sekiwataruの日記

Ph.D(filosofia)のソリロキア

貧しき者たちの政治哲学ーオッカム政治哲学序説ー

 William of Ockham, "A Short Discourse on Tyrannical Government", McGrade, A. S. (ed.), Kilcullen, J. (tr.), Cambridge University Press. 1992.の書評。他のところと同時掲載。因みにこの英訳は、変な訳語を生み出さすに丁寧に訳されているのでラテン語から離れておらず、名訳。

 オッカムのウィリアム(御本人によればGuilhelmus de Ocham)による教皇権力拡大に抗する書。当時の教皇連中が財力や政治力を最大限に利用(悪用?)して宗教権力の拡大を邁進する際に、目障りとなる福音的なーつまりイエスの生き様的なー貧しさ("清貧"て訳されますが元の言葉に"清"という接頭語はありません)を追求せんとする人々への抑圧を強めていく、そうした中での論争から生まれた著作です。様々な言葉に翻訳されてますが、この著作は単に歴史的な文献ではありません。この書がもたらした視座は単に教皇権力と世俗権力との闘争に留まらず、宗教改革を単に宗教的論争から狭い視野で見るのではなく、様々な仕方で抑圧してくる権力者の占有から個々人が自由を手にする社会的闘争の宗教的分野での現れとして正しく捉える時、まさにその人がその人として生きる為の抵抗的言説として読むことができます。なお、この本の話になると必ず同時代的な人物としてパドヴァのマルシリオが出てきますが、アンコーナアウグスティヌスさんによる教皇権の宗教的内容への制限に関わる議論が歴史的には先達に当たるので、下手に知った話をなさりたいのであればそちらの名も出さねば片手落ちになりますよ、宗教好きな先生方。
 ちょっと前、中世という特殊な歴史的・社会的状況の中で様々な抑圧や権勢に抗いながら人々が紡いでいった知の営みである"中世の哲学"を、それ自体は非常に近代的な絶対的普遍性的な志向の下で抽象化した"中世哲学"へと加工した著作が書店に並んでまして、その中にオッカムがどーしたこーした的な文字が書き込まれてるみたいでした。が、他人様が自らの生を貫きながら吐き出した抵抗の言説を御自分の便益の為に曲解して利用するという謂わば思想的事態における物件化を邁進なさるような思考では、決してオッカムの理解どころか一瞥すらできないでしょう。というのも、その文章では単に論理的な視点からのみの検討でしかなく、その意味でオッカムの一面だけ、しかも見映えのする場面のみを切り取ってるだけになるからです。或る人物を理解するということは、その人物が生み出した言葉をその発さられた地平へと戻しながら、あたかも同じように歩むかの如くに考えていかなければならないのに、です。インスタ映えするところだけが和歌山じゃない、そこに人が住んで息づかいのする場所全てが和歌山なのに、SNS越しに見る景色だけでは見えてこない所にこそ、現実のそれがあるのです。このオッカムの政治的著作はまさにそうした小綺麗な哲学の教科書的記述からは抜け落とされる、しかし、だからこそまさにオッカムさんが考えて抗っていた事態へと近づくことの手がかりとなるのです。
 この著作について述べる前に、オッカムさんの思想全体を貫く視点について一言。現状のオッカム談義はキーワード的観点から流通しているようです、オッカムの剃刀やら唯名論やら神命論やら何やらと(cf. Kaye, Sh. M., "Medievale Philosophy", Oneworld Publications, 2008)。ただ、そのキーワード相互をどう関連づけて理解するかが今一見えてこない。或いは、オッカムはそのキーワード的思考を用いて何を示そうとしたのか。若しくは、そのキーワード的思考をなぜ用いねばならなかったのか。一つ一つのキーワードに関する講釈に長けた御仁であっても曖昧な記述になってしまいます。そもそも或る思想家を一つのキーワードで包括しようとするなんぞは無理な話で、どうしても零れ落ちる部分が出てきます。と、これはあくまで真摯な研究者の場合。最悪なのは、教条的な教皇派とそのシンパの教授様。やっこさんらは、オッカムを御自分たちの御立派な教義体系から排除せんとされるばかりで、謂われ無き汚名をオッカムに貼りつけては彼の思いを無化せんと躍起の御様子、まぁ色々と詭弁を弄しては自己満足なさっておいでで、とりあえずそうした輩に目を付けられぬように心がけたい限り、くわばらくわばら。
