sekiwataruの日記

Ph.D(filosofia)のソリロキア

【論考】若きマルクスと「存在論的証明」批判ー予備的考察ーアンセルムスの場合・第1回

 若きマルクスの宗教批判を考えるついでに、彼が取り上げた神の存在証明の歴史をしばらく見て行こうと思います。神を信じない者にとっては、一見すると神の存在証明なぞはナンセンスでしかないように思われますが、むしろ逆です。神の存在証明は、西洋的な知の根幹を担った議論の一つです。多くの西洋的な理念、つまり、学知scientiaないし科学scienceや正義や真理といったものは、神にまつわる議論の周辺や延長から出ています。俗に謳われるように宗教とは豊かな心や感謝の気持ちを育てるものだなんぞという情感に関わる問題ではなく、冷徹で徹底的に先鋭化された知の表象であり理念の原型なのです。だから、宗教の議論は人間が社会を構想するための諸理念を映し出す鏡であり、その意味で、人間が社会を作る上で見え隠れする他者を支配して抑圧しようとする欲望を反映しているものでもあります。従って、宗教を成り立たせている議論を分析してそこからの脱却を批判的に考察することは、現代社会の諸問題を成り立たせている構造から脱却していくための糸口となるわけです。そうした視点で神の存在証明について読むことは、単なる宗教批判の枠組みを越え、世界の抑圧の構造を転換して変革しようとする実践の足掛かりになる。この問題意識のもとで神の存在証明を見ていきたいと思っています。
 ちなみに、以下で論じている事柄について、私は素人です。つまり、これからやる作業が本来的な意味での素人レベルです。たくさん御本をお読みになって御自身はたくさんの知識をお持ちになっていると勘違いなさっている御仁ー専門を自称なさる学者の方々も含めてーは、最低限、私のような素人レベルは保たれた上で、御自分に驕らたらよいかと。まぁ、以下で取り上げる歴史に名を残した人々の言葉を本気でお読みになっても居丈高にお振る舞いになられるのなら、それはそれで羨ましくもありますが。

1、アンセルムスの場合『プロスロギオン』より

 神の存在証明についての書籍を紐解けば必ず最初に名前が出てくるのが、カンタベリーのアンセルムスです。70年代ロックに興味のある方ならお馴染みの地名ですが、彼は北イタリアのアオスタに生まれ、色々あってカンタベリーで司教になった経歴を持っています。彼自身について語るつもりはないので、その辺は岩波文庫版の『プロスロギオン』に掲載されている記事をご参照頂くとして、彼の議論を見ていきます。
 アンセルムスは、『プロスロギオン』という著作の第2章で神への祈りのような短い文言の後に以下のように語ります。

  まさに、我々は信じる、より大きいものをなにものも考えることができることのない何か、で汝があることを。("Proslogion", II.)

