sekiwataruの日記

Ph.D(filosofia)のソリロキア

【書評ー蛇足その1ー】Silva, Ludovico, "La Alienación como Sistema"

 前回は、シルヴァによる『システムとしての疎外』の要約を試みましたが、今回はその読書中に考えたことを述べることで、本書の射程を拡げていきたいと思います。
 本書の示す読み方で見えてくるのは、新たなーというよりも科学的社会主義を標榜するような政治政党による独裁的国家社会主義者によってねじ曲げらたこと虚像のマルクスを元に戻すだけですがーマルクスの姿です。
 例えば、エンゲルスさんが「マルクスは若い時分はフォイエルバッハ主義者であったがそれを捨て去った」と仰っているようですが、マルクスフォイエルバッハと同じ言葉を用いてはいますが、端から主義者なぞではなく、独自の視点で言葉を使っていたということです。そもそもの話ですが、或る思想と出会い、そこから影響を受けたに飽き足らず、主義者にまでなるというのは、そこいらで面白い本を読みましたレベルの話ではなく、それこそ抜けない棘のように刺さり続けていく体験なのです。仮に、そのようにして成った主義者だったならば、そこから脱却しようとしても、その棘のように刺さっている思想は彼女ないし彼の中で疼いて縛り上げていくものです。だから、エンゲルスさんの言うように、マルクスフォイエルバッハ主義者であった時期があるなら、後のマルクスの記述の中にもその傷痕が見られるのであり、読み手はテキストに当たる際にそれを絶えず取り除いていかなければならないくらいに目につくはずです。ある時期は主義者で後には捨てましたなんぞと単純に言えるのは、世話になった若手研究者を自分の利益や都合でころころ変えたりばっさり捨てたりする人の心のない大学教授様のようなサイコパス的心性ならいざ知らず、普通はあり得ない話です。まぁ、思想家の足元にも及ばない所か似ても似つかない軽薄な自称有識者の皆様は簡単に割りきれなさるようですが、御自分たちの単純な若しくは屈折した感性を歴史に名を残すような思想家の解説に持ち込むのはお止め頂きたいものです。
 もし、あくまでもこの点をどうしても基軸としてお読みになりたいというのであれば、それは「マルクスフォイエルバッハ主義者であったが後にそれを捨て去ることになるのだが、しかしその残滓は後期の著作の中にもこびりついている」という立場しかないでしょう。この立場からマルクスについての見通しを立てたものに、かの有名なドイツ哲学史家であるHenrich,D.によるKarl Marx als Schüler Hegelsという論文があります(元はUniversitätstage, Berlin, 1961, S.5-19、現在は"Hegel im Kontext", Suhrkamp, 2015に所収)が、これは短い論文なので細かくテキストを見ているのではなく、その視座を与えるに留まっているものですが、こうした残滓を見ていく的な手法を唱えているのがヘンリッヒさんだという時点で「あっ…(察し)」となるのではないでしょうか。確かに、ヘンリッヒさんほどの顕学は他にはいませんが、しかし、難しく書かれている内容を更に難しく解説することに定評のある方です。その方の唱える解釈ですから、この読みはテキストにはないものを外部から持ち込んでテキストを見ていくことによって複雑にしてしまい、一般人には縁遠いものにしてしまう読み方なのだということを問わず語りに示しています。もっと言ってしまえば、この読み方はヘンリッヒくらい哲学史について造詣が深く知識を持ち高度なそれらの処理能力をお持ちの学者クラスにならねば到底無理だということで、美しい国と称される地域で見回してもそんな方は絶滅危惧種なために、学界での身の振り方に長けているだけの方々は素直に止めておくのが無難です。むしろ、きちんとテキストに向かい、余計な読み込みを入れないでー昨今流行りのエコロジー的なんちゃらとかもこの余計な読み込みの弊害を生む要因ですがーマルクスの言説に向かうこと、そのことの方がはるかに実りが大きい。というよりも、そのことでしか、マルクスの言説を理解するには至らないのです。残念ながら、マルクスレーニン主義だの科学的社会主義だのといった御題目を毎朝毎夜唱えておいでのような方々が執着される「正しいマルクス」だのといったものを喧しく叫ばれてる声が数を頼みに自分たち以外を弾圧せんと息巻いているような現状では、テキストそれ自体に向かうことは非常に困難かも知れません。実際、なんちゃら主義のためにマルクスを読んでいるほうが楽なんです、結論はどっかの指導者層が自分たちの利害に合わせて用意してくれていますので。しかしながら、それは本来的な意味での「科学的wissenschaftlicher」、つまり人間の能動的な活動としての知るという在り方に根差した事態ではなく、それは人間が人間たることを自ら放棄することになります。こうした現状を見るにつけ、科学的社会主義と僭称される方々は本当に科学というものを考えようとなさっているのかしらと心配になります。どのようにマルクスを読むかとは、単に読書の態度ではなく、読む主体の在り方そのものが問われているのです。
 で、話は変わって、『システムとしての疎外』を読んで思うのが、疎外論という問題意識はマルクスの全生涯に渡る問題だったとして、なぜ或る場面では疎外という語を用いて、また他の場面ではーそれが明らかに疎外という事態を扱っているにも関わらずーその言葉を用いないのか、ということです。このことを明らかにするためには本来なら一つ一つ丁寧にテキストに当たることを必然とするでしょうが、なにせこちらは素人の横好き、草稿を含めた全著作なんぞ知る由もなく、とりあえずの見通しをつけるならば、著者シルヴァが指摘したように、『経済学・哲学草稿』では疎外が「現象学的に」(本書p.184)語られていたという点がヒントになります。すなわち、疎外とは、前述したようなその語源たるalienatioの中世的用法から分かるように、ある人が置かれている遠ざかりの状況、すなわち、その人が持っていてその人自身のものである事柄がその人から遠ざかっているという状況に関わっています。だから、マルクスにおいては労働者が自分のものである労働から遠ざかっているのが現存する労働の実情であることを描写する際に疎外という語を用いているのが本書の記述からも分かります。それに対して、明らかに疎外つまり労働者の労働は労働者自身のものであるにも関わらず労働者から遠ざかっているという問題を扱いながらもその語を用いない時は、疎外という状況に陥っている現状が、どのようにして定立したのかという成立過程が主眼になっているように思われます。
 例を挙げます。これの元ネタは、Dussel,E., "Metafora teologiche di Marx", trad. di Infranca, A., Inschibboleth Edizioni, 2018, p.122なんですが、それはともかくとして、マルクスの言に、

