sekiwataruの日記

Ph.D(filosofia)のソリロキア

「美しい国」における学究的野暮ー『中世哲学の射程』なる紙媒体の現出状況に寄せてー

 書評という訳でもなく、またあちらで書くと"一応"配慮して読むに値する部分ないし益になる読み方を模索しながらの作業になりますが、こちらではそうしたこと無しに、こんな周回遅れの研究書が一般書籍に近い棚に並ぶ奇妙な醜聞を生み出した状況へと思いを向けてまさに"個人の感想です!"を述べていきます。ので、著者の狂信者は回れ右してお帰りになられるようにお願いします。
 不思議に思うのが岩下某もそうですがこの著者についても研究書としては最早賞味期限切れの手法による著書が矢鱈と再販されては、多くない紙資源と書棚とを占領していく現実。とくに岩下某なんぞは著書の矮小化した宗教概念によって自分の所属する派閥以外に対してしょうもない偏見と独善意識とをばら蒔くものでしかない訳で、まぁ確かにその意味で人はどのようにして他者に抑圧的に振る舞い得るのかを考察する上で好事例にはなりえますが、それにしてもそれに対する根本的批判も反省もなしに出版なさるとは、これでは中世哲学なる分野に発展も前進も求められないなと痛感いたしますよ、はい。
 この著者も御同様。まぁ岩下某的な宗派意識は全面に押し出さぬにせよ、要は敬虔な神信仰を帯びた人間のみが品性を持ち合わせるという大前提が見え隠れするので非常に気色悪い。しかも。その敬虔な神信仰が現れるのは、哲学だの神学だのの形而上にまつわる知の最先端であって、そこから溢れた流出を有り難く民衆は受けとる事で神信仰に至り得るという話に行き着く語りで、言い換えれば信仰のトリクルダウンを一見高尚な調味料をまぶして提示しているだけ。極論を言えば、そうした神信仰を溢れ出させる哲学者の側に自分はいるのだという下らない自負をこちらに押し付ける意識が垣間見られるので、まぁ御自身で考える力を棄て去られた狂信者連中は称賛なさるんでしょうね。だから、日々の寒さや空腹を凌ぎつつ何とか日銭を稼ごうとする民衆には神は見向きもしないし到来もしないということなんでしょう。ましてや、電気代を節約するために普段は紙と鉛筆で思想的に格闘している人間には知は自らを示さないのでしょうが、そんな差別的な神なり知なりは端から願い下げではありますが。
 今や中世に限らず哲学という学問はーいや学問という学問はー斜陽です。ゆえに、どうしたら生き延びることができるかを絶えず考えながら、その上で探究されるのです。日本の皆さんは最初から否定なさる欧州の哲学研究の傾向は、まさに哲学を学ぶ自分の負い目を実存的課題として背負いながら今を苦しむ民衆の生き抜く力となるように過去の思想を提示しようとします(何で日本の皆さんは否定なさるかって?そりゃ哲学をやってる自分はお偉いさんで苦しみとは大衆的無縁だと勘違いなさるからでしょうね)。だから、中世をやってようが近代だろうが様々な議論を御存じです。てか、日本にいますかね?ルッジェニーニのようにマルクスを片方で読み解きつつアンセルムスの神存在証明を論じられる人が?これができるのは神存在証明を単なる専門分野としての哲学的議論に留めずに人間の生き様の述懐として見出だしているからに他なりません。あるいは、ヴィッチエッロのように神存在証明から人間の弱さや限界性を語る思想や、セヴェリーノのような神からニヒリズムを語りつつそれを実際の資本主義的諸問題にぶつけていける思想は?あるわけがありませんよ、だって中世哲学ってのは神存在をめぐる哲学であって、それは人間の日常を離れた彼岸を志向するものだとして政治や経済といった民衆の苦痛なぞは周辺的課題にすぎぬかのように、この著者が領導している言説に批判も何もしないで大人しく従ってるのが学者さんなんですからね。
 一応、この著者の手法の古さを指摘しておきましょう。昔は文献を資料として手に入れるのが難しかった訳で、その意味でたくさん資料を占有していてそれをお読みになりうる連中(しかし、特定の宗教の一派閥の一団体が人類の知的遺産を資金にかまけて占拠するのは学問的搾取ですよ)が重宝されていましたーまぁ、えらいご本をお読みにならはってようお勉強してならはりますなぁとは思いますがー。問題はそれを単に右から左へ受け流してくれれば良いものを、そうした膨大な資料から御自分たちの気に入る文言を抽出して再構成しなおす事です。ソ連共産党あたりがマルクス文献を編集する時にやった手法と似てます。言い換えれば、普通の人が知り得ない思想家の言説を、御自分たちの既得権益に合致する形で提示しているのです。今やネットでかなりの文献を見ることができる時代ですなのでこの手法は古いのです。
