させて現実の苦痛を捨象するというものであることを批判します。そして、こうした宗教的な観念倒錯がもはや宗教教義を必要とせずに世俗的な仕方で完遂されているのが近代国家であることを暴き出しすのです。近代国家で言われる市民とその理念、そうしたものを実現することをこそ至上命題とすることは、抽象的な市民概念の中へと現実の生きた民衆の苦悩を取り込んで霧消化することになるわけです。こうした事態の中で、宗教を乗り越えるその仕方がまさに近代国家の抽象を乗り越える在り方となる、これをテーゼとして若きマルクスは格闘するわけです。多少論評の仕方は異なりますが、本書でもこのことが指摘されています。そして、その過程から出てくるのが疎外です。
 この疎外という語、ヘーゲルが自らの哲学の中で用いて、フォイエルバッハが宗教を断罪する脈絡で使ったために、何やら御大層な哲学概念のように聞こえてきますが、本来は、疎遠になる、よそよそしくなる、遠く離れるといった意味です。この疎外という語について予備的なことを付け加えると、alienación/Entfremdungはラテン語のalienatioの訳語です。実際にラテン語圏内でどのように用いられてきたのかの例を探す上で便利なサイトに、Corpus Thomisticumというトマス・アクィナスの全著作が読めるものがあります。ここで著作の中から単語を検索できて、13世紀中世における語の用例探索に便利です。因みに、中世哲学研究者による選民意識丸出しの妄言に付き合うつもりはない私のような彼らから見たら卑賎な人間でも、こういう便利なサイトがあること位は学部の哲学史の講義で教え頂いて知ってます。世界はよく見れば善だというような発言者の視力を疑いたくなるような戯れ言を垂れ流すなら、こういう専門外の若い研究者に有用な情報を流して差し上げたらいかが。で、このサイトで調べると、余り用例はないのですが『神学大全』に限って言えば、1)第1部第111問題第3項主文、2)第2部の1第28問題第1異論、3)第2部の2第173問題第3項、4)同じく第175問題第1項主文に見られます。それぞれの細かい議論は個人的に全く興味がないので詳論は避けますが、1)は天使の力が人間の想像力に影響する際に人間には意志があるために場合により人間の身体的感覚からalienatioされて行われあるいはalienatioなしに行われるというものー結局alienatioの有無の基準は何なんですかねー、2)脱我extasisはalienatioを含意するとの誰が言ったかは知りませんがそういう異論がありますよという提示、3)預言ーノストラダムスの大予言のような未来予想ではなくて神の言葉を人間が預かってそれを語ることーは感覚からalienatioされずに生じるが、それを知解する上では感覚からのalienatioを時に必要とする、というような言わば心からどうでもええわという感想しかない言説の中で出てきます。しかし、話の内容はしょうもない事柄とは言え、語の使用やその文脈を見ると興味深い発見があります。2)の例は異論ですので聖トマス様の有難い御高説ではないので除外すると、全てalienatio a senisibusー属格とaで距離を示しますーつまり感覚から離れていること、私の見たり感じたりする事柄でありながらそこから引き剥がされていってしまうという事態を示しています。従って、疎外とは何らかの事態からの遠ざかりあるいは或る事柄との隔たりを意味します。さらに言えば、alienatioが登場する場面では必ず神的な啓示つまり彼岸からの呼び掛けとの関連が語られています。神的な権勢が私に作用して支配することで私のものである言葉や思考が私から遠ざかる、この遠ざかりがalienatioなのです。
 神なんぞというものが人間の構想から自立して存在するわけはないのですから、こうした神的なあるいは悪霊的な力は人間の想像の産物に過ぎません。これをフォイエルバッハ的に言い直せば、人間が生み出したものである宗教という妄想あるいは心情の結果物に過ぎぬのに、つまり、自分が自分で神を作り上げたにも関わらず、自分から遠ざかっていき、さらには神が自分をがんじがらめにする、これがフォイエルバッハの言う疎外の射程です。しかし、マルクスの語る疎外は労働という事態の現実を表象する際に登場します。これをどう評価するかはマルクスを読む私たちの問題ではありますが、さしあたり言えることは以下のようになります。本当の意味で人間にとって「疎外」という事態が立ち現れるのは、神について云々するような観念の場ではなくて、現実の人間の実際の活動、つまり労働のうちにあるのだというのがマルクスの言表なのだということです。もう少し踏み込みで言えば、マルクスフォイエルバッハと同じく疎外という語を用いながら、マルクスフォイエルバッハに対して本当に疎外が問われるべきは人間の現実的活動についてだと論じているのであり、従ってそもそもの立脚点がフォイエルバッハとはまるで違うことが分かります。あるいは、マルクスフォイエルバッハに対してこう突きつけたと言えるかもしれません、問題はそこにあるのではない、ここにあるのだ、と。
