以前に"Die Anweisung zum seligen Leben"の書評をAmazonさんで書きまして、それを加筆したものを載せます。長くなりすぎてしまいましたが、今回の加筆での問題意識は、よくある哲学史の"教科書"では、1804年知識学以降のフィヒテは宗教哲学へと傾倒した、それは『ヨハネ福音書』に"影響された"からだと記述されていますが、それって本当にそうですかという点です。
とりあえず以前の書評の再録がてら、この『浄福なる生への指教』のあらすじを書いてみますと、この作品はフィヒテの1806年の宗教論についての講義。フィヒテは自身の哲学である知識学を深化させると共に、それを現実において実現しようとして幾つかの一般向きの講義や著作を世に出しています。その企画の中で宗教という人間の営みを扱ったものが本書であると言えます。
本文は宗教哲学的な体裁をしているので、宗教好きな日本人の琴線に振れるようで、その手の方々に好まれるようです。しかし、本当は無宗教あるいは宗教嫌いな方にこそお勧めしたい。日頃は「宗教なんて…」と斜に構えている人ほど、いざ宗教的な文言に出会うや否や、ころっとやられる傾向があります。ですので、本書を読んで目眩をするような宗教的言説に耐性をつけておくのがそうした突発的事態への予防となります。自称マルクス主義者の方々にも「マルクスは宗教を阿片と言っているが阿片は薬になるのだからマルクスは宗教を良いものだと言っている」だの、「マルクスの著作には宗教は阿片であるとは一回しか出ていないから宗教批判を止めた」だのと無茶苦茶な論旨で宗教とは何かを分からないまま迎合しようとされる向きもいらっしゃるようですが、そんな程度の見識だと政治批判もままならずに議席が寂しくなるばかりですよとは余計なお世話ですが、とにかく宗教とは疎遠な方々こそ批判的にお読みになって自己の言説を洗練させるためにも有用です。
そもそも、本書は只の宗教論ではなく、宗教を通した人間論であり、従って、社会哲学への視座を開くものとなっています。フィヒテは、彼の同時代の状況を記述し、その性格を明らかにします。その上で、時代を超えて、そこに別れを告げることを宣言します。そして、そのための手段を提示します。こうしたことを進めるために、聴衆に事実を事実として見つめる勇気を持つようにと促します。このことからも分かるように、フィヒテは自らの生きている時代を変革のための足掛かりとしています。人間が人間として生きられるように、それを阻害するものを憤慨して抗っていく、本当に大切なものを実現できるように変えていく、こうした事柄を遂行するために宗教というものが必要となる。従って、フィヒテは宗教を、昨今の宗教好きな手合いがやるような心が豊かになるようにやら日々感謝して過ごせるようにやらといった甘ったるくちゃちな心情に訴えるようなことは一切せずに、むしろ現実の変革への義憤の礎としていると言えます。
しかし、フィヒテは大声で「反対!」と叫ぶだけの拡声器を製造するわけでもありません。彼は、自身の哲学である知識学を基礎におきながら、幾多の「私」は絶対者たる神の現象であって、絶対者の実現を導くものであると語り出します。そこにおいて中心となるのは「愛」と「自由」であって、その現実化とは、今は価値があるかのように見受けられる物や事が本当にそうなのかを批判して変革することである。そして、こうした変革を遂行していくことにこそ、浄福なる生があると述べていきます。このように本書は宗教論を通して、それを超え出て、多様な問題を考察するように導くものとなっています。