 彼にまつわるキーワードを少し見ていくとして、まずはオッカムの剃刀。例えば、海外ドラマ『メンタリスト』2ndシーズン「ギャングの血」の中で「何か論理学の話みたいなんだけど、基本的には事態の解決のためには複雑な事柄を避けるべきだってことらしいんだ」やら「最も単純な問題解決の手法がたいていの場合は正しい」やらと(吹き替え用の翻訳から原台詞に合わせて変えて引用)言われてますが、「必要なしに多を置くなかれ」として知られてます。この認識上の手続きに関わる言説は、世界を見る際に時として呪術的迷信に囚われてしまう目的論的世界観から脱却して、世界を世界として端的に把捉しようとする経験的見方への転換とも考えられます。ので、これについてオッカムがどう言ったの言わなかったのと論じられもしますが、問われるべきは本人がこれに関してどう語ったかというような衒学趣味的勉強ではなく、何故このような思考を彼は持ち出さねばならなかったのか、です。
 次は唯名論実在論者が観念の世界あるいは現実の世界に普遍的な共通の自然本性が実際に存在して諸個体はそうした普遍的自然本性の具象化であると主張するのに対して、唯名論は普遍的自然本性は諸個体の諸集団を記述する際の"名"に過ぎないと唱えるものだ的な内容を学期末考査で書いておけばバツにはならないでしょうが、やはり問題はオッカムがどのようにそれを展開したかよりも、そうした思考を用いることで何を示そうとしたのかでしょう。なお、こうした唯名論に関してマルクスが使った例(vgl. KMWS, I, 731s)を借りて述べると、我々に対して存在するのは苺や林檎や葡萄といった個物であって"果物"という普遍性ではない、ということになります。とは言え、マルクスが当該箇所で語っているのは、苺や林檎や葡萄を我々は果物"としてals"把捉しているということであって、平たく言えば人間の知り方に関わる事態です。ので、たまに唯名論唯物論は似てる的な話をなさる方もいますが、マルクスは存在するのが普遍か個物かという存在論的位相で議論を展開しているのではありません。ではなくて、人間の認識が"としてals"という人間側の設定を介して或る事柄を対象的に構築していることを述べているのであり、そうした人間の認識の側の都合によるものでしかないことを実際に存在するかのように考えてしまうー民族とか国家とか"神"とかー、それこそ人間が自らをそのものであるところから引き剥がす要因であることを批判しているのです。従って、唯物論をある種の存在論として断定することは逆にマルクスが乗り越えようとした形而上学的蒙昧に陥ることになるわけです。はい、余計な話でしたね、すいません。
 神命論にも一言。一般的にそれは、善やら道徳的徳やらはただ神からの自由な意志による命令としてのみ解されるとされますが、必ずしもオッカムはそれに限定されているわけではなく、例えば道徳的徳の諸行為は正しい理性との合致において導出されねばならないと『De connexione virtutem』の中で繰り返し論じてますし、神が善き目的の為に振舞って悪を意志せぬ的な発言(『命題集註解』第2巻第15問題を参考に)は神が行わんとすることを人は模倣すべきであるという方向性においてこそ強調点があります。これも問題はオッカムがこうした思考において示そうとした事態は何かなので細かく神命論がどーしたこーしたするのは野暮というものでしょう。