 このようにして語られているマルクスの疎外についての研究は、良く言えば多種多様、悪く言えば玉石混淆の体を現しています。とりあえず、日本語で読めるものに以下のようなものがあります。マルクスの疎外は、初期マルクスの言であるためにそれは未熟なものであって後の科学主義においては捨て去られたのだという点で述べられたものにオイゼルマン著樺俊雄訳『マルクス主義と疎外』青木書店1967年なる本がありますが、このソビエト共産党プロパガンダ的書籍はもはやたいていのマルクス疎外論理解の参考文献として挙げられることはありません。しかし、この本で言われている事柄をしっかりと批判して克服しておかなければ、疎外についての誤解の根を引きずったままになってしまうのではないかとも危惧しています。そのため、本当ならこの書籍を徹底的に批評しなければならないでしょうがさしあたりの視点として、疎外はフォイエルバッハ人間学主義の呪縛に囚われた概念であって後のマルクスエンゲルスの作品で定式化された社会的歴史的発展の客観的過程には至っていない、こうオイゼルマンが述べる背後には国家社会主義的独裁権力の絶対化が存します。初期マルクスは規範的概念を扱っていてそれはまるで駄目だ、自然法則に因る発展を定式化した記述的概念こそが本当のマルクスだと言う時、それは人間が自らの意志によって行為することをブルジョア的であり、それは自由ではなくてただの自分勝手と断罪し、そうではなく、民衆が党による支配を受け入れることを決めるこそが自由であって、民衆は党の支配の元での機械となることが唯物論的なのだ、こうした前提によってその言説が成り立っているのです。
 ちょっと話は横道ですが、20世紀の言語論的展開を体験した私たちの世代において、ある文章が記述的か規範的かを厳密に区分することが果たして可能なのかをそもそも疑ってかからなければなりません。「信号機が赤い」はたしかに事実記述的文ですが、しかしそれは同時に「信号機の前で止まれ」という道義的命令を含んでいます。このように、主語概念が人間の社会的規約によって成立している事態であればそれを事実記述的に表現したとしても、その文には人間に対する規範的意味が示されていることがあるのです。また、「林檎が赤い」における林檎は自然的な意志持たない物体であり、人間に対してそういうものとして林檎が表象していることを示していますが、これも発話者の状況や文が発せられた脈絡においてはー目の病気で見えなかったのが見えるようになったとか飢饉や戦争で植物が生えなかったのに実っているとかー単なる事実記述的文ではなくなります。となると、そもそも記述的か規範的かで或る文の中で語られている概念を分類すること自体がもはや支持できないと言うこともできます。話を戻しますと、オイゼルマンのように露骨な方はともかく、初期マルクス疎外論は後期マルクスにおいては捨て去られたという解釈を学者先生が語る時、そこにこうした民衆を機械化するあるいは民衆の自由を蔑笑する視点が含まれていないかを私たちはしっかりと判断しなければならないのです。
 他にも、アルチュセールさんの『マルクスのために』(河野健二・田村俶・西川長夫訳、平凡社ライブラリー、1994年)なぞも、オイゼルマンさんとは違う視点ではありますが、初期マルクスは後期マルクス理解には必要がなく、従って本当のマルクス理解には無用であるという解釈をなさっておいでですが、アルチュセールさんの場合は明らかにマルクスマルクスとして理解することよりも、西洋形而上学的体系を乗り越えていくための手がかりをマルクスヘーゲル哲学を克服した道程に求めるという企図によって読み解かれているので、それをそのまま受け入れることは出来ず、一つずつそこで語られている命題を判断しなければならないのです。