そして、本書では1804年知識学において重要な論点となっているとされている『ヨハネ福音書』が取り上げられています。ですが、実際読めば分かりますがこの解釈はフィヒテだから許されるのであって『ヨハネ福音書』の解説としては噴飯ものです。哲学者が聖書を読むと、そのテキスト自体に何が書かれているかよりもそれを自分ならどう読むかに力点が移るので、もはや原典の視座とは重なり合うわけもありません。話は脇道ですが、岩波文庫で出ている日本語訳の改訂補訳なるものが別の出版社から発行されており、その解説を"司祭様で教授様"ー某出版社の帯を参照ーなる御方がお書きになられているようですが、御自分の使命としてこの辺りについて一言指摘すべきではないでしょうかね。それとも、まさかとは思いますが、フィヒテの『ヨハネ福音書』解釈が聖書を読む上で手助けになるとでもお考えなのでしょうか。いずれにせよ、司祭様であるなら一番に気になるのはあの壮絶な抵抗を生き抜いたイエスの生き様のはずです。それが、哲学的解説のほうが大事とおっしゃるなら、イエスへの思いや聖書の読みが軽薄なんだろうなと勘ぐられても仕方ないのではないでしょうかーそうしたことには思いもはせずに、宗教的儀式やら儀礼やら権威やら教義やら果ては世俗的な権力やら地位やらに普通では考えられえない程の貪欲さをお示しになられる方が名声を得るのが世の常ですがそれはさておくとしてー。あるいは、こうした態度を仲間内や隷従的信者は禁欲的に研究されていて素晴らしいと賛美されるのかもしれませんが、その人の使命感が滲み出てこないような言わば血の通っていない冷たく表面的な言葉に意味なんぞというものがあるのか疑問に感じない信者心の方こそ疑念を挟まざるをえません。さらに言えば、かの方は本書を貫くフィヒテの人間への不当な扱いへの義憤のような熱情が瞬間冷却されて提示しています。それはそれで思想の自由ですので御自分がそういう思想をお持ちであるなら御随意になさって下さればいいのですが、フィヒテ自身もそうだと言うのはお止め頂きたい所です。まあ、枕する所もままならず今日の食事も割引弁当が買えるかどうかすら危ぶまれる、そんな金銭的困窮に悩まされることのない祭司階級におわします方やそれに隷属することを自らお望みになる道化の方々には、今の人たちが本当に直面している痛み苦しみはお分かり頂けないでしょうけれどもーただ、もし今の賃金労働者の日々の生活困窮についてご理解頂けないのなら、それはイエスの「日ごとのパンを我らに」という文言もご理解頂いていないことにはなりますー。
とまぁ以上のようなことを書いたわけですが、勿論こうした言い回し以外に例えばフィヒテの以前の知識学との関係から本書を定置することもできるでしょう。すなわち、人間の絶対的に無条件的な人間の知の原理、それ自身は他の何にも依拠せずに全ての知が依拠しうるところの原理、あれこれの事柄ではなくて決定的な根拠たる知、そうしたところを思考する営みの中で、問題は根源たる"一"とその現れとしての"多数"とをどう扱っていくかは問いとなっていきます。で、そうした構造を成り立たせ得る知としての概念に着目すれば、絶対的な一者とそこから発生する世界内的な現象との構造を解き明かすことで自らの問いを進めていくことができる。こうした流れとして専門的な"哲学"として論じることもできるでしょうが、これについては語る余白を持ちませんので問題提起に留めます。そうしたことよりも個人的な問題意識を進めます。
とりあえず、以下でフィヒテが『ヨハネ福音書』について語っている場面を摘まみあげながら、彼が『ヨハネ福音書』を"誤読"(あるいは"曲解")していることを見ていきたいと思います。なお引用はFelix Meiner, 1994年版から。フィヒテは、『ヨハネ福音書』の序言は、福音書全体から考えるべきであり、それとの連関においてのみ概念化されるべきであるとのべます(90s)が、もうこの時点で失笑物、というよりも本気になって言い換えれば福音書の文言をその内部から逐一考察する気がないなと感じさせる記述です。