sekiwataruの日記

Ph.D(filosofia)のソリロキア

【翻訳】マルクス「学位論文」より補遺・注9、1841年。

 以下は、マルクスの学位論文『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異』より「補遺」の原注の(9)の訳出です。邦訳も既にありますー以下で挙げていますーが、これからブログ記事にしようと思っている「神の現存在についての存在論的証明」をマルクスの記述を足掛かりに批判的に読む作業の資料として用いる際に訳語を統一する目的で訳出しました。底本は、Karl Marx Friedrich Engels Gesamtausgabe, Erste Abteilumg, Werke・Artikel・Entwuerfe, Band 1, hrsg. von Institut fuer Marxismus-Lenismus, Dietz Verlag Berlin, 1975, 89-91ss.より。邦訳は大月書店版『マルクス=エンゲルス全集』40巻に所収されているもの(入手困難のために未読です、すいません)と、『マルクス・コレクションI』筑摩書房、2005年に中山元訳が所収されていて、光文社古典新訳文庫ユダヤ人問題に寄せて他』に今回訳出した部分が再録されていますが未読のため筑摩書房版と同一かは不明です、ごめんなさい。訳出の際に参考にした翻訳は、Marx,K.,"Diferencia de la filosofia de la naturaleza en Democrito y en Epicuro y otros escrito ", trad., pres. y notas de Candel M., Biblioteca nueva, 2012です。序文と参考文献が有用です。他にもFusaro, D.による伊訳も見ましたが、イタリア語はあまり得意でないので読んだ程度です。こちらも序文と注ならびに参考文献が相当程度で訳者の方の思い込みが入ってはいますが有用です。仏訳や英訳もありますが、今回は参考にしていません。あと、原文でイタリック斜体になっているところは""で囲ってあります。

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注9)「しかし、"弱い"理性はいかなる客観的な神をも認識しないことではなく、むしろそれを認識することを"意志する"ことである」シェリング、「独断主義と批判主義についての哲学的書簡」『哲学的著作』第一巻、ランズフリート127頁。書簡2。シェリング氏には、そもそも彼の最初の著作を思い出すようにと助言すべきであろう。例えば、哲学の原理としての自我について著作の中で以下のように言われているからだ。「例えば"神"、それが対象として定立されている限りでは我々の知の実在的な根拠であるということを仮定するならば、そうであれば、神が対象である限り、神は確かに"それ自身"我々の知の"領域"に落ち入って来るのであり、だからして、我々にとって、これらの全ての領域が固着しているところの究極点にはなりえない」前掲書5頁。我々はシェリング氏に最後に上で引用した書簡の結語を思い出すようにさせようとしている。「"今やその時である"、すなわち、より良い人類に"精神の自由"を告知すべき時であり、そしてもはや、"その鎖の喪失を嘆くのを容認すべきではない"」129頁、前掲書。1795年が既にその時であったならば、1841年においてはどうなのだろうか?
 ここで、この機会に、殆ど悪評高いものとなったテーマ、つまり"神の現存在についての証明"について言及するとすれば、"ヘーゲル"はこの神学的証明を全くもって逆転したのだ。つまり、弁明するためにそれを棄却したのだ。訴訟依頼人にとって、弁護士自らが訴訟依頼人を死なせること以外に有罪を取り下げることができないというのは、いったい何事であらねばならないのだろうか。ヘーゲルは以下のように解釈する。例えば、世界から神への推論を「偶然的な事柄は存在し"ない"のだから、神あるいは絶対者は存在する」という形で、である。しかしながら、神学的証明は逆向きに語っている。「偶然的な事柄は真の存在を持つがゆえに、神は存在する。」神は偶然的な世界にとっての保証である。これによって逆のこともまた確言されるのは自明の理である。
 神の現存在についての証明は、"中身のない同語反復"以外のなにものでもない。例えば、存在論的証明は、「私が、私に対して実在的に表象するものは、私にとって実在的な表象である」ということ以外には語っておらず、これが私にとって実効を持つのであり、そしてこの意味において、多神教の神々であれキリスト教の神であれ"全ての神々"は実在的な実存を保有していた。古代のモロクは支配したことがなかったか?デルフォイのアポロはギリシャの生活において実在的な力ではなかったのか?ここでは、カントの批判も意味がない。自らに対して100ターレルを保有しているということを表象するならば、そしてこの表象が気ままな主観的なものでないならば、彼がその表象を信じるならば、彼にとって構想上の100ターレルは実在的な100ターレルと同じ価値がある。例えば、自分の構想力のとががなしたとみなすだろう、その構想は"全ての人類が彼らの神々のとがによるとみなしたのと同じように""実効を持つ"だろう。逆なのである。カントの例は存在論的証明を強めることもできたかもしれない。実在的な100ターレルは構想上の神々と同じ実存を持つ。実在的な100ターレルは、人間の一般的な表象であれむしろ共同的な表象であったとしても、表象におけるそれとは別のところで実存を持つだろうか。人々が紙幣の使用を知らない或る土地に紙幣を持って行け。そうすれば、君の主観的な表象を皆が笑うだろう。君の神と共に他の神々が通用している土地に行け。そうすれば、人は君が構想と抽象で苦しんでいることを君に証明するだろう。それは正しい。ヴェント族の神を古代ギリシャに持っていったとすれば、この神の非存在証明を見出だすだろう。というのも、ギリシャ人にとってそれは存在しなかったためであるからである。"ある特定の地が他所からの特定の神々に対する対峙は、理性の地が神々一般に対するものであり、そこは神の実存が止む場所である。"
 あるいは、神の現存在についての証明は"本質的な人間の自己認識の現存在についての証明"以外のものではなく、それの"論理的な説明"以外のなにものでもない。例えば、存在論的証明である。思惟されることのゆえに、どのような存在が直接的なのか?自己認識である。
 この意味において、全ての神の現存在についての証明は、その"非存在"の証明であって、神というものについての全ての表象の"反駁"なのだ。実在的な証明は、逆に以下のように奏でられねばならぬ。
「自然は悪く整備されている。ゆえに神は在る。」
「非理性的な世界がある。ゆえに、神は在る。」
「思惟は在らぬ、ゆえに、神は在る。」しかし、"これは、世界が非理性的であってそのために自分自身も非理性的であるという人にとっては神は存在するということ以外に、何を言っているのか?あるいは、非理性が神の現存在なのだ。"
「もし"客観的な神"の"理念"を前提とするならば、"自己自身について理性"がもたらす"法則"について、"自律"は"絶対的で自由なる本質"のみに到来しうるのだから、どのように語り得るか。」シェリング、前掲書、198頁。
「あまねく伝えられる原則を隠すことは人間性への罪である。」同書、199頁。

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寸評)学位論文のタイトルからしても、この時期のマルクスが若きヘーゲルを意識していることは明らかですが、それと同時に、この頃にヘーゲル宗教哲学』が出版されて、この訳出部分からだけでもマルクスがそれを読んだか見たかしたのもーどの程度読み込んだかという問題はともかくー明白です。詳しい話は追々書いていくとして、この文章から同時の哲学を志す若人たちの息吹きを感じ取ることができます。内容は勿論のこと、そうした哲学の雰囲気を味わうことも出来るので、この訳出部分のみならず、この著作全体を是非ともお読み頂きたいと思っています。学位論文本体には古典ギリシャ語が唐突に引用されており、そこから、マルクスが『資本論』でも引用しているアリストテレスをはじめとするギリシャ思想に敬意を持っていることも分かります。従って、マルクスという人が、歴史を自らの問題意識の中心に据えていることが見えてきます。