sekiwataruの日記

Ph.D(filosofia)のソリロキア

【書評ー本文ー】Silva, Ludovico, "La Alienación como Sistema" , Alfadil Ediciones, 1983

 前回の長い前置きに続けて、今回は『システムとしての疎外』の内容を要約していきたいと思います。
 著者シルヴァは、本書を始めるにあたり、欧州や北米の研究者の中には疎外論マルクスの若い頃のみに限られた議論であって『経済学・哲学草稿』(1844年)に見られるだけの内容だという偏見に陥っている傾向が散見されるとします。これは、本書では語られていませんが、Dussel,E.,"El último Marx(1863-1882) y la Liberación Latioamericana", Siglo xxi editores, 1990に詳しいのですが、この本はそれとして語らなければならないことが多いので、とりあえず指摘すると南米のマルクス受容は経済学的な理論書ではなく、『フランスの内戦』や『ルイ・ボナパルトのブリューメル18日』などの政治的著作から始まったことが特徴とされています。従って、科学的マルクス経済学の教条に拘る必要なかった、このことがシルヴァの指摘の背景にあると思われます。そこで、著者は「テキストに目を向けることにより、私は疎外の理論がマルクスの全生涯に渡る課題であったことを示す」(p.9)としています。そして、疎外は確かに哲学上の用語ではあるが、それは決してヘーゲル哲学の継承ではなく、マルクスの思想、つまり、社会―経済学的理論の基盤として存するものであると論じ、「疎外は使用価値から交換価値へと至る普遍的過程である」(p.11)と定置します。こうした著者の仮説とその検証が適切であるかの判断は読者に委ねられているとして、本著作の特徴は、疎外という概念がマルクスの著作全体に根づいていて、そこを見ていくことで、マルクスの思想についての理解を深めるための展望が開かれるとしている点にあると感じます。
 その上で、著者は、従来の疎外理解の中にある、例えば人間主義か科学主義かというような2分法は解釈者によって作り上げられたものであり、実際のマルクス理解の為の障害となることを指摘します。(p.15)読み手が知らず知らずのうちに囚われているマルクス解釈というものをいったん括弧に入れてマルクスのテキストそれ自体に向かうように著者は促していると言えます。特に若きマルクスと円熟期マルクスという分断を無用であるとして作り物とする所(p.17)には、私自身も反省させられます。
 本書では、一つずつマルクスの主要著作を見ていきます。まずは『経済学・哲学草稿』(以下、『経哲草稿』)。ここでの大きな指摘は、疎外が哲学用語であったとしても、それは哲学のカテゴリーのうちに扱われているのではなく、歴史的・社会経済学的範疇において語られているのであり、従って、疎外された人間の姿はまさに資本主義社会の本質的問題を反映したものであるとしています(p.72)。
 次は『聖家族』。かの有名な「思弁哲学」について論じた部分(KMWS, I, 731s)を長々と引用して、そこで言われているイデオロギーとしての哲学は疎外された哲学の姿であるとしています。それは、抽象的に事物を認識するというその仕方のうちに疎外という事態が生じる様を指摘します(p.93)。さらに、『聖家族』のうちに、人間と対象の間に存する疎外された実践的関係を克服する方向性が語られているとして(p.112)、その為にこそ共産制社会、つまり生産手段の社会的保有を実現する必然性が説かれているとしています(p.113)。従って、疎外された人間をその状況から解放すること、このことのうちに自由が現実化するとマルクスは定置していることになります。
 続くは『フォイエルバッハのテーゼ』。なぜこうしたテーゼの形で書かれたのかという問題意識から著者はテキストを読んでいくのですが、理論と実践の関係を扱う箇所に疎外の問題を見て取ります(p.123)。ヘーゲル的な思弁哲学体系のうちに人間の思考が取り込まれていくその過程こそがまさに人間の疎外であると見るわけですー全くの私見ですが、これはマルクスの『学位論文』において既に展開されている問題意識だと思われますー。
 そして、『ドイツ・イデオロギー』(以下『ド・イデ』)。これは、テキスト成立上の著者問題があることで有名ですが、それを無視できない点であるとして、かなりのページをテキスト問題に割いて論じています。その上で、イデオロギー的な疎外、近代国家において抽象化された人間の姿のうちに原初的疎外を見ています(p.179)。『経哲草稿』ではブルジョア社会を持続させている事柄のうちに疎外の問題があることを見ていた一方で、『ド・イデ』は疎外が歴史的地平として現存することを論じるものであるとし、歴史的課題として疎外という問題があるのだとマルクスは語ると著者は見ています(p.184)。この次の『哲学の貧困』については、プルードンへの批判から、人間の労働が価値を作り出すことをマルクスが論じていくことで疎外の生まれる経済学的視点を発展させたとしていますが、ここでの著者の記述はあっさりしています。