というのも『ヨハネ福音書』の序言、俗に言うロゴス讃歌なるものはー福音書自体をじっくり読めばこのロゴス観念が以下で全く展開されていないことが非常に明確に分かりますがー福音書著者が洗礼者ヨハネについて彼の教団が言っていたことを、「いやそうではない、イエスこそが光なのだ」と言うために持ってきた詩文であって、福音書本体には何の関わりもない部分です。実際、この詩文の内容が福音書の中でこれ以降展開されることはありません。その意味で、これをヨハネの思想、あまつさえヨハネとのみ哲学者は一致しうる(88s)とか言っちゃうあたりに哲学的解釈という仕方の薄っぺらさが浮き彫りになります。ただ、フィヒテの見方に五分の正しさもあり、それはこの序言をキリスト教という歴史的に特殊的な集団にのみ妥当する事態ではなく、全ての時代に当てはまる(89s)と言ってる点。すなわち、このロゴス讃歌はキリスト教以前にヘレニズム世界で流用されていた理念からの派生したものであって、キリスト教内部の神学的教義主義とは無縁の精神で作成されており、それを洗礼者ヨハネ教団が借用したというのが本来的な事情。この事情をちゃんとは理解していないようですが、狭いキリスト教絶対主義者から解き放つ見方は達見だなと思います。
で、フィヒテは『ヨハネ福音書』序言の文言を解釈していきます。ユダヤ教的創造論とこの序言は全く異なる事態を語っているのだと彼は語りますが、しかし、『ヨハネ福音書』作者ー因みにこの福音書の作者はゼベダイの子ヨハネでもなければエイレナイオスがごっちゃにしちゃった長老ヨハネでもありません。なんならゼベダイの子ヨハネは21章以外この福音書には登場しません。それを口実にこの作者は奥ゆかしい人物で自分の名前を出さなかった的な話でゼベダイの子ヨハネだと強弁する輩もいますがご冗談を。ゼベダイの子ヨハネと言えば兄弟のヤコブと一緒になってイエスが栄光を受けた暁には自分たちを右と左においてくれ(vgl.『マルコ福音書』10章37節。マタイの並行箇所だと別人が言ったことになってますが)と宣った御仁ですよ?そんなんがそんな清淑な振舞いする訳がないでしょうにーはこのロゴスについて思弁的に思惟していません。全くもってこのロゴスが何であるかについては興味がない。確かに、フィヒテの指摘のように天地創造についてこのロゴス讃歌は云々していません。ロゴスは神であってそれにおいて生命が生じたことを述べているだけです。そして、こうしたロゴスの神化は古代世界の様々な様態において見られるのであり、『創世記』世界観とは違うもの、その範囲しか私たちには語られていないのです。従って、フィヒテは話を拡張させすぎ、胃もたれを起こしかねないものとなってます。話は脇道で、フィヒテ理解でちょっと考えておきたいのが「それによって」durchの使い方。周知のようにdurchという語をフィヒテは1804年知識学第2講義で用いて彼の思索を展開していますが、彼のdurchを理解する足掛かりになるのかどうかをいずれ考えたいかなと。この『ヨハネ福音書』の「それによって」、これをたまに「媒介して」と訳す向きもあるようですが、前置詞dia+属格名詞はその名詞が空間や時間に関わる語以外なら行為の原因を示しますー翻訳者の皆さんはまともな辞書を見ましょうよー。従って、ここで語られているのはロゴスを原因として生命が生じたということ。まぁ、これをキリスト教的ドグマ主義にかこつけて読もうとするから、つまり創造の主体は神であってロゴスはその仲介者に過ぎないとしようとなさるからそんな無茶な翻訳になるわけで…、話がずれたので戻します。