 更に言えば、この著者は様々に対立したり矛盾したりする中世哲学者相互の思想を強引に一つに収斂させようとしています。まぁ中世哲学書についての逐語霊感説とでも言えば良いのでしょうが、そのために御自分の意図に合致する言説は高く持ち上げて意図に反する言説は蔑むか無視していきますー一例を挙げれば14世紀のアリストテレス主義とトマス主義を更に折衷させたカルメル会学派については無し。後に彼らは現実的諸問題への対応をトマス主義的解消を遂行しながら中世の諸文献を近世に渡す重要な役割をスペインで果たしていきますー。何と言う全体主義!言ってみれば、思想家の言葉をその人の人格から切り離して物件として利用するものです。で、収斂させる先というのは話は単純、神は存在そのものであって真理であって善である、だから存在を思考する哲学が中世哲学の根幹である。そして存在そのものである神は人間の知性を超えているから人間からは把捉できず、神が自らを人間の知性のうちに可知的にならしめることにより人間は神へと開かれる。…とまぁ何かファンタジーっぽい深夜アニメの梗概でも書いてるみたいになりますが、この単純で蒙昧な話はそこに留まらず以下のような帰結に至るのです。すなわち、そうした神が自らを現すのは知性の場である、ゆえに神へと開かれるのは知者である、民衆は知者の教導により神へと至りうる、とね。これが唾棄すべき論理であるのは、神存在なんて人間の妄想だと言い切る我々が言うのではなく、神へと至ることで人間は救われるという観念を拡散する側からの思考であるからです。つまり、"我らのような学者様の言いなりにならねば救われぬぞよ"と言ってるようなものだからです。こういう手合いは「神は知者を貶める為に此の世の愚を選び云々」にしても御自分は知者でなく"無知の知"たる哲学従事者だから神から選ばれた愚の方だと(普段は大衆を見下しているわりに)都合の悪い時だけ愚者ぶるので余計に鼻持ちならないのですが。これは思想家の諸言説以前に普遍的な思考様式が先在するかのように論じることで観念的に縛られていった結果、御自分の言説が絶対的であると何としても主張せねばならぬことになった哀れな道化の成れの果てとでも言えそうです。
 この著者への専門的な批判はWestbergさんに任せておくとして、その視座が如何に世界を歪ませるかという自己批判なしに研究に埋没しうるのは羨ましい限りです。中世哲学なんてのに興味はありませんが若いor若かった友人たちの前でなんやかんや語る時に必要があったりして読んだりする程度であっても、こうした観念的倒錯型解釈が気持ち悪くて仕方ありません。仮にーあくまでも仮にー、神問題を語る思想家に共通性を見出だすなら、それは"神"と"此の世"の闘争に落とされ、そこで踠きながら此の世の原理に抗って逆らう術を神の中に見出だす、謂わば"抵抗の言説"です。実際の苦痛を除去する為に自らを抑えつける力に叛くこと、ここに神信仰に基礎づけられた思想は向かうのです。例え傷を背負い痛みに疼く体ごと十字架にくくりつけられたとしても「何故なんだ!」と叫んで己の仕打ちに反抗しうるのです。まぁ確かに神秘主義に傾きながら職業差別と大衆蔑視にどっぷり浸かって自分の持つ幼稚な道徳意識を振り撒くだけの"善き運命"なんて名前の方もいらはりますが、それにしても自分を押し流そうとする濁流に抗うだけの気概はお持ちなわけで、そうした抵抗も何もしなくて良い地位に安寧されてる学者連中が無視する思想家の"気概"にこそ、何かを見出だすべきです。しかし、こうした抵抗をまさに踏みにじるのがこの著者の手法なのです。例えば、有名なオッカムのウィリアムさんはこうした暴力性の被害者です。オッカムの著作は"政治的著作"と"非政治的著作"とに恣意的に分断されます。というのも、オッカムさんは周知の如くに教皇権批判を展開したので、教皇派にとっては都合が悪い言説に溢れています。そこで、そうした著作は闇に葬られる為に適当な理由をつけられて切り離されたのです。残った"非政治的著作"を論理学的視点から研究すればオッカムさんを反教皇派と見なす必要もなくなって唯一普遍の中世哲学潮流から外れることなく扱えるわけです。しかし、オッカムさんの場合はまさに"政治的著作"の内にこそ彼の気概が見出だせるのであり、それは"貧しさ"です。清貧と訳すと何やら胡散臭いのですが、ものの所有を棄てることにこそオッカム思想の基軸があります。俗に言う多く存在者を増やさないというオッカムの剃刀も思想的次元において遂行される"貧しさ"です。従って、或る思想家の思想を理解しようとするならば、その思想が思想家の人格的営みのどこから位置づけられたものかという視点抜きにはあり得ません。