 このように、マルクス疎外論を批判する言説には、その言説の背後にある前提が強く反映されていると言えます。とはいえ、これは疎外論を積極的に評価するような、ポーピッツ著小野八十吉訳『疎外された人間』未來社1979年やガロディ著海野洋訳『対話の価値』サイマル出版1968年も同様で、後者はマルクス疎外論キリスト教的原罪論に接ぎ木して宗教と共産主義政党との連携強化を目論見ます。ここまでやられると笑うしかありませんが、この議論もやはり無視するのではなく克服する必要があるでしょうーその試みは本ブログで多少やりましたー。
 こうした明らかに政治的意図によってマルクスを読む傾向とは別に、ヘーゲル哲学から継承された問題として読むルカーチ著平井俊彦訳『若きマルクスミネルヴァ書房1958年や、フロイト的な抑圧心理を基軸にしながらのマルクーゼ著良知力・池田優三訳『初期マルクス研究』未來社1968年など、色々とありますが、私たちにとって必要なのは、やはりマルクスのテキストそれ自体に向かうことであり、確かにルカーチさんやマルクーゼさんの思想は傾聴すべき点もあると思いますが然しながらそれはマルクスとは違う人の考えであってそれを経由することは言わば旅行ガイドを読んだから東京に行ったことがあると公言するようなものです。
 このように色々な方が様々なことを言っていて更に互いに全く異なる内容を議論している理由は以下のことから類比的に推察できます。昨今、青白い表情をして蚊の鳴くような細い声で御歌を合唱されている方々が「アーティストが政治を語るなんてダセぇ音楽で勝負しろ」と仰っておいでなのを耳にさせて頂きますが、そういう方々こそ、その実、抑圧する側の支配構造の内にずぶずぶと浸っておいでの惨状を拝見します。そういう方々に対して、「アリストテレス曰く『人間はポリス的な動物である』のだからして、自らの生きている場を作り上げる過程に参与することのうちに人間は自らの自然本性ないし類的本質を実現するのであって云々」とか、「そう言ってること自体が他者批判して音楽とは関係ないわけで、それこそがダセぇの極地っスよね」とか、そんなことを語っても無駄なのであって、というのも、そういう「政治的発言はダセぇ」と御題目のように唱える奇特な方々にとっての「政治」とは体制批判を意味していて、直接的な体制賛美あるいは沈黙や素通りを決め込むことによる間接的な体制容認といったものは政治ではないので、自分たちだけは「ダセぇ」にはならないということになるのです。つまり、「政治」という概念が、体制側かそうでないかという言わば猿山のボス猿を決める喧騒のような粗野で浮泛な仕方で決めつけられていて、他の議論を受け入れる度量がないからです。そうした方々の政治概念を乗り越えていくのも必要な作業ですが、このことから類比的に言えるのは、疎外を不要と断じようが重視しようが、そこで言われている疎外という言葉の意味内容が相互に噛み合わない、いわば共約不可能な状態となっているのです。だからこそ、マルクスのテキストに向かう、今回取り上げた『システムとしての疎外』はまさにその必要性を再確認させてくれます。
 本書は、以下のような問題も私たちに想起させてくれます。疎外論が中心かどうか、そういう問いよりも、何故あるいはどのような話の筋道においてマルクスは疎外という言葉を用いたのか。言い換えれば、マルクスの物言いを研究対象として外部から覗き込んで切り刻むような仕方で扱うのではなく、マルクス自身が語っているその現場に戻す作業の必要性、このことです。
 さて、前置きが長くなりましたが、次の記事で『システムとしての疎外』の内容を見ていきたいと思います。

【書評】ヤハマン著木場深定訳『カントの生涯』理想社1978年。

 普段考えていることと違う内容を模索するのは、集中的に時間が取れないとなかなかうまくいかないので、ブログ記事をお休みしてAmazonさんでレビューするのが私的な活動でしたが、今回はそのAmazonさんに書誌情報が掲載されているのがどれだかいまいち分からなかった本をこちらでレビューします。こちらだと星つけなくていいので気楽です。とりあえず、本書のレビューにタイトルを付けるとすれば「宗教的敬虔主義の浅薄さ」ですかね。
 さて、今回の本は、ヤハマン著木場深定訳『カントの生涯』理想社1978年、です。ちなみに、個人的に所有しているのは1985年発行の第1版第3刷です。あと、定価は1500円で、記憶によれば古本屋さんで300円で購入しました。訳者による「あとがき」によれば、原著は、Jachman,R.B., "Immanuel Kant geschildert in Briefen an einen Freund", 1804だそうですが、本訳書は原著より最終章を割愛して、代わりにヴァンスキの『晩年におけるインマヌエル・カント』の最後部分の抄訳を収録しています。著者のヤハマンさんは、カントの生前から交流のある人で1800年に『カント宗教哲学の吟味』なる本を著した人で、ご存知のように、カント自身がこのヤハマンさんの著作に序文を書いてます。