 さらに議論は進んで『Grundrisse』ー欧語でタイトルを書いてるのはGで一発変換できるように単語登録していて楽という非常に個人的な理由で他意はありません、すいませんー。この著作で疎外が取り扱われていることは周知の事実ではありますので、私たちの興味関心の対象となるのは疎外がどのような射程でもって論じられているかだと思われます。著者シルヴァは『資本論』よりも『Grundrisse』の方が広範であるとして(p.205)、剰余価値論や貨幣理論といった更に経済学的に踏み込んだ問題領域に入っていることを提示します。また、労働時間の問題について概略しつつ、『Grundrisse』における疎外の問題を貨幣の問題の中で取り上げられていることに特徴があるとしています(p.215)。そしてこれが『資本論』における貨幣物神に継承されていくことになるとしているのですが、それを定式化したのが「物件Sacheの人格性化と人格Personの物件化」(p.217)であると著者は述べますーこのSacheを従来のマルクス語の物象ではなくて物件と訳すことについては、この語は、PersonとSacheを対峙させたカント倫理学との比較において鮮明にマルクスの内実を明らかにしうるのではないかと考えているためであって、次回にちょっとこの問題について考えてみたいと思っています。ただし、本当にちょっとの予定ですので期待外れになるかもしれませんがその時はすいませんー。ここで、ヘーゲルにとっては疎外とは観念の世俗化の契機であったものが、マルクスにおいては人間の現実であり、歴史的に克服されるべき課題として示されていることに特徴があると著者は論じます(p.223)。つまり、人間を抑圧して縛り上げる状態であるところの疎外を取り除くことが個人の自由の実現となるのです(p.236)。この視点はオスカー・ワイルドと共有しているものだとして筆を進めていく辺りに(p.247)、マルクスの文体論や文学的表象において功績のある著者の面目躍如たるものがあります。その上で、この個人の自由の実現のうちにこそ、マルクスが課題としているものである内容、つまり、近代社会において人間が物件化されている現実が反映されていて、その現実を克服することこそが必然なのであるという内容が見られると著者はしています(p.253)。つまり、この疎外は生産手段の私的所有という近代社会のイデオロギーが生み出した歴史的産物の結果であるとマルクスは語るのだと著者は論じているのです。ちなみに、本書での記述は『Grundrisse』についての箇所が最も興味深いと思われますが、あくまでも私個人の感想です。
 話は『政治経済学批判』に移りますが、著者シルヴァは、ここで疎外が使用価値と交換価値の弁証法のうちにおいてあらわれるものであり、下部構造に基礎づけられた上部構造を映し出すものであることを指摘します(p.286)。すなわち、土台ないしは経済学的基盤は建物ないしイデオロギーを支えるものであり、そのために経済学的カテゴリーとしての疎外は、そのイデオロギーを維持するものとして定置されているのであるから、疎外を克服することでイデオロギー的な状況を乗り越えていく足掛かりとなるということをマルクスから著者は読み取ります。
 ここで『資本論』の登場。『資本論』は厳密に経済学的問題が扱われていると著者は語り、その成立史を概略します。資本論成立史については、各々の研究者で独自の理解があるかとは思いますのでそれについてはそれぞれの御意見にお任せするとして、本書は搾取の理論の側面を重視して読み解きます(p.302)。この搾取の理論には、価値論の理解が必然であることを著者は述べ、使用価値と交換価値の問題を取り上げます。そして、交換価値の抽象に人間の労働が飲み込まれていくことで抽象的労働へと化していき、労働者の労働が商品となっていく。こうした著者シルヴァによる概略は『資本論』をそのままに読めば書いてあることを非常に端的に示してくれています。時に『資本論』を宇野理論だの分析的マルクス主義だの何だのと外皮的な理論の立場からの解釈を後生大事になさる方々がおいでですが、そうした方々の御言葉はもはや読んでいるのが目の前のマルクスのテキストなのか御自分達の頭の中にある宇野経済学の文言なのか分からなくなっていき、何と言いますか、辟易とするばかりです。しかも、その語る用語たるやいわゆる中二病っぽい造語の連発。いや、中二病はセンスある上に自分で考えているので中二病に失礼ですね。難しい言葉を御存知で偉いですなぁと言ってみたら満足しなさるんですかね。分かりもしない気色の悪い言葉を知っているんだとただただ振り撒く。こちらとしては、漢字に漢字を繋げたゲシュタルト崩壊を起こしそうな文字の羅列を見る度に「戒名かな?」と思ってしまいます。まぁ、借りてきた作り物の言葉で理解なさろうとする時点で、マルクスの生き生きとしたテキストを読み解く地平には至るわけもないので、その言葉が日本語的に意味をなしているのかをもう少し考えて頂きたいものです。それに比べて、この著者シルヴァは非常に平易で日常でも無理のない言葉使いをしています。その上で、マルクスのテキストの中に息づいている言葉を成り立たせている地平そのものを私たちに示していると言えます。