 哲学的な議論としてはそれはそれで各国憲法の保障する自由の範囲で御随意にですが、他にも色々あります。例えば、オッカムは外的な世界について認識する際に個物をそれとして直観して普遍的な概念を抽象する働きが人間の判断に存することを述べているとされますが、これについて普遍は知性の内に存在すると論じているのであって故にそれは唯名論ではなく概念論であるとか何とか(Wood, R.さんの御意見)も聞こえてきます。何と言いますかそうした「リ・ガズィガンダムか」みたいな分類は、まぁ一方ではその筋の方は興味あるんでしょう。他方、問題をそっちでなくて何故そうした思考を用いなければならなかったのかに考える身としては、何と申したら良いやら。あるいは、オッカムはスコトゥス哲学の潮流として理解すべきとか何とか、まぁスコトゥスでもヒッポのアウグスティヌスでもアンセルムスさんでも誰でも良いですが、オッカムほどの個性的な思想家が自らの思想を研鑽するのに或る一つの思想からのみ行ったなんてことは有り得ることも無い訳で、大事なのはあくまでもオッカムさん個人の話であって、オッカムの思想的抵抗の地平がどこに依拠しているのか、です。まさに、必要なしに存在者を増やしてはいけないのです。
 で、その問題、すなわちオッカムが上記のような性格を持つ思考を何故用いたのかについて、ちょっと穿った見方をする本なんかによると、オッカムがトマス一派の尊大な神学教授に抑圧されて対立していたが為に全く異なる思想を模索したなんて解説もありますが、そうやって人間の動機をルサンチマンから根拠づけるのは問題を余りに平坦にしすぎて如何にも薄っぺらい。問題は、あくまでもなぜオッカムはそうした思考を頼りに自らの思索を遂行したか、です(話は横道ですが、古今東西のトマス哲学を標榜される教授様は皆さんそうなんですよねぇ、つまり抑圧的で攻撃的ってことですが。これは皆さんの専攻なさるトマス哲学なるものが、現実に生きている人間がすったもんだしている姿を観念的抽象の中に取り込もうとするものであり、しかもその観念的抽象なる容器は自分の思考によって構築された理論に内在する執拗なまでの正統意識で工作されたものであって、そうした正統意識に実際の人間を押さえ組むものであるためです。しかし、こうした現実の生きた者を観念の中に閉じ込めようとする見方は端から無理な話、矛盾するのは目に見えてます。まぁ話が抽象化された人間的行為だの何だのと言ってる場合はメッキが剥がれずに済みますが、それを固有名を持った現実の人間すなわちナザレのイエスに当てはめようとすると瓦解するわけです。だから、聖なるトマス師がキリスト論に着手している最中にイエスの十字架像の前で「自分の書いたものは藁屑に思える」と言った話は正直な自覚です。その藁屑にしがみついておられるのが世のトマス哲学者様なので、そりゃ現実の逆巻く場では溺れるのは必定、それを認めたがらないがゆえに他者に対して高圧的だったり威嚇的だったりになっちゃうんですね、自己弁護って虚しいなぁ、はい、これも余計な話)。すなわち、当時の宗教支配で教皇に反対するというのは、科学的社会主義政党内部で党指導部を批判するのと同様な残酷な運命を負わされることを帰結するわけで、一人の修道者つまり小さな個人が異を唱えた位で何程のものになろうかという事実にも関わらず、そこで権力に抗ったのは何故か或いは抗わざるを得ない程に彼を突き動かしたものは何かが問われねば、この著作だけでなくオッカムという歴史的個人の思想的抵抗は分からぬまま、彼の著作群は只の古文書に成り下がるでしょう。
 結局の所、普遍的抽象化された"中世哲学"を志向なさる宗教好きの教授様の解釈は御自分たちの教義に合わせようとなさるので、神なんぞは人間が作り出した観念に過ぎないと考える此の身にとっては何か物足りない。かえって、宗教批判や資本主義批判を繰り返す南欧の思想家による解釈の方が、オッカム思想の諸部分を関係づけて全体像を提示してくれるために興味深くて刺激にもなります。それについてちょっと触れると、セヴェリーノは彼の哲学史本の中で、オッカムによる教会と国家の富と権力に対して"貧しさ"を置くという思考は、形而上学的幻想によって誤らせられた学知に対して現実の世界をぶつけることと同じことであり、従ってオッカムの示す貧しさとは、剃刀として語られるあの探求の道の倫理的-宗教的次元における現れなのだ、と述べています。すなわち、認識において各被造物の美を覆い隠す過剰なる事柄を切り捨てることは、貧しさの美を見えなくさせる富の罠を切り捨てることと同じなのだと。しかし、その一方でセヴェリーノが指摘するのは、認識における貧しさは形而上学的学問観を打破することになるが、生における貧しさは現世での苛烈な支配や生命を脅かす支配を保存することにもなるのだ、と。実際、オッカムはこの著作では相手が教皇権力ということもあって"持たざること"をぶつけてきますが、別の著作では民衆の貧しさは生命の危険ともなるためにその解決を世俗権力に説いていたりします。その意味で、オッカムの貧しさとは宗教説教家がやらかすような「貧しい者が幸いなのですから貧者はそのままでいなさい」的な方向性とはまるで違うものだと言わねばなりません。