 さて、本書の内容ですが、個人的な交流のあった方だけあって、カントさんの好みや生活習慣などの人間味に関する部分は詳しく、哲学史の講義の小ネタに使える話題を提供してくれてはいます。いま変な譲歩を入れましたが、実際、この本の有用性は恐らくそうしたカントさんの趣向についての事実的部分、つまり哲学史の小ネタだけです。この本の記述は、1)「カントはこれこれを好んでいました」とか「これこれするのを常としていました」という記述ーつまり個人的事実ーと、2)「カントは周りから尊敬を集めていました」とか「カントは誠実な人物であると見なされていました」とかのいわゆる"聖人伝"的な記述と、3)「カントはこう言っていました」というカント思想のヤハマンさんの評価とに、分類できます。
 で、この2)の部分はやはり話半分に伺っておくのが無難でしょう。この手の聖人伝擬きの文体は生き生きとした人間の在り様を、慎ましやかな生活を送りながらも神を信頼して人には優しくして体制に従順だったという人間像に、つまり支配側にとって都合のよい人間像に仕立て上げていくものです。そして、そうした記述は3)の思想の評価にも直結します。細かくは、以下で見ていきたいとは思いますが、こうした理由のためにカントさんの研究には殆ど有用ではない気がします。おそらく、文章の節々から推察するに、このヤハマンさんという方は敬虔な神信仰をお持ちの質朴な方だったのでしょう。しかし、そうした方ですらーというよりもそうした方ほどーいわゆる"聖人伝"的な文体に取り込まれるやいなや、凡百の内容しか記せない書き手になってしまうだけでなく、自ずからその言の端々に大衆に対する侮蔑的な傲慢心をにじみ出していくのです。本書を読む上で、興味深い点となるのは此処です。すなわち、カントさんの生涯云々を知るためにどうのではなく、「なぜ宗教的敬虔は賎陋な世間感覚へと落ちていくのか」という、本書の書かれた文字を超えて漏れ出してくる点にこそ、本書を通して私たちが考えなければならない事態があるのです。
 ヤハマンさんが記す内容には以下のような特徴があります。「およそ国家の変革を臣民の側から企てることはいかなる事情のもとにおいても、残虐な暴君の圧政のもとにおいてすら不当である」(本訳書99頁)、「婦人は誰でも一般教養は勿論のこと、その将来の使命を完全に果たさんがために、妻および主婦としての特殊な目的にふさわしい教育が必要である…(中略)…人々がその娘に音楽家から音楽を習わせるように、料理人から料理を習わせて然るべきだ…(中略)…妻が夫にちゃんとした食物を供する代わりに、台所の世話をすべき時間でものした詩だの画をもってその償いをしようとしたら、どれほど才気ある夫でも、たとい詩人であり画家であっても気に入るわけがない」(本訳書127-128頁)、あるいはヤハマンさんの字の文では「この男は下男の分際にもかかわらず生意気で」(本訳書136頁)、など、言ってしまえば、家父長制的身分社会のプロパガンダみたいな文字で溢れています。どうも、ヤハマンさんはカントの著作が当局によって規制されて以後はカントが宗教に関して口を閉ざすようにされたことに対して「いや違います。聖なるカント様は皆様に逆らったことなど一度もございません。ご覧下さい、聖なるカント様は皆様が重視されている伝統的身分制度を遵守してそれを広めておいででした」とでも言わんばかりに体制追従の文言で固めています。本来なら、当局の規制や支配こそが間違っていて、それがいかに人間の在り方を抑圧するのかを考えていかなければならないのに、こういう文章を書いてしまうあたりに著者の思想家としての限界を感じてしまいます。
 上記の召使の話を続けて言えば、これには「カントのこの下男を扱うときの調子がいつも叱りつけるようで腹立たしげ…(中略)…カントは下男に赤襟の付いた白い上衣を着せ、これ以外は決して別の衣服を着ないようにと喧しくいってました」(本訳書136頁)という話もくっついてきて、これなぞは、カントによる只のパワハラに過ぎないのを嬉々として述べるという著者の神経を疑いたくなります。何と言いますか、大哲学者様のなさるパワハラは善い行為とでも言いたげですが、だとしたら、カントさんの説く倫理学とは、抑圧して支配する輩によって領導される倫理であって、日々の生活を強制と苛斂の下に置かれている人々は倫理の対象から除外されるものだということなんですかね。あるいは、社会的に安定して保障されている身分の連中内部に限定されたもの、またはそうした身分におわします輩が被支配者に強制する倫理とでも言いますか、そういう下衆な連中にしか該当しないシロモノなんですかね。有閑階級の言葉遊びに過ぎぬカント倫理学、そういうものをお好みならどうぞご自由にですが、だとしたら、そこで言われる普遍なるものの薄っぺらさに辟易とします。