 以下、横道の注。思想家の言葉に対しては、「その言葉の意味は何か」という問いはー確かに必要ではありますがー充分な視座を開くものにはなりません。つまり、言葉を対象化して捉えるものですが、この問いの仕方では、思想家の言葉が、その意味を把握しようとする研究者によって断裁され加工されてしまいます。たいていは研究者の方が思想家よりも浅薄な知性しか持ち得ないので、結果として、この問いによって示された事柄は、愚鈍なコピー機によって印刷された劣化模写にしかなりえません。言わば、研究者自身が格闘して紡いだ言葉にすらなり得ていない、仲間内だけでしか通用しえない研究動向にどっぷり浸かっただけの学問オタクの戯言に留まってしまうのです。
 そうではなく、問いは「その言葉は何によって意味あるものとなっているのか」です。書かれた言葉のみに執着するのではなく、その言葉が産み出された位相そのものを思索するのです。従って、この問いは思想家の問題座標そのものへの模索であり、思想家のいる場に到達しようとするものです。思想家と同じように見ようとする、言ってみれば、その思想家に「倣うimitatio」ことです。マルクスの言葉を借りれば思想家は「様々に世界を解釈してきた」わけですが、その解釈は思想家が立っている地平から遂行されたものです。私たちも各々で独自の地平に立っています。だとしたら、私たちが自らの立っている地平に固着したままで、思想家がその人自身の解釈学的地平の上で紡いだ言葉それ自身へと入っていくことはできないでしょう。思想家の言葉は抽象的命題なぞではなく、その思想家の生き様全てを背負ったものなのです。確かに、思想家が立っている地平は多くの場合、思想家自身にとっては否応なしに投げ込まれたものです。だからと言って、その思想家と同じ社会的条件になれば同じ視座を獲得できるわけでもありません。マルクスが言うにはプロレタリアートは人々が苦しんでいるこの世界を変えていく担い手です。しかし、体制側のお偉いさんに追従することで満足して弱い者虐めを生業とするような卑賤な連中もいることもマルクスは暴きます。このことは、ある社会的条件がその人の在り方そのものを決定するのではないということを示します。言い換えれば、その人がどの解釈学的地平に立っているのかはその人自身の実存的決断によるのです。この事実は、もし思想家に倣うことを志向するなら、私たちに非常な難題をぶつけてきます。社会的条件を合わせればいいだけならこれ程単純な話はありません。思想家のコスプレでもしてればいいのです。しかし、そうではなく、読み手が自分の実存的決断によって解釈学的地平を獲得しなければならない、これは、日々の中でともすれば状況に流されてしまいそうになる自分自身を覚知し、その状況に抗っていかなければならないことを私たちに迫ってくるのです。そうした覚悟のないまま思想家の言葉の上っ面だけをなぞりたいのであれば、それは個人の自由が保証されている範囲で御随意にですが、その程度の態度であるから研究論文が読書感想文にしかなりえないわけで、それなら端から思想なんぞに手を出さずに研究者各位は仲間内で称賛し合っているだけの自己啓発本紛いでもお読みになっておられれば宜しい。私たちはそうした稚拙な研究者の妄言に惑わされることなく、自分の決断によって思想家の言葉を体験しなければならないのです。
 以上、注終わり。話を戻して、著者シルヴァによるマルクスのテキストそのものへと向かっていく視点が示しているものは、マルクスの格闘とは新しい経済学を志向したのではなく、現実の世界を映し出している古典派経済学の批判を行い、その批判を通して現実の問題に切り込んで行ったものなのだ、ということです(p.322)。この点について、他の論客のマルクス解釈を著者自身の見解に比較して検討しています。そして、貨幣物神の問題が主題的に論じられる中に、本書のテーゼである「疎外は使用価値から交換価値へと至る普遍的過程である」が定置されています(p.323)。そして、この貨幣物神の問題はあまりに哲学的かつ文学的に描写されているものの、それは現実の問題に切り込んでいくための手法であり、主眼は哲学にあるのではなく、商品の分析に関する経済学への批判にあるのであり、それを通した現実世界の克服にあるのだと著者は論じます(p.328)。この議論の過程で、人間の物件化が語られてることになり、『Grundrisse』からの問題の継承と発展について論じられます(p.350)。同様に、分業と疎外の問題について『資本論』の中にもその視点が存することを論じることにより、マルクスの思想的格闘全体に渡って疎外の現実とその解放のための過程が考察されていると著者は述べます(p.365)。
 最後に『剰余価値論史』について扱われて、経済学説史の中での疎外について、マルクスがどのように論じていたのかについて語られます(p.370)。このように、マルクスにおいて疎外の問題は多様な仕方で扱われて多岐に渡って論じられている、このことを覚知することこそマルクス理解において必要な視点なのだと著者は結論づけています(p.386)。
 以上、多少なりと『システムとしての疎外』について見てきました。著者は、主張は上記の要約の中で何度も繰り返されているので明白ですが、マルクスのテキストそれ自体にきちんと向き合うこと、そして自分の言葉でマルクスを理解していくこと、このことが何よりもまず求めれているということです。
 次回は、この著作に触発されて考えたことを蛇足的に書き連ねます。