 また、プレーヴェの倫理学史本では、オッカムの政体論は義人たちが個々人として正しく事態を考えることに基盤があるとして、これは唯名論的つまり普遍は単なる名であって存在論的事実なんぞではないというその考えと併存しており、すなわち、制度の内に善なるものが実体化するのではなくて各々の個々人の総体の中に善が生き生きするのであって、というのも、その個々人は財を持たぬ貧しき者たちであるが故に一人一人が自ら自身として完全な者(『マタイ福音書』19:21参)としてあるからだと論じているのだ、と記述されます。換言すれば、オッカムの貧しさとはまさにキリスト者に対するキリストの命令として定置され、キリストの命令であるがゆえに正しい命令であると考えられるのです。で、このプレーヴェの記述を受けながら、かつボンピアーニのイエス伝を絡めながら、フサロさんは『ルカ福音書』4:14-30に書かれている貧しき者たちに福音が告げ知らされて抑圧される者たちが解放される在り様こそオッカムがその政治哲学の中で志向しているのだと、終わりなき拡大を強いる資本主義的生産様式に抗う思想を模索する書の中で論じています。と、まぁこのように、教皇派教授様方がオッカムをキリスト教教義から排除せんとする一方で、そうではなく、むしろオッカムの示す貧しさこそがキリスト者の本懐なのだ、そしてそのことを精確に示すためにオッカムは自らの思想を道具として用いたのだと語る哲学者もいるのであり、どちらをオッカム理解の道案内とするかは御随意に。
 こうした指摘に鑑みるに、この著作は、主題は教皇が地上的権力を持つことの危険性を説いたものではあるのですが、それは字面上の話ということが分かります。だからこそ、その議論を支える言説がどのような場面から発せられたものなのか、ここを捉えねばオッカムが教皇権批判を繰り広げることによって示そうとした事態が何処に向かわんとするものであるかを見誤りますーその意味で、この著作を読むために最良の手引き書たる本訳書編者McGrade, A. S.の著したこの分野の古典、 "The Political Thought of William of Ockham". Cambridge University Press, 1974, と、本訳書訳者のKilcullen, J.による The Political Writings, in Spade, P. V. (ed.) "The Cambridge Companion to Ockham". Cambridge University Press, 1999, 302-325pp., (因みにこちらの論文はネットで読めます)は是非ともお読みになって下さいー。これらの文献からも分かるように、オッカムが身を投じたフランシスコ会士たちがキリストの生の本質をそこに見たところの"貧しさ"、それを生き抜くことを著作の中から読み解かねばオッカムの意図を掴めないのです。ただし、ここでフランシスコ会を全面に強調しすぎるのも間違いです。そうやって特殊的で個別的なフランシスコ会"だけ"の問題にしてしまうことで、オッカムが守り抜こうとしたキリスト者の信実な在り方、言い換えれば一般的で皆の土台となるものを一つの特殊的集団の組織理念に限定することになります。実際、これを意図的に目論む連中は、キリスト教を「より大いなる神の栄光のために」荘厳で華美な大聖堂と成そうとして貧者や弱者を中心から追い出して、せいぜい憐憫の対象くらいにしてしまいます。しかし、事実はそうではありません。オッカムのこの著作から見えてくる景色は、決してアッシジの大聖堂なんぞではなく、フランチェスコが最初に(物理的に)建て直した小さな聖堂です。病人に仕えて貧者と共に生きるという全てのキリスト者に向けられたキリストの命令にこそ、オッカムの基盤があるのです。