 あと、カントさんの財産について語る段で「人は利得の殆どない職務にあってさえ…(中略)…寄るべない老後を完うするために立派な財産を作りうるものだ」(本訳書138頁)としていますが、大学の教授様が「利得の殆どない」ですかぁ?そりゃまぁ、投資銀行家様やら悪徳転売家様やらと比べれば身入りは少いでしょうよ。ですが、当時でも今でも普通の人が日々の生活で食うや食わずしている時に、世間的にちやほやされる地位にありつつ定収入があるというだけで庶民が生活維持の為に費やす労力を削減しているわけで、そうしたアドバンテージを含めて考慮したら随分と贅沢な身分におわしますということを理解できないという点に、哲学者風情の思い上がりと無知を感じます。
 とまぁ、読んでいるとあの人とその一派を思い出します。かの有名な聖パウロ様です。聖パウロ様は、帝国権力は神が定めたのだから絶対的に服従せよ(『ローマ書簡』13章)だの、男に女は従え(『第一コリント』11章3節など)と言っては女性の在り方を押さえつけ、奴隷はその分を超えるな(『第一コリント』7章21節参照、因みに日本語訳は改竄訳)と語り、等々と体制権力を肯定します。これは聖パウロ様の名前を模した書簡にも継承され発展させられ(『コロサイ書簡』3章18以下;『エフェソス書簡』5章以下、後は面倒なので省略しますが牧会書簡参照。因みに聖書の検索サイトで用語を入力すればこういうのは一目瞭然です)、さらには聖パウロ様の用語使いを継承している『第一ぺテロ書簡』では、こうした体制への服従をキリストの従順の内実として説くという愚劣な講釈をしています。なお、話は脇道で、こうした聖パウロ様やそのフォロワーの差別的物言いに対して「当時の価値観がみんなそうだったのだから仕方ない」という訳の分からない擁護をなさる方がおいでですが、問題は2つ。第1は本当にみんなそうだったのか。新約聖書に限ったとしても、『マルコ福音書』や『ヨハネ福音書』あるいは『ヤコブ書簡』や『ヘブライ書簡』を読んでみればーあるいは用語検索してみればー分かりますが、そんな歪な価値観は出て来ません。その時点で、みんなそうだったのだということは否定できます。こちらは事実確認をすれば判断できますので、余程のおっちょこちょいでない限りこんな稚拙な詭弁には引っかからないでしょう。第2はーこちらは所謂そもそも論ですがー、みんなそうだったのだからそう言っても仕方ない、という意識が端から間違っている、ということです。みんなが言っているからといってそれが正しいわけではないことなぞ幾らでもあります。なんぞと言うと「お前は民衆蔑視のブルジョワ観念論者だ」と喚きたてる方がいますが、むしろ、みんなが言っているから正しいと主張することがよほど観念論的です。だいいち、「みんなが言っている」という事態そのものが、歴史的に見れば、少数の支配者によって多数の多様な考え方を煽動して統制して作り上げたものだったりします。例えば、イエスの十字架刑。一部の神殿礼拝派の体制側がその辺の連中に十字架刑を刷り込んで、声のでかい体制追従のはねっかえり宗教右派にわめきちらせて、あたかもその意見が世の中の趨勢を占めているかの如くに繕い、大勢をその意見へと誘導し、大勢はそこに乗っかっているという状況を見て取れます。あるいは、ソクラテス裁判でも中世の魔女狩りでもいいですが、そうした差別にせよ偏見にせよ弾圧にせよ戦争にせよ、そうしたものは大勢の心にある閉塞感を上手く刺激し、それを敵意の形に組み換え、多数に言わしめているのです。そのゆえに、考えるべきは、みんなが言っているから正しいのではなく、その意見がそれ自体として正しいのか、です。そして、そうしたみんなが言っていることを可能にさせている背景は一体どういうものか、それをどのようにして克服できるか、そういう方向に目が向いてこそ、歴史的に思想を考えていく行為ができるのです。だから、みんなそうだったのだから言っているのを善しとしてそこへとずぶずぶと凋落していくのは思想の営みとして根本的に間違っています。
