sekiwataruの日記

Ph.D(filosofia)のソリロキア

【論考】初期マルクスによる阿片としての宗教ー第4回

※第4回、続きです。とりとめない文章ですいません。寒い日が続きますのでお体にはお気をつけて。諸事情により無駄な読書をしていましたが何の役にも立ちそうもなく、まぁそういうこともありますなと気分を変えて、以下でマルクスについて考えていきたいと思います。

4、幻想の幸福としての宗教

 前回の考察で明らかとなったように、マルクスの言う「宗教は民衆の阿片である」とは宗教論の位相において論じられたものではなく、人間が投げ込まれた状況、すなわち、現実を生きることの内に本来的な人間と数値化されて抽象化されていくことで形式的な人間として押し込まれている状況、そうしたものを頭の中で考えられた宗教的仕方によって解消できていると考える観念的な態度へと向いているものが宗教なのであり、それへの批判がマルクスの宗教批判であって、その意味で、人間の問題をどう捉えるかという事態に関わる批判なのです―自分で書いて何ですが、ここまで一文というのは文章構成の点から見たら最低の悪文ですね、すいません―。今回は、その続きのマルクスによる文章を見ていきたいと思います。というのも、まさに続く文において、マルクスの宗教批判が斬り込む先が示されているからです。

  民衆の"幻想の"幸福としとの宗教の止揚は、その"現実の"幸福の要求である。自分の状態についての幻想を捨て去れという要求は、"幻想を必要とする状態を捨て去れという要求"である。(KMWS, I, 489s.原文で斜体イタリックになっている単語を""で囲んであります)

 前回の箇所で、マルクスが「宗教は民衆の阿片である」と語っといたことの内実が、今回の箇所で更に鮮明にされていきます。というよりも、「民衆の阿片」という語句よりも、実際に重要な事柄はこちらで書かれています。すなわち、宗教においては宗教的な仕方によって実際の苦しみが切り取られている、その構造が政治社会において政治的な仕方で現実の痛苦が切り取られている仕方と同じであり、だから、宗教を乗り越える、その乗り越え方がまさに政治的に乗り越えていく方法となるのだ、とマルクスが言っているのです。
 そうした視点を踏まえて以下のように考えていくことも、あるいは出来るかも知れません。民衆の幻想の幸福、つまり、ありもしないはずのものをあるかのように騙ることで現実の苦痛を隠蔽してしまうことで生じる夢遊状態は、それが民衆の生活にとって必要とされるかのように組み込まれたから成立しているのであり、その組み込まれていく過程を批判することでそれを超克しうる道標を見出し得ることになります。そうした夢遊状態は、人間が投げ込まれた現実そのものから生じたのではなく、そうした現実を加工して切り取ったことから出来するのです。だとしたら、その切り取り方を乗り越えなければなりません。それが宗教の止揚Aufhebungの内実です。
 まぁどうでもいい話ですが、マルクスにせよウェーバーにせよ、以前流行したサルトルルカーチなどの哲学者にせよ、ブルトマンやバルトなどの神学者にせよ、そうした哲学書やら神学書やら社会科学書の御本をたくさんお読みになってお勉強されたと自負なさる方々は本当にお分かりになっておられるのですかね、と止揚やら何やらの訳語に出くわす度に感じます。この訳語でピンと来られる方々は『機動戦士ガンダム』で言う所の認識能力が拡大した新人類たるニュータイプなんでしょうね。したり顔で分かったふうに哲学やら経済学やらの御本を語る方々には是非とも御自分の口で語って頂きたいものです。そういう方々に限って御自分で主体的に考えるわけでも御自身の言葉で説明なさるわけでもなく、教科書的な薄っぺらい用語や聞き齧りの文献を並べるだけで知識があるかのように語られるので閉口してしまいます。だいたいたくさん御本をお読みになってもそんなこと自体にはさほど意味なんてないのです、自分の言葉でその問題に取り組んでいかない限りは。私のような凡人はこんな日本語の訳語は素直に「分かりません」と言うしかありません。と、話は横道に外れましたが、ここでマルクスの言う止揚Aufhebungは、世界史だか倫理だかの教科書にも出てくるヘーゲルさんの専門用語となっています。無論、普通のドイツ語で、単に「捨てる」という意味です。ただ、文字通りにはauf-hebenつまり上にー揚げるという語句です。従って、宗教の止揚とは、意味的には宗教を一段上の段階へと上げることを示しています。では、それがどういうことか。
 上記の引用をお読み頂ければお分かりでしょうが、マルクスは何やらややこしいヘーゲル哲学を展開しようとしているわけではありません。そうだとすれば、マルクスが批判する宗教と同じように思惟の次元に滞留することになります。そうではなく、宗教を必要と仕向けられている現状、言わば、宗教を必要としなければならないほどに疲弊しきっている現実をこそ、変革しなければならないとされているのです。約言すれば、マルクスの宗教批判は宗教の良し悪しを論じるものでもなければ宗教の哲学的解釈を展開するものでもありません。人間が投げ込まれている現実とどう格闘していくかという視点で語られる人間の生き様の問題なのです。
 ここで若いマルクスについての解釈問題を少し。いや別にここで語らなくてもいいのですがたまたま思いついたもので。ルカーチさんのように近代合理主義の延長として唯物論史観を捉えてそれの展開がマルクスにおいてどうのこうのという立場からでは、マルクスのこの問題を読み違えていきます(vgl., Lukacs,G., Zur philosophischen Entwicklung des jungen Marx, "Deutsche Zeitschrift fuer Philosophie", 1954, 288-343ss.)。というのも、問いの源泉は「思想」の側にあるのではなく、それについて考えている「主体」の側にあります。従って、この言説は何思想かなんぞと読んで行っても、考えられている事柄そのものを志向しているのではなくて読み手の持っている知識を相手に当てはめている作業に過ぎないために、事態の理解からは離れていくばかりです。立場的に、ルカーチさんの読みの対極、つまりヨーロッパ思想の中に埋め込んでマルクスを理解する読みの対極にあるのが、この時期のマルクスを初期マルクスと断じてフォイエルバッハ主義として読み解く、それにより、初期と後期を分断し、後期マルクスを独自の革新的見解と見なすものです。Paul,J-M.さん曰く、宗教は民衆の阿片であるというマルクスの言葉を「フォイエルバッハシュトラウスの疎外に関する問題座標と全く同様のもの」としつつ「フォイエルバッハへの賛辞と反発の中で」宗教批判をマルクスは志向していたそうです(Paul,J-M., "Dieu est mort en Allemagne", Payot & Rivages, 1994, 188p.)。この解釈はエンゲルスさんを権威として担ぎ出していますが、まぁエンゲルスさんに従ってマルクスを読むという立場は強烈な解釈的傾向の主張でもあり、問題はその解釈的傾向からマルクスを読むとは一体何を意味するのかということですが、それはさておき。確かに、マルクスフォイエルバッハから影響を受けたこと自体は間違いないですし、フォイエルバッハの言い回しとマルクスは似ています。しかし、似てはいても内実は似て非なるものです。