 以下で、この著作についてその点から少し。この著作は、オッカムが教皇による弾圧に対して批判を行い、それを教皇一派が糾弾し、さらにそれにオッカムが反論するという第3段階にあたることを念頭に置く必要があるかと。その為に、問いが限定されて先鋭化しています。第1巻では、教皇権を下々の者が検証するのは許されているのか、許されているならどのようにその検査を遂行すべきか、が問われます。彼曰く、それは単に許されているだけでなくまさに必要とされる、と。何の為に?キリストの教えの正しさを示す為に!公的に検証して裁定すべきである、この世に絶対的というものはないのだから。第2巻は、教皇は神法と自然法に反しない限り指令しうるという伝統的主張に批判を加え、そうではなく、人は例え教皇であっても皆が罪人であるために現世的な欲求から逃れることは出来ないのであるから、宗教的次元での誤りを匡正することに向けられるべきと説きます。第3巻では、支配権あるいは所有権という概念を分析します。ここは面白い。というのも、中世での伝統的な所有権概念を用いつつ、伝統的な支配意識つまり神がいて教皇がいて聖職者がいて民衆はへへーとする階層的支配ではなくて逆に民衆が一人一人で己れと己れに関わる事柄に関して所有権ー今ふうに言うと自己決定権ーを保持していることを提示します。そして、この中で彼はただでさえ道徳的重荷をいくつも負っている人々に余計な道徳的脅迫による重責をもたらすなと語ります。まさに道徳的次元におけるオッカムの剃刀ですーこれについては今のローマ本店と各支店も何やかんやと道徳やら社会やらに観念用語を振りかざしては口出ししてますが、おたくらがやるべきはまず教会内部でのいじめや差別の排除であったり、不正を明らかにすることであって、更に言えばーオッカムの言葉を借りるとー貧しい人々に"仕える"ことであって、まずはそうした人たちが安心して食って寝られるように実際の苦痛を除去することにあるのだから、世界の平和やら正義やらの綺麗事だけ拡声器から垂れ流すのではなく隣人の涙を拭う為に汗まみれになって一肌脱いで下さいよ、とは思いますね。はい、また余計な話ー。あっちでは書いてないことをちょっと。オッカムには所有権の議論はあっても貨幣についての議論は伝統の踏襲で、ましてや価格に関する論は見当たりません。それは何故か。すなわち、貨幣や価格に関する議論が必要とされなかったのは何故か。今はまだ仮設的段階ですが、見通しとしては貨幣や価格が個物を普遍的な指標において抽象化する運動と関わるからであり、こうした貨幣論の欠如にもオッカムの思想が見えてきます。第4巻では、世俗権力の教皇権力からの独立と擁護を聖書の中から読み取ります。今も言いましたが伝統的支配意識では、神からのトリクルダウンで権力が与えられるわけで世俗的な事態はそことの関係によって正当化されるわけですが、これを神学者連中は聖書によって権威づけていました。オッカムはそれを逆手に取って、逆に世俗的な事柄をそれとして定置するのです。なお、ここで面白いのは彼の聖書解釈。体制派の神学者連中は矢鱈と伝統的な見解やら何やらを介在させて、話をわざと複雑にしては民衆を煙に巻いてましたが、オッカムは端的に簡潔に聖書を語ります。この手法つまり誰が聞いても読んでも分かるように聖書に接する在り方は、中世の民衆運動を経て宗教改革に至る流れとも関連しますが、そうした宗教思想史なんぞはどうでもよくて一番の肝は一人一人が神からの言葉に直接に繋がれること、一人一人が掛け替えのない存在であることを帰結することにあります。神父なしで聖書を読むと信徒は異端になるから読ますなと言ってた神学生がいましたが何処で何を今やっておられるやら。オッカムさんに怒って頂きましょう。まぁそれはさておき、こうした聖書解釈は第5巻でも通用していき、世俗権力も暴走して抑圧的にならぬようにすべき事柄が語られます。この議論には、そこまでで論じてきたオッカムの共通善思想が反映されてます。