  もはやこの関係は、端的に一つの倒錯、つまり物件Sacheの人格化であって人格Personの物件化なのだ。というのも、この形式をそれまでの形式から区分するものは、資本家が何らかの個人的[=人格的]資格に基づいて労働者を支配するということではなくて、労働者が"資本"である限りにおいてのみ、そのような仕方で支配するということだからである。資本家の支配は、生きた労働に対置される対象化された労働が支配するということ、労働者自身に対置される労働者の生産物が支配するということ以外の何ものでもないのだ。(新MEGA II 3-6, s.2161)

 とあります。これはーよく読めば容易に分かりますがー、資本家が悪い奴で労働者はその悪意によって玩ばれているというような表皮的な話をしているのではありません。マルクスはあくまでも、資本主義社会の現状を淡々と、しかしそれに対する憤慨と怒気を以て、冷徹に記述しているのです。すなわち、ハンス(仮名)という資本家が労働者のペーター(仮名)を強要しているという個別的図式ではなく、というのも、そうであればハンス(仮名)を改心させて酷い目に合わせた分をペーター(仮名)に保障すれば解決する話となってしまいます。そうではなく、資本主義社会の中に投げ込まれた瞬間に資本家ー労働者の関係は、物件の関係と化すのです。
 それは何故か。違う文献に飛んで恐縮ですが、『Grundrisse』の有名な箇所を。

  交換価値のうちに、人格の社会的関わりは物件の社会的関係に化する。人格的な能力は物件的な能力へと化するのだ。(Marx, K., "Grundrisse der Kritik der politischen Ökonomie", Dietz, 1974, s.75)

 このようにして、マルクスは労働者はそれ自身ユニークな存在であるにも関わらず、交換価値の抽象に取り込まれていくそのことでを、人格から物件と化すことを描写しています。先ほどの箇所では、生きた労働ではなくて「対象化された労働」すなわちその人自身のものであってその人に固有なものである労働が、その人の固有性から遠ざかってオブジェになっていくーこうした過程によって疎外という現実が出来したという問題意識を読み込むかどうかは御随意にー、労働者自身ではなく労働者の生産物が労働の眼目となって労働というものから人間らしさが滑り落ちていく、その結果として労働者の労働が労働力という商品と化していくことを暴いているのです。この辺りは、もっと厳密にテキストを読まなければならないでしょうが、とにかく、疎外の現実を語るに当たり、それをそれとして提示するのではなく、それがどのような過程で産み落とされたのかを経済学の批判を通して明らかにする時には、余計な概念は持ち込まずに経済学の批判に徹して、そこから事態を述べるのがマルクス的な手法だということが分かります。
 お気づきのように、Sacheを物象ではなく物件と訳しています。それは、前回触れましたが、このSacheとPersonの対比によって人間の在り方を問うものにはカントの倫理学がすでに先んじて存します。このカントは営みとの比較によってマルクスの問題射程が明確になると思われる為に、カント的な伝統を汲んで訳しているのです。では、そのカントの言を見てみましょう、少しだけ。

