sekiwataruの日記

Ph.D(filosofia)のソリロキア

無神論者の読む『聖書』ー『ルカ福音書』2:14「地に平和」【前編】

 予め個人的立場を明確にしておくなら、"神"という概念は人間が考え出した観念に過ぎぬと見なすものです。何らかの経験的表象から抽出されたのではなく、単に"完全なる存在"という概念を通俗化したものです。だから、人の口に上る"神"とは、それを語る人間の想念の言表でしかないのであり、その現実存在性に裏打ちされたものではないのです。しかし、だからこそ、そうした"神"についての言明は人間の欲求、願望、思慕などの情念の映し鏡となっているのであって、"神"をつぶさに見ていくことによって、人間の欲望の体系を反省的に思索しうることになるのです。従って、ナザレという町に産まれた大工の息子であるイエスという歴史上類いまれなる人間に纏わる言説、とりわけ彼から歴史上の人間であることを奪い去り、超越的な救世主という茨の冠をかぶせて、自分たちの欲情の十字架に張り付けにしながら大衆を支配せんとしたキリスト教と名乗る集団の所業という、歴史の中の一つの情念の具体化過程から人間の欲望の体系を見る為の視座が開かれることになるのです。
 と、仰々しい物言いをしましたが、個人的な意図としては、古代の人が書き残したものである『新約聖書』と呼ばれる一群の文献を、上述した立場から読んでいこうという只の読書メモのようなものを少しずつ進めたいと思い立ったわけです。なお、『新約聖書』に関しましてはNestle-Aland, Deutsche Bibelgesellschaft Stuttgard, 26 Auflage, 7.revidierter Druck, 1983を用いていますが、理由は学生時代に古本屋さんで購入して手に馴染んでいるという個人的なものであって、とりたてて文献学的意味はありません。
 さて、今回は『ルカ福音書』2:14。季節的にはXmasの話なので時期外れの感はありますがそれはそれで。原文を日本語に置き換えるー翻訳ではなくーとこんな感じ。
  栄光が 至高なる所にて 神に
  そして 地の上に 平和が
  人々に 喜ばしき
 この最高の部分、前置詞en+人々となっていて、その人々の形容詞としてeudokiaが係っています。ネストレの註ではこの語をラテン語訳した際にbona voluntasという変ちくりんな訳語を当てたそうです。そのせいで、今でもローマに本店を置くキリスト教の一派に過ぎない組織の日本支店が主催する儀式の最中で「善意の人々」となっているそうですがーこちらは知人からの情報ー、このeudokiaにそんな意味はありませんし、そんな用例もありません。あるいは、これを「み心にかなう人々」と記してあるのもあるようですが、どこから「心」やら「かなう」やらが出てきたのかさっぱり分かりません。こういうのは創作であって翻訳とは言いません。しかし、ここでこれらの奇妙奇天烈な訳で人々の思考を誘導したことはかなり悪どい問題を引き起こすことになるので、それについては後述していきます。このeudokiaは人名や作品名にも用いられる頻繁に目にする単語で、その元たる動詞にしても善いものと思う、まさに喜ぶということなのですが、その形容詞になります。ただ、私たちの箇所では誰が喜ぶのかという点が分かりにくい。こうなると昔は困ったものですが、最近は便利になりました。ネットで検索すると、用例やら何やらが出てきます。この『ルカ福音書』が書かれた文化圏ではこの語一つで神が喜ぶところのという意味内容で用いられているようですので、それに鑑みれば、私たちの箇所でも、神が喜ぶそういう存在であるところの人間、あるいは人間とは神が喜びのうちに創造したものである、そういう人間の内実を示す語として用いられていることが分かります。つまり、人間とは神が喜ぶ或いは神によって善しとされた存在であるという宣言がここに刻まれているのであり、従って、ここでの「人々」とは『ルカ福音書』12:10での「全ての民に」という言葉と呼応しています。つまり、地に平和と言われてる時に願われているのは"全ての"人間に向かってであり、あれやこれやの偶有的状況によって左右される事柄ではなく、人が人として在るその現実全てを包み込むようにして言われているのです。なお、12:10の民laosという言葉、『旧約聖書』では定冠詞を伴ってイスラエルの民を示す語であるのでーこの辺りもネットで検索すると用例が出てきますー、ここでもイスラエルをそして新しいイスラエルである教会を示すとか何とかと矮小化したがる連中もいるようですが、『ルカ福音書』での用例を調べてみれば明らかですので、福音書著者は特に限定して用いる場合を除いて一般的に「人々」を示す語として使っています。すなわち、私たちの箇所で言われているのは、好き嫌い、敵味方、"隣人"、"異端"etcといった物差しによって区分される以前の生の人間それ自体が平和の基体となる、そういうことです。どこぞの国旗に接吻することが平和への祈念だと愚かにも考える知性とはまさに雲泥の差があります。
 因みに、ネストレの註を読みますと面白い話が。この形容詞として人々を修飾する語として用いられているeudokiaを主格として記して、
  栄光が 至高なる所で 神に
  そして 地の上に 平和が
  (そして) 人々に 喜びが