だから、この著者とは違って新しい手法たる分析的手法も似たり寄ったり。結局の所、分析哲学アプローチなるものに傾倒したがる連中は与えられた問題文に何の疑問も挟まずに機械のように情報処理することに長けているだけで、現実の諸問題や民衆の実際的苦痛を理解するだけの知性を持ち合わせぬ三文役者でしかないであって、謂わば自分の意にそぐわぬ他者を権威と暴虐で以て辱しめる学問的ハラスメント野郎なのです。ちょっと話が逸れましたが、ここから分かるように、観念的に或る人物の思想を分断して一方を拾い他方を棄てる手法は本来的な意味で思想家に向かう態度として最も不適切なものです。まぁこの著者はある所でオッカム政治思想を「全く下らない」と評していたそうですが、そりゃぁ「より大いなる神の栄光の為に」とか言って小さき群を踏みにじるような標語を御題目のように大事になさる心性の連中には"貧しさ"の実践なぞ下らないものに見えるでしょうね。
 そう、このオッカム評価という個別的事態にこそ垣間見られるのです、繰り返し述べている気色悪い思考回路が。実際、時代を動かしているのは誰か、歴史を前に進めて来たのは誰か?こう問うと劇場版の『機動戦士Zガンダム』最終章を思い出します。「常に世界を動かして来たのは一握りの天才だ!」と宣う人物シロッコに「違う!それは違うぞ!」と投げつける主人公カミーユ、言ってみればこの著者の主張はシロッコなのです。カミーユは別の場面でこんな事もシロッコに言ってます。「お前だ!いつもいつも、脇から見ているだけで、人を弄んで!」まぁ哲学従事者なんてのは皆な多かれ少なかれこんなもんです。これには政治的な左派も右派も関係ありません。血や汗を流しながら働かねばならない民衆が少しばかりの余裕を求めて投資をしようとする思いを嘲笑しながら自分は社会主義者だから自分の言葉は理解されないだろうがと庶民の投資をまるで社会的害悪であるかのようなに宣う自称マルクス研究者も御同様です。この著者もかのマルクス研究者も、一方では御自分たちは決してそうした弱い立場に貶められる事が無いことを熟知した上で大衆を見下すような弁を放つ。しかし、他方では自分がそうした立場を失ってしまえば何者にもなれないことをも自覚しているが為に本心では自らがしがみつく地位や名誉を貪り食らう事に固執するという怯懦な小心者の振る舞いを見せる事になるのです。もし少しでも気概をお持ちなら御自分たちが何者であるかなんぞ誰も知らない気にかける余裕もないような限界状況に身を置いて汗と血を流しながらすったもんだしてご覧なさいよとは思いますが。で、話を『機動戦士Zガンダム』に戻すとカミーユはこんなことをも言ってます。「その傲慢は人を家畜にすることだ!人間を道具にして!それは人間が人間に一番やってはいけないことなんだ!」先ほども少し触れましたが、この著者の手法すなわち思想家の言説をその現場から切り離して己の利益拡充の補強として使用するという遣り口はまさに人格を道具つまり物件化することの学究的現象なのです。このように、単に古い手法は古いとして眺めていれば良いというものではなく、一昔前の封建的あるいは宗教全体主義的な抑圧と収奪の構造をそのまま持ち合わせているがゆえに、そこへの反省もないまま"研究者不可謬説"を信奉することは最早その研究分野は人間を人間であることから引き剥がす、カミーユの言葉を再利用すれば「人間が人間に一番やってはいけないこと」を現実化する為の補強に手を貸しているに過ぎません。
 しかし、話を先ほどの問い即ち時代を動かしているのは誰かに戻せば、名も知られぬような民衆であり、その民衆の流す血と汗と涙であって、決して哲学者や神学者連中ではありません。理由は二つ。一つは小学生でも分かる話で、「じゃぁ、その哲学者様や神学者様が食べてるパンやら何やらは誰が作ったんだ」と。幾ら頭が良いかのように振舞おうが自分が知者であるかのように誰がに尊敬させるように抑圧しようが人間である以上は食ったり寝たりせずには生きられません。なんぞと言うとあーだこーだ言い始める輩がでますが、だったら自分で食う寝る住む為の資材をお作り頂いてからにして貰いましょうか。で、もう一つはやや真面目な話。ちゃんと中世哲学のあれこれを中世という欧州の歴史の動きの中に戻してから読み解くと、哲学者は今のようにー或いはこの著者のようにー自分の地位や名誉が保持されてる限りは寝食の心配なく大学や研究所に閉じ籠ってうだうだしてれば良い、というわけでもなく、自分たちの団体やら何やらの存在意義を周囲に発信しなければならなかったのです(ので、この著者や研究者が安易に見積もる程には楽して生きてもおらず、食べてく為に働かなきゃいけない立場だったりする人が多いです)。そして、自分たちの存在意義を示すには、一方では王族の他方ではやはり大衆の関心領域に一言放つ必要が出てきます(しかも、今ほど大衆が骨抜きにされていないために王族も民衆蜂起に気を配っていたりと、良くも悪くも結果的に実際的諸問題の解決へと目が向かざるを得ないわけです)。