  このように我々の行為を通して獲得される全ての対象の価値は絶えず条件の元にある。我々の意志の上にあるのではなく、むしろ自然の上にある現存在の存在は、理性の欠落した存在であるなら、手段としての相対的な価値だけを持つに過ぎない。そしてこのことから物件と呼ばれるのであり、それに対して理性的な存在は人格と呼ばれるのであって、というのも、その自然本性はまさしく目的それ自体であるためであり、すなわち、単に手段として使用されるようになってはならないのであって…(Kant,I., "Grundlegung zur Metaphysik der Sitten", IV 428)

 云々と続きますが、明確にカントは物件ということの内実を示しています。すなわち、物件とは、気まぐれな欲求によって調達されるものであり、理性の欠いた存在物であり、他のものと代替可能な手段であり、理性的な存在は、それに対して、目的として扱われるべきものとされています。図式的には一見すると分かりやすいのですが、ちょっと立ち止まって考えると、ではなぜ目的として扱われるべき存在者が手段として、他の欲求に隷属するものとされてしまうのか、そういう視点がないために、目的―手段の倒錯が生じる理由と解決という問題をどうしたらよいのか戸惑います。ここでのカントの記述を読む限りでは、あくまでも個人の倫理性の事件でこの問いが対応されることになってしまいます。確かに、人間が他者に対して意図的に善となるように振る舞ってみても、その振る舞いのうちには何らかの自分への見返り要求が入っていて、従って、そうした善行為も結局は他者を自分の利得のための手段として扱っているのであり、それは人間に対する接し方として間違っているのであるから、そうした関係性をひっくり返して、一人一人がただ他者に相応しい在り方を実現することを義務として行為することによって多少なりとも変化が生じるのかも知れません。しかし、そんなまどろっこしいことを語る間にも、働く人たちは日銭を稼ぐために身を削っていて、すなわち、毎日の生活を成り立たせるために働かなければならないが故に働くことで心身ともに疲れて傷いてしまっていくというこの現状は進んでいくのです。従って、個人の内に物件化の要因とその解決を見るとしても、それはある程度余裕のある向きには適しているかもしれませんが、「日ごとのパンを我らに」という言葉が単なる祈りではなくて切実とした要求とならざるをえない立場に追いやられてしまっている人たちが安心して食って寝ることをまさに今日それを可能なするのかどうかは私には分かりません。
 つまり、こうした物言いでは、人はまだ物件とも人格とも扱われることになりうるその分岐点に立っていることになります。それに対して、マルクスの言説では、もはや労働者は物件でしかないのです。マルクスの物件という言葉のうちに、カント的な意味合いの、誰かの気まぐれな欲求に隷属させられるような非理性的な自然物体として、あるいは、壊れたら取り替えられるだけの扱いを受けるような存在として、そういうニュアンスを読み込むと、人格が物件にされています、という記述が単なる事実を述べているのではなく、そこにどれ程の嘆きと悲しみと憤りがあるのかを痛感できます。だから、巷で耳にする「マルクスは疎外概念を物象化概念に置換した」という言い回しが、日焼けもしなければひび割れもしたことのない綺麗な手で書かれた文言であることを知ると、もはや何を言うべきかも分からなくなります。いや、物象化でもいいんですよ。しかし、マルクスがその語をわざわざ選んでその語を使用して、しかもその語の背景を考えていくならば、そこにどれ程マルクスのパトスが込められているかを少しでも感じようとなるはずであり、単純な理論の変遷の問題には出来ないでしょう。
 だから、私は物象と訳さないのです。そう訳すると、ただそういうふうに現れているということを記しているに過ぎないように聞こえるからです。しかし、物件と訳し、その語が使用されてきた背景を絶えず絶えず想起するなら、それは本当に解決していかなければならない問題なのだと心から感じるのです。例えば、この世に生を受け、冷暖房の効いた部屋で人事問題に介入しただの何だのを叫ぶことで学術と騒げるような身分でいられる人たちがいる一方で、生活のためや家族のためにこつこつと勉学に励んでいる方々が労働者という物件として扱われて、他者の欲求に飲み込まれて他者の利得のためにその方々の尊厳が踏みにじられた挙げ句、壊れた玩具のように捨てられても文句すら言えずに日々の苦痛を身に刻んでいるなんてことがあっていいのか、と。
 だいぶ長くなったので、今回はこれ位で。次回も、少しばかり考えたいことがあるので、それについて。