 と、話は脇道に逸れたので元に戻すと、問題は聖パウロ様やヤハマンさんのように、神信仰を人間の在り方の絶対的中心に置く類いの敬虔主義が何故こうも上記のような浅薄で愚劣な価値観を善しとしてしまうか、です。
 本来なら、相当な考察を必要とするのでしょうが、この大きな問題に見通しをつけるために、以下のヤハマンさんの記述を材料にします。「カントは至高の存在と道徳の世界支配とを信じて疑いませんでした。それでカントは、」(93頁)云々と続いていくのですが、ヤハマンさんの細かいカント解釈の是非はとりあえず問題にしないとして、要点はカントの哲学は神信仰を前提とし、その前提を理念として或いは本来的に追究すべき事実として展開されているとするわけです。従って、ヤハマンさんがカントの名前を使って語る人間の実態とは、神の側にこそ本物があるのであり人間はそれなしには生きられない、すなわち、本当の現実とは人間が生きているこの世界ではなくて神のおわします彼の世界である、ということです。また、ヤハマンさんは、「倫理的な理性法則は神の聖意に一致するものであること、…(中略)…カントは真の意味において敬神家でした」(93-94頁)と書き連ねていて、要はカントさんの名前を出してヤハマンさんご自身のご意見のご開陳なわけですが、その論調の基本は、人間の理性にとっては神こそが意味ある事実なのだという主張で塗り固められています。
 ここにこそ、問題があります。すなわち、神こそが人間の本当の現実なのだ、本来的な事実なのだ、という物の見方は、その結果として、人間の日々の生活を本当の現実ではなく、仮の住まいであり、従ってどうでもいいもの、論じるに価しないもの、放っておいても良いもの、そうした表面的な仮象にすぎないのだ、としてしまいます。そのために、人間が日々被っている苦痛は問題にしなくても良い、となります。だから、食事を今日取れるかどうかの瀬戸際で悩む在り方を見下し、寝られる場所が得られるかの心配を些末なこととしうるのです。ドイツ辺りの神秘主義だかに被れたZenやらに傾倒する宗教オタクが、頻繁に日常に囚われないなんぞと偉そうな御高説を宣われておいでですが、その言説の根底は、神信仰のバージョン違いに過ぎないわけです。これは、結局の所、人間が頭で考えついたに過ぎない神という概念を現実であるとしー本来的な意味での神は人間を超越しているわけでそれならば人間にとって理解された事柄は神自体ではなくて只の人間の思い込みに過ぎないはずであるにもかかわらずー、人間の生き生きとした現実の方を人間にとって頭で考えた雑念だとか執着だとかにしてしまうのです。
 これが、聖パウロ様以来の伝統芸となっている軽忽な敬虔主義の体制肯定の見方です。現実にある様々な差別や抑圧を受け入れよと迫るその姿勢は、人間が生きていてまさにそれを離れては生きられないこの現実を天上と地上とに観念的に分裂させ、天上こそ地上の問題全てを解決するとして、人間が作り上げた神の観念をこそ現実としてそれに隷属するように詰め寄る、謂わば偶像崇拝を具現化する事態となっているのです。
 そして、これは隠遁生活を送って社会から孤立する日常を実践するような人間が語るのではなくて、社会の中へと自ら好んで入っていき、出世や地位や名誉やそうした外的な評価に人一倍しがみつく類いの人間の見方である、つまり非常に腥い思想なのだという所に恐ろしさがあります。人間が日々の生活の中で心配したり格闘したり苦悩したりしながら何とか己れの生存を確保しようと一生懸命になることを、敬虔主義的な言説は強欲だの自分勝手だの利己的だの無知だのと侮蔑的な価値付けをします。そこから、幾らかの人々の心に「私たちは世の中に汚されず清廉なのだ」という僻見を生じさせ、大衆侮蔑を大衆の中に植え付けていく。それにより、支配者は、体制の無能が引き起こした社会の歪みに対する大衆の反抗を骨抜きにして、体制に媚びる連中をこそ清白な人々と褒めそやしていく。従って、宗教的敬虔主義の愚劣さは、単に議論の中の薄っぺらさに留まらす、社会そのものを動かしていく力を根元から腐らせることになるのです。だから、こうした敬虔主義批判は、社会の病理性をも視野に入れつつ考えていかなければならないとは思いますので、本書評では議論が見通しをつけておく程度で終わりにしておきます。
 話はがらりと変わって、本書の書かれた言葉の方に向かいますと、評者自身はカントさんについては素人なので、ヤハマンさんが色々と仰っているカント哲学は、本当に解説として適切なのか、どの部分は近くてどの部分は遠いのか、そういう点が非常に気になる所です。専門家であるなら、様々な資料や原典とヤハマンさんの解説を照合してそれについて語り得るのでしょうが、一般人たる我が身としては、せいぜいの所、自分の読んだものからしか判断できませんが、一つだけ。