共通善と言えば聖なるトマス師が異端者を火あぶりに処すことをその語で論じることからも分かるように、その伝統的議論の本筋は全体の利益のために部分を強制することにあるわけでーてか実際は本当に"全体"の利益のためというよりも"一部の"支配者階層の既得権益擁護に過ぎないんですけどねー、その側面だけ見るとろくでもないのですが、オッカムはこれもまた逆手に取って、全体ってのは数が多いことを意味するんだから大衆の利益を最大化することにあるよね的な方向性で論じていきます。従って、教皇だの皇帝だのの数人の利益になることよりも大衆の利益になることを実際に実現することが共通善なのだとしていきます。この共通善は後のドイツ農民争議での"みんなの利益"に繋がっていくので、この辺りについての細かい思想的転換ー学生時代に流行ったカタカナ語使っていいですか?パラダイム・シフトですねーを後付ける為にもゆっくり読みたい本です。因みにネグリとハートが良く言ってるマルチチュードって言葉はオッカムの語る大衆に当たります。いやぁネグリさんにあらぬ汚名を着せたがる自称マルクス主義者が多いですなぁ、それもそうでしょうねぇ、御自分たちが金科玉条のように信奉している「『資本論』こそマルクスの科学的思考の聖典」てのを彼は文献学的にきっちり批判して完膚なき程に叩きのめられたわけですからね、何とかしてネグリを間違いにしたいのでしょう。てか、これってオッカムに対する教皇派教授様と同じですなぁ。歴史は繰り返すってやつかな?それはさておくとしても、このオッカムの著作は、現代の個々人の自由やら民主主義やらを考える上でかなり重要です。「女性は男性の下に服従しとけ」的な発言をするスピノザの政治体制よりも、よっぽど民主主義的ですよー因みにオッカムは「女性は男性の持ち物じゃないんだから彼らの言うことに従う必要はない」と語ってますー。
 と、このように色々な論点と側面を持っているのがこの著作です。これを「下らない」とか評する教皇派もいるようなので、何と申しますか。で、このオッカムの著作に基づいて見えてくる相貌はどのようなものでしょうか。オッカムの教皇権力批判は、逆に考えると「暴君のような教皇も神によって与えられた命令なのだからそれに服従することが神に仕えることだ」なんて言うことも出来るでしょう。絶対者なる神、その神の意志なるが故に邪悪な権力であっても屈服しなければならない。もし、オッカムが徹底した神命説主義者であれば、そのようにして悪の権勢をも神から与えられた使命として受け入れねばならなくなります。しかし、オッカムは抗った。なぜ悪があるのかということを形而上学的に論じるのでもなく、神への服従ゆえに邪な連中を受け入れるのでもなく、抑圧して屈服させんとする非道な力と闘ったのです。そこには、神の肯定と否定を止揚した人間としての佇まいがあります。つまり、単なる観念やら思弁やらの次元ではなく、人間の実際の振る舞いこそがオッカムの示した姿です。この意味をじっくりと考える必要があります。
 また、オッカムの示す貧しさも、繰り返しになりますが、躍起になって貧しい素振りをしてみたり、貧しさに執着してそこに居座るように強いてみたり、そうしたものではありません。むしろ、貧しさの内に否応なしに投げ込まれている現実、多くの人たちがそこで苦しみ嘆いている現場、そうした広がりをもつものとして提示してきます。だから、貧しい者たちにこそ神の国が与えられるという言説に対して一種の冷ややかさがあります。貧しいってのはそんな綺麗事で片付けられるもんじゃねぇ、やがていつの日か救われるなんて空手形を渡されるよりも今の貧しさから救ってくれよ。そういう民衆的な叫びがオッカムの貧しさには含まれています。そうした神の救いの対象としての貧しさはどうしたって彼岸的なニュアンスが出てしまいます。しかし、貧しさとはまさに今ここにあるのです、逃れることも出来ないままに。ここで逆説的な視点が生じます。すなわち、貧しさが自分たちの拭い去れぬ現在の状況だとすれば、そして神の国が貧しき者たちに与えられるならば、まさに自分たちの中にこそ神の国はある、救済やら平安やらを外部的に余所見しながら探すのではなく、自分たち自身の潜在能力をしっかりと掴み取れ、惑わされるな、自分たち自身こそが世界を変える契機なのだ、ということです。