 なにぶん、素人なもので引用符の付け方がいい加減なのは、ご寛容のほどを。底本は、Schmitt, F.S., "Sancti Anselmi Cantuariensis Archiepiscopi, Opera Omnia", vol.I. Roma, pp93-139より。日本語訳には、岩波文庫版など幾つかあるようですが、岩波文庫版しか参照していません。訳出は、かなり偏った直訳です。そのため、この手の神学談義の日本語訳にありがちなへんてこ敬語趣味は一切排除しています、悪しからず。
 注的な話はさておいて、このようにアンセルムスは神を規定します。この規定の仕方について、英米分析哲学者たちはかなりの関心を寄せていて、そのうちの幾つかをタイトルのみご紹介。Malcom,N., Anselm's ontological argument, "The philosophical review", 1960, 41-62pp, Adams, R. M., The logical structure of Anselm's arguments, "The philosophical review", 1971, 28-54pp, Lewis, D., Anselm and Actuality, "Nous", 175-188pp., Hortshorne, Ch., "Anselm's Discovery", LaSalle, 1965, Plantinga, A., "God, Freedom, and Evil", George Allen & Unwin, 1974など、枚挙に暇がありません。この中で『神と自由と悪と』は勁草書房から日本語訳が出ているそうですのでーすいません、邦訳未読ですー、こうした哲学的傾向にご興味のある方はご一読を。因みに、分析哲学のちょっと専門的コースに入ると上記の文献は読まさせられます。
 さて、上記のアンセルムスの規定、彼が聖書や伝統に依らないでただ理性によって導出したものであるという話をたまに耳にしますが、聖書は知りませんけれど伝統に依らない完全オリジナルというのは、逆にアンセルムスさんに失礼じゃありませんかね。彼はそこら辺の自称専門家さんーその実は専門分野がどのような拡がりを持つのかも余りよく分かっていないただの勉強オタクーとは違って、豊かな古典教養をお持ちの方です。従って、この神についての規定もまさに古典伝統の中から出てきたものです。一応、指摘しておきますと、キケロ「より優れることがありえない何か」"De natura deorum", II, 16、「神の内にさえそれより大きいものを何であれ考えることがでいないもの」"Tusculanae", I, 26,65、セネカ「それよりも大きいものをなにものも考えることができない…偉大さ」"Naturales questiones", I, praef, テリトリアヌス「何らかのより崇高なる神がいること」"Apologetics", XI, 2、アウグスティヌス「より良くより崇高なものはないであろうところのもの」"De doctrina christiana", I, 7、「万物の最高善、よりよいものが在ることも考えることもできず…」"De morbis Manichaeorum", II, 11, 24、ボエティウス「より良いものは何も存在しない」De consolatione philosophiae, III, pr.10など素人調べでもこの位は出てくるので真剣にやれば他にもあるかとは思います。なお、アンセルムスにとって直近の人で言えば彼の師匠にあたるランフランクス「全ての諸物より比べものにならないほどに大きなもの」"Liber de corpore et sanguine Domini", I, in Patologia Latina 150, 409と言っています。話はずれますが、この位のことは、中世哲学に素人であってもちょっと古典書を読み解けばすぐに気づきます。素人でも出来るわけです。上記の原文は、ミーニュ教父業書を含めて殆どネットで確認できます。だから、このレベルが素人の最低限度です。自称専門家の方々でこのレベルを知らないとなると絶望的ですよ。まぁ、そんな方はいないとは思いますが。そうした方々も含めて、自分は知識があるのだと傲語なさる方が本をたくさんお読みになった程度で思想や哲学をお勉強なさったと勘違いなさっておられるのなら、少なくとも原典を原文で精査した上で思い上がって頂きたいものです。余計な忠告ですが、たまたまレポートのネタ探しで検索してここを見てしまった学生さん、教授様が「聖なるアンセルムス様は独自の思索により神のことをお考えになられたのです」と仰っておられた場合、「いや違いますね、いくつも先人はいますよ」とここで示した事例を挙げないほうが無難ですよ。教授様という種族は、自分が間違っていても認めず、事実を突きつけた学生について恥をかかせた生意気な愚民と平気で嘯く連中ですから。わざわざ教える必要はありません。「教えてくれてありがとうね」という教官にはついぞ出会えませんので、正直に言うと苦労しますよ。経験者は語る、というやつです。本来ならこれを叩かないことには自由な学問なぞありえません。まぁ、そこを少しずつ変えていくことなしにただ組織の任命問題のみをあげつらう「学問の自由」なぞ政治オタクの方々の空語でしかありませんが。