 というように3行詩にしている写本があるようで。これはビザンチン系列の写本に見られるそうですので、おそらく、ここに三位一体の"神秘"でも見たのでしょうね。気持ちは分からなくもないのですが、というのも、これは「救い主たるキリスト」の有難い降誕の場面を描いているように見えるので。そこで神聖なる教義を見出だすなんぞというのは如何にも机の上で文字をこね回すだけで"神theoー語りlogia"に着手なさる神学者様のお気に召しそうではありませんか。これについてこんなふうに説教できそうです、つまり、「御父は天に栄光をもたらし、次いで御子は地に平和をもたらし、それによって聖霊が人々に喜びをもたらすのです」とか何とか。つまり、東方教父であれば父→子→聖霊の位階秩序に従って成り立つと説くことになります。あるいは、西方教父であれば、栄光即平和即歓喜と同時性を強調することになるでしょう。素人の浅知恵レベルでも予想がつくような内容を勿体ぶって語るのが神学者という御職業ですので、ミーニュでも調べたら出てきそうですがそれはそれとして。この写本の読みの面白さは、地の平和という事態を人々にもたらされる喜びが示すものであるとしていることです。つまり、人々が喜ぶことが平和の理拠なのであり、"平和"だの"民主主義"だの"憲法"だのの自分たちの頭で都合良く組み換えた"観念"を人々に強要してその遂行の為に自分たちは食事一つ減らすでもなくただ人々に苦痛や我慢を強いる組織風土というものはまさに平和に反目するものであり、平和を根底から破壊する思想なのだということです。自称リベラルの説く"平和"の欺瞞を暴露する上で非常に有益な示唆に富んでいる写本の読みと言えます。
 で、話を戻して先ほどの「喜ばしきものたる人々」の解釈問題に移りましょう。これをbona voluntasと訳すことで、平和がもたらされる人々の範囲を「善意のある」に条件づけようとする妄言が今でもキリスト教界隈にこびりついているようです。ラテン語の善意の人々をそのまま継承せずとも形や姿を変えて、結局は信者のみが平和に値するという吝嗇くさい話に陥れているわけです。これは非常に悪どい仕方での曲解です。せっかくこの賛歌の作者は神が自らの喜びとした全ての人間という意味を踏みにじって身内だけに制限するという鼻持ちならぬ選民意識で塗りつぶしてしまったのですから。まさにこうした点をこそ、キリスト教批判とか言いたがる面々は叩くべきです。キリスト教批判が可能であるのは、それは徹底的に彼らの"聖典"たる聖書なるものを原典と原意に照らし合わせて読んでいくことに依拠するのであり、そうした営みを通してのみ通俗的教会教説と聖書との差を暴露していくことが出来るのです。つまり、ギリシャ語で聖書を読むこと以外にキリスト教批判はあり得ません。にもかかわらず、日本語で書かれた/訳されたあるいはせいぜいのところ英語で書かれた/訳された書物の文字面をなぞっただけでキリスト教批判がおできになるという知性をお持ちの御仁は、せいぜいその程度の批判精神しか持ちえていないのであり、そうした御仁におできになるのは他人様の論文を無断借用なさる教授様や口では十字架だの何だのと言いながら結局は権威に追従なさることしかおできにならぬ神学者様の言葉を称賛なさること位でしょうから、そうした御仁の説く"批判"ー思想であれ政治であれ作品であれーなんぞに構っている暇なぞ私たちは持ちあわせていないのです。まぁ、たくさん御本をお読みになって難しい漢字や英単語のお勉強なされてよろしおすなぁという感じです。
 話が横に逸れましたが、問題はこうした悪どい曲解、すなわち開かれた言説を閉鎖的で独善的意味にすげ替えることを可能にする構造は一体何なのかということです。この問題は、以前にこのブログで書いたヤハマン著『カントの生涯』の邦訳書レビューで言及しましたが、カント『永遠平和のために』に書かれている「いっさいの敵意がなくなること」としての平和を、いっさいの敵意をなくすために敵意を持って自分たちーそこでは西欧諸国ーに現れる相手ー要は西欧以外の国ーを殲滅することを条件として、それが遂行されることが平和の為に必要とされると宣っていた英国人の言説と類似しています。政治家や神学者の語る言葉、平和でも愛でもそうですが耳に心地よく響く言葉こそ、実はその裏に対峙する誰かの排除を直ちに含んでいるのです。すなわち、ハンバーガーを友好国の代表が訪問した際に提供する国で唱えられている"自由"だの"民主主義"だのといったものが自分とその仲間内にしか当てはまらずに、そこから一歩でもはみ出すや否や民主主義を脅かす排除すべき脅威と呼ばれるのと同じように。その意味で私たちの箇所についての愚劣な曲解は、昔々の宗教談義なぞではなく、まさに今の私たちが直面している問題なのですーそれをアクチュアルと言うって?そういう中途半端なカタカナ文字は不要ですー。
 ここで考えるべきは、平和というその語を用いて行われている敵味方の分断です。物事を分節して捉えていく知の動きは古今東西を問わずに人間の心性にこびりついています。その中で、かの分断する思考が頭をもたげてくる状況はある程度の類似性があるように思われます。例えば、私たちの箇所を信者と非信者とに分断する或いは善意の人々と悪意の人々とにーその語の意味規定を問わずにー分断する解釈は既に古代において成立しています。その特徴的な歴史状況とは、原始キリスト教の正統異端問題です。出来上がったばかりの教団を一つのイデオロギーの元に纏め上げる、この作業は教団内部での外部からの攻撃に対してどの考えに従うべきかという憂慮から出来しています。つまり、内的な不安状況がこうした2分法を成立させるのです。カントの『永遠平和のために』について敵国殲滅を前提として読んだその時代状況も、第一次大戦以前の各国による軍事同盟乱立期であり、軍備増強による民衆の日常生活の圧迫とそれに由来する不安の時代でした。この類比として考えられることは、今まさに敵か味方かと分断を叫ぶ声の背景には、私たち自身が痛感しているところの不安があり、その不安を上手く利用して大衆を煽動することで分断の言説が強固なものとして現状に根をはっているのです。 (続く)