 ヤハマンさんのカント政治思想理解は、先述したように「臣民は君主に絶対的に服従せよ」でしたが、カントさん御本人の物言い、例えば『永遠平和のために』では「全ての成員が唯一の共通の立法への依拠することの諸原則(臣民として)」(VIII,350.永遠平和のための第一確定条項)と述べているように、自らの役割を果たす中で理性的な法に適しているかどうかという点に議題があるのであって、隷属関係を強制しているわけではありません。まぁ、カントさんという方は、この『永遠平和のために』を読んでも分かりますが、結構な皮肉家なので、彼の発見を文字通りに受け取るのは如何かと。またもや話は脇道ですが、この『永遠平和のために』は、文章それ自体をお読みになるのは勿論のこと、各国語訳の序文や解説が時期や時流によって真逆のことを言っているので、『永遠平和のために』訳者の解説を時代別にして分析すると面白い政治思想の卒業論文になるんじゃないかと思いますが、一例だけ。1903年のCampbell SmithによるSwan Sonnenschein社から出版された英訳の序文では、徹底的にアラブ世界を敵対視していて、その排除こそが戦争の脅威をなくして一切の敵意を無にしうるために必要であると注で書いてます(cf. 10p.この他にもありますが)。これは見過ごせない愚劣な言説です。こうしたアラブ敵視が現代にも克服されずに保存されて更に強固なものとなっているからです。これは、今の私たちの問題は単に今という謂わば点で考察できるものではなく、その今ある問題を生み出してきた歴史的構造そのものを反省的に倒錯していく必要を喚起します。
 で、話を元に戻して、ヤハマンさん自身の物の見方がカントからずれていくその起点は、上述したような敬虔主義的な見方、すなわち、人間の生きる現実を観念的に天上と地上とに分裂させて天上こそ人間の現実であるという見方を展開させる点にあるように思われますが、この話の是非は専門家にお任せいたしましょう。一つ言えることは、カント自身は観念的なー哲学学派の分類用語である"観念論的"ではありません、念のためー問題座標から語っているわけではないことです。矢鱈と人に観念論は駄目だ唯物論こそが本当だとか吹聴なさる方々がおられますが、そうした方々の中に「個人的所有の再建」と言って、「再建」を原初の歴史の中にあったものと想定してそれを取り戻すという仕方で「再建」を主張なさる自称唯物論者の方々がおられますが、そちらの方がよっぽど観念的であります。つまり、その方々の物言いは、人間が生きている現場の中から問題を見いだすのではなく、よく分かりもしない人類の歴史法則なるものをでっち上げて、その絵空事の中で今までに存在したと勝手に妄想した個人的所有なるものを取り戻そうというものだからです。そして、ここにこそ、観念的傾向をお持ちの方々が皆、多かれ少なかれ独裁者を拝する体制ないしは独裁的指導者による統制を待望する心性の背景が見えてきます。つまり、観念的傾向論者は今までに存在した制度しか見ていない、というよりも今までに存在した制度しか考えられないからです。そうではなく、今までの制度にはないものを今の歴史的現実のうちに実現する。このことを目指すのが、人間の学問ないし知識であって科学的思考というものです。その意味で、カントさんは激しく観念的傾向に対立する思想をお持ちは方であり、彼の説く永遠平和というものが歴史的現実のうちで実現することを格闘しながら模索するものである限り、思想的な教養も素養もない自称唯物論者が観念論だの何だのと難癖つけうるような思想家ではありません。まぁ、言うまでもないですが。
 もののついでに、カントさんの哲学から学びうることをカント哲学の専門用語抜きに全く個人的な感想から言えば以下のようになります。人間は限りあるものだ。全てを見通せるわけでもなく、全てを成しうるわけでもない。与えられた限界の中で生きている。その限界の中には人間を押さえつけるものが蠢いている。それは、歪んだ物の見方である。見方が歪んでいるから、世界を作り上げる仕方も歪んでいく。だから、その歪んだ見方を叩く、徹底的に、根本的に。その歪んだ見方では、人間より先に世界を作る原理があるという。その原理に人間を合致するようにしなければならないという。しかし、その原理というものは、人間が作り上げたものではないか。人間によって生み出されたものであるなら、人間を超え出るものであるはずもない。そうだ、話は逆なのだ。問題は人間に在る。人間こそが問題なのだ。人間は如何にして物を知るのか。人間が物を知ることはどのようにして遂行されるのか。そこを考えていくー。と、個人的には浅知恵で読んでいますが、だからこそ、カントさんの哲学書は世界に今ある苦痛を癒して未だ実現されていない問題の解消を志向していく上での携帯本となりうるのです。