フィヒテはロゴスを言葉だけでなくその知としての意味を指摘しつつ、言葉の内的で絶対的な本質からそれが在るIstことを述べていく(92s)のですが、そんな話は福音書序言には書かれていないばかりか示唆されてもいません。だいたいこの在るseinにしても力点はロゴスが神のもとにあった即ち場所やら様態やらを語っているのであって、現存がどーのこーのではありません。ついでに言うと日本語の諸訳はこれを「神と共に」としてますが、prosという前置詞にそんな意味はありません。ただちょっと面白いのがpros+対格名詞をeimiと一緒には普通は用いない点。これを使うのはパウロとマルコ。ブルトマンの註解書によればセム語の影響による用法ではないかとのこと。で、『ヨハネ福音書』作者はこのpros+対格名詞は行くとかの動詞と共に方向を示す意味で用いており、eimiと一緒には使いません。ここからも序言と作者は違う言語感覚を持っていること、つまり只の借用に過ぎないことが分かります。だいたいフィヒテのドイツ語もbeiなんだから日本語聖書にそこまで忖度しなくても、ねぇ。あと、ここで「神であった、それは」と述べるようにロゴスは神であること以外は語られていないわけでフィヒテがごちゃごちゃと哲学用語を並べていくようなことは一切含まれていません。何でこんなにフィヒテさんは我田引水を繰り返すのか、まぁそこは追々考えていくとして、次の話ではフィヒテは『ヨハネ福音書』1章3節を引用しつつ、ロゴス=言葉を概念として定置して自説に接合させてます(93s)が、さっき言いましたようにそんなことは原典には内包されていないので、もうここまで風呂敷を拡げるなら最初から『ヨハネ福音書』なんぞ出さなきゃいいのにと思わなくもありません。
で、このあとはフィヒテ自身の思索を展開させながら突如思い出したように『ヨハネ福音書』の幾つかの箇所をちまちまと引用して解説していますが、彼が主張したいことと合致している文章を文脈から解離させて拝借してくるだけなので、どれもこれもが空中に浮いてしまっています(97s以下)。せっかくなのでこちらも最後まで付き合うとしましょうか。まずは、1章18節。一応、多くの学者が指摘することを先に言えば、この『ヨハネ福音書』には原著者が書いた作品に後から書き加えた「編集者」(Bousset, 1921が元ネタだそうな)がいて、そしてその編集者の意図は教会教義やら儀礼やら自分達の正統性やら自分達以外の排除を矢鱈と書き連ねることにあります。で、この箇所、verkuendigenという語の元のギリシャ語はExegeseの原語、つまり宗教的教義の釈義であって、しかもそれは信者以外を排除して為されるものであり、従ってこの箇所は非常に狭隘で独善的な事態を示していて、その意味で編集者の手によると言い得るのです。この編集者の意図は野暮で不粋な物言いをしてるのでじっくり読むと明らかに分かる部分があり、その一つがこの箇所。しかし、それを『ヨハネ福音書』作者の視座と同じものとしてしまうフィヒテさんて一体何なんでしょうか。
次は、5章19節。子の自立性は神の生のうちになんちゃらとか言ってますが、もうこういう格言的な引用はお止め下さいよ。この箇所、全体として言いたいのは『ヨハネ福音書』の中で繰り返されてる裁きkrisisー批判Kritikの原語ーの話。その裁き、教会教義主義者が語るように世の終わりにキリストが再臨して審判を行うとかいう話とは全く違う視座。裁きは"今"なのである。今イエスとどう向き合うか、そこにおいて各人は規定されているのだ。未来に因果応報的な悲惨な報いが与えられるのではなく、イエスに向かう態度、それにおいて各人の在り様は定められている。イエスを無視して背くという態勢それ自体が各人の状況を決めている。イエスから離れているというその振る舞いこそが哀れむべき事態そのものだ。この"今"の決断が人の実態なのだ。これを『ヨハネ福音書』作者は言いたいがために手を変え品を変えて語っているのであり、その過程で、ではなぜイエスとの向き合い方が裁きの根拠となるのか論に関わる際にこの箇所の記述になるわけで、フィヒテさんの哲学思考の正しさを保証するためのものではありません。