 例えば、アンセルムスさんなんかも土地の私的占有に反対して公共空間としての定置を計ったり、あるいはさっきの"善き運命"さんも妙ちくりんな商売ー今だと転売みたいな生産をするんじゃなく単に移動するだけで暴利を貪ろうとする連中とかーを口汚く批判したり、とまぁ色々ありますーこれらについては英米の"最近の"研究書を参考にー。或いは、かの聖なるトマス様ーちなみにこの人、現代研究者からは神の如き大哲学者として扱われていますが当時は危険人物と見なされていたようですよ。ジョーダンさんの『女性と信用取引』という法政大学出版から出されている邦訳書にこれについて一文だけ触れらていますーですが、俗に自殺は罪だと断罪してると言われますが、あれもそこだけ議論を切り取って普遍命題にするから問題が拡がるのです。これは、当時に流行ったファナティックな宗派による「現世で長生きして罪を何度も重ねるなら自殺して一回だけの罪を犯した方が救われる」とかいう今でも新興宗教で問題になる話が前提としてあり、それに対して「いや事態の回数じゃないから事態の深刻さだから」と論じているのがトマス様なわけで、そうした議論抜きに単に「聖なるトマス様は自殺を自然法と愛徳となんちゃらに逆らう罪だとしておるぞよ~」としたり顔で解説しちゃう訳者には呆れて物も言えません。歴史的状況を知らないなら下手に解説しないでスルーすればいいんですよ、無知は罪じゃないんだからーちなみにこうしたファナティックな信仰についてはマンセッリの著作で『西欧中世の民衆信仰』というタイトルで邦訳が八坂書房から2002年に出てます。てかこういう著作をこの著者のより先に一般書籍化したら?ー。
 で、ここから結論。上記のように哲学者の言説は当時の時代状況に対する応答なのです。つまり、大衆が周辺的なのではなく、哲学者連中こそ大衆の周辺にいて大衆の活動によってその存在意義が呼び起こされていたのですーじゃあ何で哲学者がそこまで重要だと思われるようになったかは近代の"国民国家"定立に向けたイデオロギー統率過程において見られるのであり、従ってこの著者の古い手法もそうしたイデオロギー的性格に染み込んでいるとして読み解く必要がありますがそれはまた哲学研究それ自体の批判的超克の課題となりますので今回は問題提議ということでー。大衆が苦痛の毎日の中から何を食べようかと考えること、これはまさに自己の存在を反省する作業です。自分の置かれた現在的状況を起こり得る将来的課題と比較しながら考えているのです。まさに"いのち"の悲しい程に弱々しくもしかし荒々しい輝きがここにあるのです。これを哲学者様の小難しい御託宣と比べて低く見積もるのは、事柄についての反省能力のない只の愚か者でしかありません。名も知られぬ民衆が土地を耕して植物を育てて動物を育んでパンを作って物を売って…そうした在り来たりの日常を一生懸命それぞれが生き抜いたからこそ、哲学がその時代に合った言説を展開できたのです。忘れてはなりません、民衆こそが時代を動かしているのだと。学者や権力者はその上がりを貪っているに過ぎぬのだと。こうした意識を眠りにつかせる阿片的作用を引き起こすのが、この著者の手法なのです。学者は純粋無垢ではなく、鼻を利かせて体制にすりよった言説をばらまく為に一部の人間ー聖なるトマス様でもマルクスでもレーニンさんでも誰でも良いですがーが時代を作ってきたかのように惑わします。しかし、現実は抽象的普遍の中では遂行されず、個別的な事象として現れるのです。これを絶えず批判的に思いを向けていないと、自分自身も忘れてしまいます。個人的には、案外と中世の哲学者自身はこういうことに気づいていたんじゃないかなと思ってはいます。民衆、とりわけ貧しい人々にこそ神はいて、その貧しい人々のおかげで我々も神を知りうるのだって。だって、彼らの頭はこう言ったじゃないですか、「幸い、貧しき者」ってね。頭の言うことに心酔できねぇ手代なんぞは家族じゃねぇと思いますが、現代の研究者様は違うようで。あの中世哲学者の頭もご苦労なこってすな。 
 思想家の言説を成り立たせる事態がどのようにして形成されてどのように現実と対決しながら屈折して体制の中に取り込まれていくのか、そうした思想家の生全てへと注意を払うような手法なくして、哲学がーそれが中世であれ近世であれー私たち自身の問題意識とはならない。この点こそ、まずは想起すべきなのです。