 話を元に戻して、アンセルムスの議論に目を向けて疑問になるのが、ここで彼は神をどこに力点をおいて規定したのかということです。「何か」なのか、そうすれば彼の規定はその本質に関わることになります。「考えること」なのか、そうすれば彼の規定は人間の思惟と関係づけられます。「できる」なのか、そうすれば彼の規定は人間の能力との関わりの中で語られていることになります。「ない」なのか、そうすれば人間には扱いことのできない領域が主眼となるのです。これは素人目線での指摘でしかないのですが、本気で一つ一つ考えていくとそれぞれで大きな問題となります。つまり、アンセルムスの神の規定は視点を盛り込みすぎなのです。だから、私はあえて定義とは呼びませんでした。定義にしては曖昧すぎます。オッカムさんの剃刀が擦りきれてしまいそうな感じです。ごちゃごちゃし過ぎて私のような素人は手に余る気がして避けてしまいますが、現代の分析哲学者たちにとっては料理してみたい食材として目に映るようです。
 しかし、上記の定義にまつわる論点はアンセルムスさんより後の約千年間に渡る哲学的議論に毒されているせいであって、厳密に語を規定することから彼の議論を読み解くとかえって彼の意図から外れてしまわないかという懸念はあります。ただ、少なくとも言えるのは、アンセルムスの意識としては、かの文が一人称複数で成立していることからすれば、人間にとって共通する地平から語りだそうとしていたということです。私たちの共通の能力、しかし、そうしたものでは捉えきれない位相、それが神として理解されていることの内実なのです。私たちのロゴスつまり理性/言葉で扱いきれない事態、私たちの次元に存在する事柄ではないもの、そうした人間の側の否定という仕方でのみ言表されるものとして示されています。
 これは私の論述が下手くそなので、一見するとアンセルムスによる神の語りとは人間全体を否定して無下にすることのようですがーたまにこういうことを仰る俗流唯物論者の方々もおられますがー、そうではなくて、人間のある種の作用のみの否定に関わっています。それは、考えることであり、抽象化の作用です。この問題は、読みようによっては非常に革新的です。これを語っているのがカトリックの聖人様であるがゆえに許されているようなものですが、字義通りに神を人間のロゴスつまり理性/言葉で扱いきれない事態と解するならば、それは全ての神にまつわる言説の否定、神ー語りへの反抗、神学の抛擲になってしまうからです。神を教理の中に押し込み、教条化して強制する、これら全て人間の活動への否認です。まぁ神学者の皆様は神を語ることは神から特別に恩恵を受けて語っているのだ、我らは神の代理人であるから人間の思いを越えているだの何だのと傲り高ぶった言い方をなさりますが、そんなことを信じて有り難がるのは、神学者の皆様が主宰するゲームに参加されている向きだけであって、そこから一歩離れてしまえばそんな思い上がった御託宣なぞ何の意味もありません。アンセルムスの言葉を本気でそれ自体として受け取るのであれば、まさに神を抽象化して語り得ぬものを語り得るかのように騙る、そうした言葉による神の形骸化全ての活動を批判していかなければならないでしょう。しかし、知られている限りにおいてアンセルムスさんの議論をそうした方向で読み解く人物は、それ以降の中世においては存在せず、教会の支配体制の中で上手く飼い慣らされていくわけです。
 ここから後、「それより大きいものを何も考えることができない何か」という神の規定のみが一人歩きして、アンセルムスによる神の存在証明であると語られることになります。しかし、彼の本意はそこにあるのか私個人は未だに疑問です。というのも、上記の引用だけを見たとしても、宗教的な考察から抜け落ちている文言があるからです。すなわち、「我々は信じる」と「汝は~である」という言葉です。この2つは、言ってみれば、前者は「信じる」という人間の主体的行為の事態であり、後者は「我ー汝」という他の何物にも還元不可能な個的関係性を示します。この2つが後世の宗教的議論では剥ぎ取られ、徹底化された抽象的問題として提示されているのです。
 実際、アンセルムスの議論はまだまだ続いていきます。全部で26章あります。その著作の2章の記述だけ抽出されてこれが彼の議論の内実ですと言われてもアンセルムスさんも困るでしょう。『機動戦士ガンダムOOセカンドシーズン』が全25話ですが、その2話目と言えばダブルオーガンダムが起動した話でそこから物語が動くことになります。そこだけを取り上げてそれが『機動戦士ガンダムOO』の話ですという人はいません。このことからも、学者の都合で抽出したこのアンセルムスの神の規定を彼の議論の本懐としてしまうのは余りに恣意的すぎではないかと思うわけです。
 話が多少脇道に逸れますが、アンセルムスは第15章において神の規定を一歩進めていきます。