そして、10章28節以下。フィヒテの言葉では何だか「お前のものは俺のもの」みたいな話でドラえもんのジャイアンかなと感じなくもないのですが、ここで問題が。30節の"一つ"という概念、これが連発されるのは17章の20節近辺。で、この17章というか15章から17章、これ全部が偏狭な編集者の手によると結構な研究者が指摘してますーCullmanの概略書によれば、Wellhausen、Meyer、Richter、Becker、Dodd、Barrett等の名が挙がっていますー。とするとこの30節も編集者の挿入と見なし得るかも知れません。これ以外にも日本語訳だと10章16節で「一つの群れ」という言葉が出て来ますが、そちらは不定冠詞による表現、こちらのように数詞的な用語化しては使われていません。この17章問題は後でも出て来るので後述するとして、この箇所の主眼は羊と羊飼い、イエスと人々の関係を述べています。ここの箇所に関連して先ほどの16節では「他の羊」もいると言ってます。すなわち、キリスト教徒以外の人々もイエスには与えられている、イエスにとってはキリスト教徒ー非キリスト教徒という排他的分離は意味がない、イエスは文字通り全ての人々に向かっている、そうした視座が語られています。その意味で、フィヒテが『ヨハネ福音書』を全ての時代に妥当する絶対的な部分と歴史的に特殊的なキリスト教徒にのみ該当する部分とに観念的に分断して解釈しているのは稚拙というか未熟な読み。『ヨハネ福音書』作者は端からそんな分断にかかずらわっておらず、イエスによる無区別的な人々との連なりこそ主題になっているのです。その根拠として、イエスと父との現実の関係を論じているのがこの箇所、一つだのという人間が作り出した観念ではなく実際にイエスはどういう振る舞いを為しているかが主題。こうした人間によって作り出された観念と現実的事態との差に基づきなから、信者ー非信者の区別は人間あるいは人間の作り出した教会制度に由来するものだ、そうした批判的視座も福音書作者は展開していると考えられますが、さらに作者は使徒を自称する連中を含めた宗教的指導者を12節で「雇われ人」と表現して、そうした輩が自分たちの都合に合わせて「羊」を見棄てると断じています。ここからも福音書作者の鋭い知性が見え隠れします。それに比べて、こうした文脈には目もくれずに「一つ」という抽象的観念を賞揚するあたりに哲学者風情の興ざめた読解の内容が露になってます。
そして、次がネガティヴな意味でのフィヒテ解釈の真骨頂。6章53節(98s)をポンと挙げてますが後から(100s)続く文言も付加的に講釈なさるのでここで纏めて言います。ブルトマンの指摘を待つまでもなく、この肉だの血だのといった聖典礼に繋がる教義の羅列は典型的に編集者の書き込み。ブルトマンはBoussetやWellhausen等も同様に編集者の手によると論じていると言ってますが、普通に読めばこの辺りの文言がそれ以前の記述と明らかに異なっているのが見えてきます。すなわち、パンについて語り、そしてそのパンは「生命のパン」であるとしてイエスについて論じている作者は、イエスを万物が生けていけるものとなりうる生命の要因として定置しています。つまり、現実のパンと人間の生活の関係からイエス生命のパンとしているのです。翻って、この編集者が宣うのは「生けるパン」、パン自体が生きている、別言すれば神の子たるキリストは永遠に生きているという神学的教義からパンについて釈義しています。そして、このパンつまりキリストの肉を食べなければ救われぬ換言すればキリストの肉を食べる為に教義や教団に隷属しなければ滅びるという脅迫まがいの排除思想を嬉々として語ります。そもそもこの『ヨハネ福音書』作者は、洗礼だのといった聖典礼に全く興味がありません。後にカトリシズムにより設定された聖体祭儀の文言(『第一コリント』11章22-26章)を『ヨハネ福音書』作者はどこにも記しませんし、『マルコ福音書』14章22以下に見られる最後の晩餐での伝承も出てきません。洗礼についても同様、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けた話を削り(1章29節並びに32節を参照)、洗礼を授けて有り難がっていたのはイエス本人でなく弟子集団だった(4章2節)と語っているように、そうした聖典礼を有り難がたがっている連中に対して冷めた感覚を持っています。そうした落ち着いた作者自身の記述ではなく、編集者による浮わついた排除的儀式宗教性に目が向かうフィヒテさん、本当に読みましたかと訊きたくなります。