 せっかくなので、ヤハマンさんの著者から個人的に学んだことを。ヤハマンさんは老年期のカントと幾度となく、カント哲学の集大成たるものとなるはずであった著作について語ったと回顧しています。その内容は「形而上学の本来の物理学への移行」(24頁)であったとしています。私たちには『オプス・ポストゥムム』として知られる著作について僅かですが記載があることで、この作品を本当にカントさんは世に出したかったんだなというのが伝わってきます。細かい研究史は、『オプス・ポストゥムム』のスペイン語訳であるDuque,F.(ed.), "Transición de los principios metafísicos de la Ciencia Natural a la física (Opus Postummum)", Editorial Anthropos,1991の序文に書いてありますのでそちらを参照していただくとして、この序文や解説を読むと、本来的なタイトルは『自然学の形而上学的原理からの物理学への移行』とすべきであると論じられていますが、個人的には確固としたタイトルを付けるとそういう著作ないしは纏まったコデックスをカントが用意していたかのような印象を与えかねないので避けたいとは思いながらも、一般名称たる『オプス・ポストゥムム』ではカントさんの思いを伝えることはできないのではないかと危惧するので、個人的には『自然学の形而上学的原理からの物理学への移行・草稿』(以下『移行草稿』)という呼び方を今後の人生で言及する際には使用したいなと思わせてくれたのはなかなか良い刺激でした。またもや、話は脇道ですが、この『移行草稿』について、イタリアの新スコラ学者として名高いSofia Vanni Rovighiさんによる"Introduzione alla Studio di Kant", Editrice la Scuola, 1968の前書きで、それを扱わない理由を2つ書いてますが、要するに老齢カントの言説なんぞに意義はないと一蹴してます。この新スコラ学者の著作、偉大なるカトリック教会の基盤たる新スコラ哲学を学ぶ上で障害となるカント哲学を批判するためにそれについて根本から見直すという性格を持っているので、かなり詳しくカント哲学の背景やらその視座やらを解説しています。ただ、『移行草稿』を扱わない理由にカントの年齢を挙げるのは失礼じゃないですかね。若かろうが年取ろうが、その時に応じてその人が格闘しながら編み出したものが思想です。その編み出されたものが気に入らないというなら仕方ないことです。だとしたら気に入らないと言えばいい。それを年齢だとか体力だとかを理由にする辺りに、新スコラ学者の思い上がりを感じます。まぁ、自分が計る秤で今度は自分も計られるのでしょうから、ご自分の老年期の言説は意義のないものだと言うことになりますよ。でも、そんなもんじゃないでしょ、人は。考え方が年齢によって変わったり表現が違ったりはするでしょう。だからと言って、年取ったから思想は先鋭的でなくなる、そんな偏見を内心にお持ちの方がよくもまぁ学者なんぞと言ってられますなぁと感心しますよ、ええ。
 カントさんが年を経てもなお、その状況の中で絶えず格闘していたことはヤハマンさんの記述からも分かります。現代風に言えば、認知症の症状に悩まされて、あれ程親しく語り合ったヤハマンさんの名前すら忘れてしまったカント。しかし、それでも、何とか思い出そうとしたり、忘れないようにメモを取るようにしたり、そうやってカントは自分の状況に抗っていた。こうした事実をヤハマンさんの記述から読み取る時、私たちは本当にどんな状況であっても思想を紡ぎ出せること、どんな状況であってもそれに抗っていかねばならないことを学びます。色々とヤハマンさんの問題点を書いてきましたが、この年を取ったカントの生き様を描いた場面は非常に読み応えがあります。最後の章は是非ともお読み頂きたい。そして、今の日本が抱える後期高齢化社会というものを見つめ直すための考える一助として頂きたい。そんなことを本書から感じました。