  故に、主よ、汝はより大きいものを考えることができないものであるのみならず、むしろ、考えることができるよりもより大きいもの、である。("Proslogion", XV)

 この時、アンセルムスは一人称複数すらも捨て、端的に「汝は~である」として呼び掛けます。この呼び掛けの形式は、キリスト教伝統の中では信仰告白のレトリックです。『マタイ福音書』16章16節でのペテロの信仰告白と言われる場面での呼び掛けがそれにあたります。ここでペテロが「汝はキリストである」と呼び掛けることでキリストより使命を受け、さらにそのキリストを「汝は~である」と呼ばわることをキリストとの関係の中での秘密にするように語られていると言われる場面です。パゾリーニ監督作品の『マタイ福音書』(放題は『奇跡の丘』ですがこのタイトルもう少し何とかならなかったんでしょうかね)でも描かれています。そうした個的な関係性のうちにのみ語られる、それがまさにアンセルムスの神の規定なのです。因みに、一応指摘しなければならないのは、決して福音書著者自身はそんな「我ー汝」なぞ考えていたわけではありません。はっきり言えば、ここで語られるのは教会権力の正統性についてです。教会の権威はキリストから与えられたものであり、それは秘義とされるために、教会の権威に従わなければ預かることは許されない。しかも、これは単に聖人伝説の与太話や儀式への参加資格の話ではなく、人間の永遠の救済の問題であり、従って、それに預かることができなければ永遠に苦しむことになるという無茶苦茶な支配と抑圧の問題なのです。福音書著者自身はせいぜい自分たちの周りの教団レベルでしか考えていなかったのではないかとは記述から読み取れますが、後にこのペテロの信仰告白教皇権の使徒的継承とその不可謬性が確立されるに至り、抜き差しならぬ権力の顕現とされていきます。そのため、ペテロの話を「我ー汝」問題として語るのにはおぞまし過ぎるほどの生権力の問題が付きまとうことにはなります。
 とりあえず福音書の話はここまでにして、アンセルムスに戻ると、さらに注目すべきは、ここでは2章での神の規定が否定的に乗り越えられていくことです。2章では人間の共通する能力を否定していましたが、ここではそれの否定になっているのです。つまり、否定の否定です。否定の否定といえばマルクスですが、簡単に言えば、労働者は自分で生産手段を持たないので、工場を持っている資本家の所へ働くために行かなければなりません。そこから搾取という問題が生じるのです。そうした問題を解消するために生産手段の私的所有を一つ上の段階、つまり社会的所有へと上げる(vgl, KMWS, IV, 927s)、これが否定の否定であり、その到達点は個人的所有の再建です。マルクスの話なんて関係ないでしょと思われる向きもあるかと思いますがさにあらず。両者には共通項があるのです。マルクスの場面、個人的所有の再建された世界はまだ実現していません。つまり、この世界内には存在していないのです。同じように、アンセルムスの神への呼び掛けも現状では到達しえぬ次元です。すなわち、両者とも、未だに実現されていない事柄を言表するために否定の否定というレトリックが使われているのです。これは、人間の理性の限界を考える上で非常に興味深い材料ではありますがこれ以上はここでは取り上げません。重要な問題は、アンセルムス個人の思いを伝える言葉から彼の個人性が奪われて只の命題と化してしまった、そのことです。これは、まさにキリスト教制度の支配の代わりに世俗化された国民国家が統治する近代における人間の分裂を予見しています。全ての問題が徹底化された抽象的問題となり、主体性や個的独自性といったものが捨象されていく事態を示しているのです。だからして、神の存在証明についての史的展開を批判的に検討することは、私たちの時代の批判の手がかりとなるのです。