さらに、5章24節。ここはフィヒテさんの指摘は的確。つまり、最後の審判の時に生だの死だのといった裁きが下るのではなく、そうした決定的な裁きの時は"今"であることをきちんと話しています。こういう慧眼を持ちながら次でまたやらかします。
はい、8章51節。何やら人間は絶対に死なない(99s)んだそうですが、それって比喩ですよね?『ヨハネ福音書』作者が語る永遠の生命というのは此の世の偶有的な事情や欲望に流されることのない揺るがぬ永遠の真実がイエスとの関わりの中で与えられるという話であって、人の体が霧消しないということではありません。それに、この箇所では言葉を守るなんて物言いが出て来ますがこれは先ほど指摘した15-17章で嫌というくらいに垂れ流されます。つまり、この箇所自体が編集者の手によるわけで、こうした言葉使いの違和感についてまでは読まないことに慣れきってるフィヒテさんらしい読みになってます。
そして続く11章23節以下、ここに至ると作者に無作法なんじゃないかというくらいに明後日の方に目が行きます。ラザロの復活の話に関連するマルタとの会話。この『ヨハネ福音書』作者は或る意図を持ってイエスの奇跡物語を描いてます。最初は水を葡萄酒に変える話からパンを増やしたり病人の癒したりしながら究極的場面としてこのラザロの復活に至ります。イエスは神の子であり従って人間の思惑には押し込めない存在であるがゆえに、彼が居る場面では人間の目には奇跡としか思えない超理性的事象が起きてしまう。だから、そんな奇跡に執着して有り難がたがっても仕方ない、大事なのはイエス自身だ。このラインに沿ってイエスの奇跡物語を書いています。別言すれば、イエスの内実を示すための舞台装置として奇跡を示す。すなわち、イエスの永遠的真実性とイエスの実際に生きた足跡とを奇跡物語に落とし込もうとするのです。しかし、それが決定的に無理をきたす或いは破綻してしまう場面がこのマルタとの会話です。
イエスの奇跡が起きるのは人々の苦しみが先にある。奇跡とは所詮誰かの不幸を前提として成り立っているのだ。だが、実際に苦しんでいる人々に高尚で崇高な理念をぶつけた所で何になるのか。そもそも人々が苦しまねばならぬ現実を変えられぬのであればそれを本当に超世界的な"神"と呼べるのか。この問いが、恐らくは福音書作者自身が持っていたその問いがマルタの口から語られる。その最後の答えをフィヒテは記さない。このことは案外とフィヒテも気づいていたことを示すのではないかと思ったりします、つまり、どんなに超越的な真理だの理念だのを担いでいたところで苦しみに喘ぐ人々を救えやしない、宗教的教義なんてものは人間の苦しみには何の意味もないという当たり前の事実に。フィヒテが記さなかった最後の答え、それは「はい主よ、私は信じてきました」(28節)。以外ずらずらと教義内容が言われます。信じた、信じてきた、で?それが一体何になるのか、苦しみ死にいく人間を止められやしないではないか、それを真理だの道だの生命だのなんて呼べとでも言うのか、ましてやそれを崇めろと?このマルタの答えには、何時の世にも叫ばれている無数の溜息が込められています。実際、これに対してイエスは何も言わない。そして35節では「涙を流した」。自分の友人の死を前にした己の無力さにか、或いは超人間的な神学的教義主義者として無理解な人間にか。この作者は明らかに前者を見ている。つまり、このイエスは人間そのもの、悲しみを悲しみとして受ける人間になりきっている。ここには神の子キリストの姿はない。しかし、直後のラザロの復活の場面では機械的に奇跡を起こして立ち去っていく。『ヨハネ福音書』作者自身がもはや書き切れていないのです、私たちと同じように生きたイエスと超越的な実在たるキリストとの刷り合わせを。この福音書の興味深さはむしろここにあるのです、人間が宗教的真理を描こうとすることに纏わる虚しさを分からせてくれることに。フィヒテはここに興味がないご様子、まぁ哲学者というものはそういうものだと言ってしまえばそれまでですが。