  宗教に対する自己意識的な理性の関係においては、たんにその幻想を無に帰すことだけが扱われる。(Feuerbach,L., "Das Wesen des Christentums", Reclam, 2011, 406s.)

 宗教を幻想という語で解するのは方向性は同じとはいえ、問題はフォイエルバッハの場合、理性の次元で語られることにあります。従って、人間が投げ込まれている現実そのものへの問いではなく、人間が事態を把握するその仕方、ありていに言えば物の見方の議論になっています。

  そして、我々はただ宗教的関係を引っくり返す、そのことのみを要する。つまり、宗教が手段と定置すること、それを絶えず目的となすこと…(ibid.)

 等々と続くわけですが、このフォイエルバッハの言説は明らかに人間の理解による把握の仕方に関わっています。その意味で、Warnier, Ph., "Marx pour un chrétien", Mame-Fayard,1977の第3章で論じられているように、マルクスの宗教批判はフォイエルバッハとは違う観点からなされているという指摘は正しいですーというよりもWarnierさんの指摘が正しいのはここまでで後はただの護教論ですー。つまり、フォイエルバッハの批判は、宗教を人間の自己意識の次元において遂行されています。それに対して、マルクスは宗教を現実の問題を映し出す鏡であるとして、宗教を乗り越えていくその仕方こそが現実を変革するための手がかりになると説いているのです。
 こうした問題についてマルクスは次のように続けます。

  宗教の批判は、宗教の後光である涙の谷の批判の萌芽でもある。(KMWS, I, 488s.)

 ここで言われる涙の谷とは現世のことを示すキリスト教的な比喩ですが、非常に明確にマルクスの宗教批判の方向性が示されています。宗教は自らが加工して切り取った現実を自らの観念の中で解消していきます。しかし、現実の方では何も変化はありません。むしろ、変化へと向かうことを断念させられ、ねじ曲げられて語られる世界こそが真理であると誘導させられていきます。しかし、それは単に宗教を宗教論として捉える際に確認される事態ではなく、現実の世界を支配する構造がまさに宗教と同じ論理に基づいているのです。人間の生きる現実を剥奪して加工された世界へと投げ込む。これが、もはや宗教を必要としなくなった民主主義国家の実態なのです。現実の人間は平等でもなければ自由でもありません。それに対して、理念としての民主主義においては人間は同じ人権の名のもとに平等で自由なのです。そうした理念の追求こそが人間の実現であるかのように示していきます。しかし、貧困や過重労働、差別やいじめといった現実の問題は、そうした理念をいくら振りかざした所で変わりません。より具体的に言えば、どういう理念を持った政治団体が指導的立場になろうとも、それだけでは現実の諸問題は相変わらず残留したままなのです。にもかかわらず、主導団体が交代すれば諸問題は解消されるように語るならば、それは宗教と同じであり、民衆の阿片です。
 宗教では祈れば「神」が聞き届けてくれて世界を変えてくれることになっています。世俗化した民主主義国家では、運動によって反対の声を多く上げれば「民意」がそれに触発されて変化へと動くことになっています。まさに、単に理念を振りかざす民主主義国家は神を民意にすげ替えたことによって成り立っているのです。従って、マルクスの宗教批判は、近代批判ともなる広い射程範囲を持った議論なのです。
 次回は、そろそろ一旦この「宗教は民衆の阿片である」という議論にケリをつけたいと思っています。そのために、マルクスの考えはどういう視座を持つのかを幾人かの思想家と比較しながら考えてみたいと思います。

(次回に続く)