 ここではこれ以上論じていくと長くなりすぎてしまいそうなので、何故にアンセルムスの個人的思いから出来した神の規定がその個人性を剥奪されていったのかということについて仮設的に結論を考えます。アンセルムスの議論は、一人称複数で語られ、従って人間に共通する地平から語られています。しかし、後の哲学者たちによってそれは一般的命題として扱われていきます。共通する地平と一般的命題では全く位相が異なります。前者はそこに参加する諸個人の主体性はそのままに互いに同じくする事態において基礎づけられます。しかし、後者はそうした主体性を主観的として投げ捨てて客観的とされる視点が設定されて案出されています。つまり、前者から後者への以降過程において、主体性が剥がれ落ちていくのです。それにより、議論は抽象化され、現実の現場ではなくて観念の劇場において演じられるものとなります。この状況は何によって生じるのか。それは、アンセルムスの言葉が単なる神学論議の材料として消費されていく過程に随伴して生じていると言えます。アンセルムスの神の存在証明が、実際に無神論者や異教徒との論争に用いられたかどうかは資料的な裏付けがないのでそれについては現段階で素人である私には分かりません。ただし、神の定義としてアンセルムスの言葉を取り上げて神学論議をしている場合、明らかに神学者内部での神の定義として正か誤かという論議になっていることはこれから見ていく何人かの思想家の言説からも分かります。これは、アンセルムスの言葉が、言わば神学論議の市場において交易される物件と化していったことを示します。そして、その神学論議という市場は、その命題が正しいか誤っているか、そこから始まり、その正ー誤の判定は、論議での勝ー敗を否応なしに帰結します。さらに、それはその論議の支持者たちの優ー劣を導き出すことになります。このように、交易が反復されればされるほどに、事態を分断する二分法へと落とし込まれることになるのです。そこにおいては、個人の主体性は消失していきます。こうした、反復され続ける交易に巻き込まれることで、必要となるのはその議論の強さを見せつけ、弱さを踏みつけるという視点だけです。従って、アンセルムスの言葉から主体性が奪われていく過程は、まさに私たちが直面する個人性の剥奪と強さー弱さの二分法への凋落と同じなのです。ありていに言ってしまえば、アンセルムスの言葉が主体性を失って神学論議で交易される物件と化したこの事態は、マルクスが言う、労働者の労働が労働者の人間としての個人性を奪われて労働力という商品となるという現実そのものなのです。
 しばらくは、人間を苦しめる構造を脱却するための出口を模索するためにも、神の存在証明を批判的に精査していきたいと思っています。確かに、神の存在証明なんぞを考えたところで腹はふくれませんし、パンを増やすこともできませんーアンセルムスの聖人伝説の一つに飢饉が起きた時にパンを増やしたというのがあるそうですので、アンセルムスの専門家を自称なさる方々は、彼の哲学的鋭意がどうのとやるだけでなく彼の行った奇跡の内実を食べ物のない現代の子どもたちに向けて御自分たちの出来る範囲でなさったらアンセルムスの神の問題が彼の目線からもっと深く理解できるのではないでしょうかね、どうぞお試しあれー。しかし、その腹を減らさざるを得ないほどに人間の生命が次第に奪われている危機的現実、そうした痛み苦しみがべったりとこびりついてはなれない現代の構造、それを何とかして変えていくために、抑圧的な現実は批判されて乗り越えられなければならない課題です。そして、誰一人として飢えることも渇くこともなくなり、寒さで凍えずにすむようになったその時が来るまで、様々な仕方で乗り越えていく道筋を考えていかなければならないのです。そのための試みを、若きマルクスの視点から実行していくのが、神の存在証明批判であります。
 この論点を更に考えていくためにも、次回もアンセルムスの議論を見ていきます。