フィヒテは『ヨハネ福音書』をつらつらと語ってきたまとめ的に17章20節を持ってきます。何度も触れましたようにこの箇所を含む15-17章の書き手は作者でなく編集者であり、そこには自分たちの教義に従わない者たちを排除して攻撃するという宣言が稚拙な文章で宣言されています。この15章について、かのカール・マルクスがギムナジウムでの宗教科課題論文として扱っていて、この論文について廣松渉『青年マルクス論』にて人類の福祉や自由といったものが入る余地のないものと評されます。つまり、まともに編集者の文言を扱えばそこには自由が介在しうる場などない抑圧と隷属のみが残留することになるのです。この廣松解釈について詳しい論評はこのブログの最初の記事になってますから繰り返しませんが、この『ヨハネ福音書』箇所に関する解釈自体には議論すべき事柄が多々あるとはいえ上述したマルクス論文から見出だした自由の余地の無さについては受け止めておかねばならないでしょう。とにかく、真っ当に編集者文書に対峙すれば違和感を覚えずにはいられません。しかし、それを自説の補強に使うというなら、フィヒテの唱える自由とは一体?これに続けてフィヒテは『第一ヨハネ書簡』の冒頭まで持ち上げてきますが、これとてきちんと読めば自分たちこそが正しく自分たちに隷属しない者は異端であるとして排斥する意向でもって書かれています(Heitmuellerの『ヨハネ福音書』註解を参考に)。フィヒテさん、あなたは本当に『ヨハネ福音書』の文言に本気で向かい合いましたか、その上で彼らの言う他者排除思想と御自分の自由の体系とが結びつくとお考えですかと問い質したくなります。
おそらく、フィヒテ自身が最も言いたかったことは以下の文章にあるでしょう、すなわち「人は全く彼[イエス]自身にならねばならぬ(muessen)」である、「人はイエスを到達できない模範として、少しずつ遠くから、単に模倣すべき(sollen)」ということではない(100s)と。後の作品である『国家論講義』でも類似の表現が出て来ますが、フィヒテのキリスト教観はここに集約されると思われます。神だの教祖様だの救い主だのと有り難がたがってるだけでは意味がない、自分が己の信じるそれ自身にならねばならぬのだ。これは宗教批判としても真髄を貫く主張であって、この優れた見解は人類史上の非凡な多数の人物ーウィキペディアに名が残されている有名人か否かは関係なく例え農村に住む民であろうと秀でた人物はまさにここに立脚して自分を抑圧する力に抗っていたのですーと同じ視点です。しかし、これを展開しうる人物がなぜこんなにもどうしようもない編集者の文言を賞賛したり自説の正しさの論拠としたのかは謎です。
仮設的に述べるなら、フィヒテは本気で『ヨハネ福音書』に学ぼうとしたのではない、ということです。最初に言ったように、そこらの"教科書"的記述ではフィヒテ思想の流れを図式化して、1804年知識学以降を宗教哲学へと傾倒していき、そこでは『ヨハネ福音書』から"影響を受けた"と設定しています。が、本当にそうですかとは最初にも言いましたが、じっくり見ていけばさらに疑念は深まります。あまりにもフィヒテ自身の思想とフィヒテが挙げた引用箇所との落差が激しい。とすると、"影響を受けた"という理解が間違いであり、フィヒテは自説を展開する上で『ヨハネ福音書』を"利用"したのだ、と。フィヒテは無神論論争に巻き込まれて自身の知識学を展開する道筋を阻害された過去を経験しています。だから、あらかじめ無神論ではないと予防線を張るために教条的神学者連中がこよなく愛する『ヨハネ福音書』を取り上げたのではないか。まぁこんなふうに思うのです。
