sekiwataruの日記

Ph.D(filosofia)のソリロキア

【書評・再録】Fichte, J. G., Einige Vorlesungen über die Bestimmung des Gelehrten, Kindle-edition.

Amazonレビューの再録です。少し前に書いたのですが、現状の認識が全くもって変わらないことから備忘録として再録します。

 この電子書籍には表題である『学者の使命についての講義(1794年)』の他に『学者の本質、自由の領域におけるその現象について(1805年)』と『大学の自由を撹乱しうる唯一のものについて(1811年)』とが所収されています。
 この文章を書いている現在、議会では「学問の自由」が喧しく取り上げられています。しかし、その議論は互いを敵か味方かと罵り合うだけで、学問の自由がただの政争の道具にされてしまっています。学問の自由とは人間の存在の基盤を支えながらそれを根底から揺さぶる理念であるはずです。本書はフィヒテ哲学の根幹である自由の体系としての知識学Wissenschaftslehreを語っているためにフィヒテ哲学への導入としても有益な書籍でありますが、もし上述した現状に何らかの違和感を感じる方がおられるなら「学問の自由とは何か」を根本的に考えることができる本書を推薦させていただきます。
 フィヒテは学者を語る前提として、人間そのもの、つまり私であることには必然的に含まれていない私ならざるものを離れた私である人間を考えます。すなわち、学問をするということはまさに人間であるこの私を離れては成立しないのです。だから、学問の自由とは、ご立派な家庭の産まれで生活や社会的地位が安定している特殊な上流階層に胡座をかいている人々の組織にまつわる問題などと言ったマージナルな議論などではなく、本来的には人間の問題、従って私たち自身の問題なのです。そこが現状では棚上げになっているので、大衆とは無縁の絵空事になってしまっています。いくらエクスキューズした所で、大衆の現実の苦悩よりも、上流階層様の御機嫌の方が重要な問題なのだというのが本心だということは、人前でお話しになるのに費やした時間によって分かります。これは、投入労働時間が価値になる、そう初歩的マルクス経済学の教えです。御自分たちが後生大事になさっている教条によって御自分たちの隠された本音が出てしまう、笑ってはいられない茶番劇です。
 では、なぜ学問の自由は人間にとって必要なのでしょうか。私が人間である、すなわち私が本当に私であるために不可欠な事柄は、私は私であるという同一性を実現することです。というのも、私ならざるものによって私が支配されているならばそれは私ではなく、従って人間であるとも言えないからです。確かにこれを完全な形では遂行しえないでしょうが、それを完全な形へと少しでも近づけることは人間であるために必須です。その出発点は、私が何ものであるかそして何ものでないかを「知る」ことですーフィヒテ流の「汝自らを知れ」ー。これによって私は私であることを私が何ものなのかを知ることを通して自分の使命として発揮することが出来るようになります。しかし、人間が使命を確立しうるのは自分と同じ理性的存在者の関わりである社会においてですーフィヒテ流の「人間は社会的動物である」ー。私は私が決して作り出すことの出来ない私ならざる存在者との関わりのうちに、私のものと私ならざるものとを知り、そこから私がしなければならないことを把握して、そこに自分の意志で参与する。つまり、私の自由を見出だすのです。このように、学問の自由は社会哲学の問いともなり、そしてその問いは現代的な性格を持ちつつもプラトンアリストテレス以来の歴史を背負ったものであるのです。人間は鉄のような自然法則に隷属するのではなくてまさに自由な行為のうちにこそ存するのであってーこれはエンゲルスマルクス主義的法則性とマルクス自身の人間的自由との差違に類似していますー、自由であるがゆえに「何をすべきか」という道徳的実践が目標となっていきます。
 フィヒテの語る学問の自由とは人間にとっての事態であり、人間であることから解離した単なる標語や条文ではありえません。この人間であることを通した学問の自由を考える上でフィヒテによる本書は未だ色褪せないものであります。ただ、一般に流布している日本語訳である岩波文庫版は残念ながら「身分」という単語を「階級」と訳すなどの不充分さが垣間見られるために、原典たるドイツ語をお読みになられるよう、お勧めいたします。

現状についての蛇足
 人間にとって自由であること、これこそが基盤でありそしてそれを取り上げることは誰にも許されていません。しかし、関係者を強制的に上からの見解に合わせるように抑圧している団体にとってはただただ「反対!」と大声で叫ぶ拡声器があればいいのか、自由であることよりも団体への隷属ー執行部批判は許すまじ!ーこそが至上命題とされます。これは他からの自由の剥奪の例です。しかし、問題は自分の自由を自分から廃棄するという現実です。すなわち、そうした上位団体を支援する下位集団の若年層は自分たちの不遇さを自分が悪いのではないと主張したいがために社会に原因を押しつけて正義を騙りながら己れの独善的性向に基づいて大声を張り上げて妬みと謗りを晴らすだけの集団と化していきます。これは他から強制されているのではなく、自らの抑圧状態を根底から変革しようとせずに一時の鬱屈の開放こそが自己実現であるかのように振る舞うことで、本来的な自分の自由を放擲している例です。自由を剥奪され/放擲して集められた嘴の黄色い烏合の衆は、上位団体にとってパーティーの余興である道化芝居くらいでしかないにもかかわらず滑稽なほどに忠誠心を発揮します。彼らにとってはそれ以外の居場所がないからです。そのため、上位団体に反対するものを探して攻撃して曝しあげる愚行を繰り返し、しかしその暗愚さゆえに上位団体の単なる使い捨ての道具としてしか扱われていないという現実。それこそが根本的な意味で自分たちにとって学問の自由に反する現実ですが、その集団の誰もが無感覚でいます。まさに、自分たちの外へと向かう集団的行為が自分たちにとっての内奥の問題を隠しているのです。もし少しでも良心的な人間が上位団体にいればそれを彼らに指摘して変革を促すのでしょうが、その指摘をすることで下位集団からの支持を失うことを危惧しているのか単に道具としてしか扱っていないのかは分かりませんが、ともかく、この本来的な学問の不自由を野放しにしている団体が自らを形容する上で「科学的wissenschaftlicher」という語を使用していることは喜劇でしかありません。
 結局、大衆の現実の苦悩よりも、上流階層様の溜息の方が重要だということをあの方々は語っているのです。従って、大衆の自由は、選ばれた指導層の方々の思惑によって上書きされて、その方々のための機械とされられていく、それが、昨今の政治的言説の向かう先です。大衆がいま直面している様々な生きることを難しくしてしまう苦難、それよりも上流階層様の顔色伺いや御自分たちより数の多い友達仲間への忖度の方にお時間をお使いになるお姿をお見受けしまして、フィヒテが述べた本書の第三講義の言葉を思い出します。「我々の機構によって彼らの内の人間を抹殺して我々次第によって彼らと社会をも抹殺するのである」。学問の自由の主張を集団的な圧力によって強制することは、単に大衆の自由を破壊することだけではなくて大衆への抑圧を通して社会をも破壊することになるのです。この点を、フィヒテは鋭く批判しているのです。