だから、オッカムの貧しさとは現状受容でも日常肯定でもなく、ただひた向きにそれを乗り越えようと抗う現場なのです。ふんぞりかえってる権力者連中が貧しい者たちを踏みにじって良いわけがない。血と汗を流しながら痛みと苦しみの中で抑えつけられている貧しい者こそが神の国の住民なのだ。貧しさに嘆き悲しむ者たちを置き去りにして何が神だ何が教会だ、泣く者たちが笑うことなくして何が救いだ。オッカムの著作は、こうした民衆の叫びと一緒に吠え抗うものなのです。例えそれがどんなに弱くて小さい声であろうとも吠えずにはいられぬ思想家がオッカムだと言えるでしょう。だとしたら、彼の思想を学ぶ私たちは。答えは自分の手の中にあるのです。
 ちょっと余計な付け足しをいたしますと、ネットでオッカムのこの著作を単に教皇権の問題としか読めていない読書感想文を見つけましたが、ちょっといくらなんでもマジっすか、という感じ。その程度の解釈でおまんま食える御身分で羨ましい限り、いや皮肉ではなく本当に。だいたいが、オッカムの教皇権批判を「教皇の不可謬性」とかを未だ信じるような"教皇派"教徒様が本気で論じることがお出来になるんですかねぇ。まぁ、批判精神よりも業界での立回りや御追従に長けた御仁では表面的な文字列をなぞるのがせいぜいといった所、或いは大御所の研究の横流しが関の山、それなら端からオッカムなんぞお読みにならなければよろしい。そこらに聖なるトマス様の御託宣がたくさん転がっていますのでそれを御自分の虚栄心を満たす為に存分に軽薄な講釈でもなさっていて下さいませと心から思います。
 別言すれば、オッカムの政治哲学の視座は、オッカムの分析力が鋭いだの何のと適当によいしょする言説からは決して到達しえない位相に向かっているのです。というのも、彼の言説は、繰り返しになりますが、単に頭の中で考えられた観念的事態から生じたのではないからです。むしろ、彼が自らの生を賭けてそこへと身を投じたフランシスコ会の理念として表現され、まさにキリストの示したキリスト者に課せられた生き様として彼が受け取った"貧しさ"の内実から発せられたものだからです。
 謂わば、理解するこちら側も彼の視座へと自らの生を近づけねば触れることすらできないような抵抗の現場こそがオッカム政治哲学の地平なのです。適当な言葉を適当に接合しているだけの"大学教授"様には彼の思考も振舞いも全てが痛い所を鋭く抉る剃刀となるーだからこそ怜悧やら何やらと言って持ち上げておいて距離感を取りたいのでしょうがーのですが、しかし、オッカムの歩まんとする道の先にはアッシジの風に吹かれるフランチェスコがいて、さらにその先にはガリラヤの土埃にまみれたイエスがいる、その意味でオッカムの道と同じ歩みをする者にとっては逆に単純明快な足取りとなるのです。
 オッカムと同じ歩みなんぞと言うと軽々しく響きますが、それは抑圧と非難あるいは命の危険にさらされながらも反逆すらままならずに何とか自らの生を貫いていくだけという弱き者たちこそがオッカムの同伴者となるのであって、換言すれば、その弱き者たちが負わねばならぬ弱さとは各々の存在を脅かすものであるが故に弱さの部分を開き直ってみたり弱さを自覚する自己に酔いしれてみたりすることのできない決定的な弱さです。何とかして剥がしたい脱け出したいとしても痛みが纏わりついて来るような或いは消えない傷痕が日夜疼き悩ませるような若しくは弱さと名づけて相対化することすらしえぬような、そうした弱さです。オッカムの生はまさにこうした弱さの中でその権勢に抗っていたのです。だから、毎日が安定していてそこから抜けることもなくあえてずぶずぶと凋落している"大学教授"様では到底理解不可能な領域なのです。ましてや、ニューヨークの地下鉄の中で見かけた髭をたくさんたくわえた若者を"髭もじゃの若い男"なんぞと差別的意識丸出しで表象するような目では決して見えて来ませんーそういえばイエスも髭もじゃの若い男なわけで、この教授様はイエス本人に会っても見下して通り過ぎるんでしょう。まぁまさかとは思いますが、イエスアルマーニやらグッチやらのブランド服を着てると考えておられませんよねー。
 以上、つらつらと書き連ねましたが、この著作は読み手の思考が何処に向かっているのかを検査する試金石となっています。どうぞご一読下さいませ。