とはいえ、なぜ『ヨハネ福音書』であってパウロ書簡等の教義的文書ではないのか。これはフィヒテが論じるように、『ヨハネ福音書』が創世記的創造論から距離を置いているからです。フィヒテは若い頃の『全ての啓示批判』で形而上学的創造論者に抗い、一者と世界内的な多数者との関係性についての理性的言及の不可能を語っています。そして、絶対者とその現象としての多数者を主題としている1806年現在において創造論批判を再展開していく、そのための絶好の主題がin principio erat verbumなわけです。そこで主題とされる信は創造教義に基づく信のような過去やら根子やらにしがみつくものでなく、真理に向かう或いは今ここにおける信なのです。とまぁフィヒテさんの思惑に寄せて書けばこんな感じ。他の哲学者への批判もそこには入っているでしょうが、課題は人間的本質と神的本質の絶対的合一にこそあって、その過程として受肉したロゴスたるキリストとの一致を考えていたのだと思われます。確かに、この点においてフィヒテと『ヨハネ福音書』が類似しているのですように思えます。すなわち、フィヒテにおいては人間的本質と神的本質の一致が実際にはどのように遂行されるかが本来的には語り得ていない。ただ、これはフィヒテ哲学の弱点ではありません。問えぬものを問えぬと定置して問うことから放れる、これは学者としての真正な態度です。問えぬものを問えるかのように語り出すのは只の思い上がりに過ぎません。こうし或る種の自己陶酔的な情熱によって自分の思いや考えが先行しすぎてしまい、適当に『ヨハネ福音書』を摘み食いした結果がしょうもない聖書理解になったのだと。
従って、何の批判も反省もなくこの時期のフィヒテの思惟を"『ヨハネ福音書』から影響を受けた"として御自分たちの信奉なさる関係される宗教一派に阿るように設定される御仁は、結局のところかの編集者と同じような排他的独善主義研究者に過ぎないという内実を問わず語りに示してしまっているのです。すなわち、以前に書いたこの著作の書評にある言葉を繰り返せば、「フィヒテによる本書は人間を選別する試金石になっています。自分が見ている世界、考えている事態、そうしたものは本当に現実を捉えているのかどうか。いや、そんな現実なんてどうでもいいよ、哲学の研究はそんなものではないさ、等々と嘯いて御自分の地下室に閉じ籠るのも結構です。そう言えば、以前に宗教哲学関連の教授様が"私は他人の人生を一声で無にできる程の力を握っているのだということを感じて幸せな気分になれる"と宣っておられました。そういう連中に限って、真理がどうの神がどうのと話したがります。しかし、その程度の見識で見抜けると考えるようなものが本当に真理ですか、その程度しか言えない頭で真理なぞ考えられますか。それを含めてこう問うべきです、本当に自分は真理なぞというものを知るのに価する人間なのだろうか、と。さらに、問いはさらに続きます。真理を知ることは誰もが安心して食べて寝られることよりも本当に大切なのか、目の前で誰かが苦しんでいるその時にそれを取り除くよりも真理を知ることは重要なのか、だいたい真理を知るなんぞと言っていられる環境に暮らしているのは何人もの名前も知らないような人たちの苦しみ痛みを踏みにじっているからではないか。だとすれば、真理を知るという営みにどれ程の意味があるのか。そして、こう問うことになるでしょう、「真理とは何か」(『ヨハネ福音書』18章38節)。そんな様々な点を、私たちは本書を読むことで絶えず問われているのです」ということです。
まぁこの著作については色々と論じねばならないでしょう。それはいずれ、また。