sekiwataruの日記

Ph.D(filosofia)のソリロキア

【論考】若きマルクスと「存在論的証明」批判ー予備的考察ーアンセルムスの場合・第2回

※アンセルムスの第2回、続きです。

 前回、考察しようとは思っていたのですが資料がなくてそのままにしていた問いが残っています。それは、何故アンセルムスは神の規定として「より大きいものを考えることができることのない何か」という言表を選んだのか、という点です。前回には、アンセルムスの神の規定は単なる一般的命題ではありえず、むしろ彼の個人性と分かち難く結びついているということを指摘しておきました。これをもう少し進めると、上記の言表にも彼の個人性が影響していると考えられます。ヒントになるのは岩波文庫版の『プロスロギオン』に所収されている「聖アンセルムスの生涯」です。そこでは、アンセルムスはアオスタから見える雄大な山々を見、その頂に神がいると眺めながら思索していたとの記述がありますー本来なら、この記述の信憑性の裏づけのために資料を見つかるまで探索するのですが二次資料しか手に入らず、そこでも同様のことが書かれているのでさしあたって正しいものと仮定してます、手を抜きました、すいませんー。雄大な山々とは、カントの『美と崇高の概念についての考察』に崇高の例として挙げられてます。そして、前回引用したテリトゥリアヌスには神の言表として「崇高」、アウグスティヌスは「崇高」と「より大きい」という語が出てきます。つまり、雄大な山々=崇高さ・より大きいこと、このような連想がアンセルムスの神理解にあったのではと言うことができるでしょう。こうした傍証から推察するに、雄大な山々を見ることを通して神に思いをはせたアンセルムスにとっては、「より大きい」という語こそ彼の個人的な体験から導き出された言表であったのではないか、という仮設的結論が導き出せるように思います。この点については修練を積んでからもう一度扱いたいと考えていますので、とりあえず今回はここまで。
 話はずれますが、中世人の多くは自然を見ることで神を思っていたことは彼らの書いたものを読むと分かります。彼らにとっては、自然こそが神を思うための材料であり、言うなれば神学的思索の現場であったのです。だから、彼らは自然の草木を愛して自然の生き物を大切にしていました。例えば、アンセルムスさんは、狩人に追われて傷を負った兎を守って育てたなんていう逸話も残されています。それが事実か否かは分かりません。ただ、そうした自然の生き物に温かく接することが人間らしい在り方であり、人間にふさわしい振る舞いだと人々が思っていたからこそ、そうした逸話が語り継がれたのです。自然を守って育てる、それは、神のためというよりも、人間の存在を根底から支える現実がまさに自然の中にあったからです。食べること、寝ること、そうしたことは自然を離れては成立しえません。だからこそ、自然を侮辱するような領主の横暴に抗い、貧困や飢餓や災害で苦しむ人々のことを他人事ではなくまさに自分が自然と向き合うことの苦しみとして受け取り、それを取り除こうとしたのです。因みに、このアンセルムスさん、司教になってからは領主の土地支配と格闘した書簡を数多く残しています。この辺りを本気で研究して頂けると、後世の土地所有の問題についての経済学的分析に至る思想史的潮流が分かって有難いのですが、まぁ神様の方が人間より大切な方々には期待できないでしょうねーしかもその崇め奉っている神は人間が作り出した観念にすぎない程度の内容しかないものなのにー。何方かが「アンセルムスは修道院の中で瞑想していただけだ」と仰っていましたが、それは御自身が世で苦しむ人々の苦しみを自分の目の前に立ちはだかる問題以外の何物でもないと理解できない残念な知性の持ち主であるというだけで、そうした残念な知性をアンセルムスさんにも投影するのはご遠慮頂きたいものです。もし、本気で中世哲学を自分の問いにするならば、自分自身、自然、他者の苦しみ、神、こうしたものが一体となって生きる上での課題となることを中世に生きた哲学者たちと共有しうるはずです。が、抽象的な議論が現代の学者先生はお好きなようで、その様子を見るにつけ素人ながら悲しくもなります。まぁ、それは中世分野だけでなく、本来なら人間の苦しみを現実世界から一つずつでもいいから取り除こうと志向するはずのマルクシストの方々が政治談義やら何やらに没頭している御姿も同じようなものですが。
 のっけから、枕が長くなってしまいました。アンセルムスの文に話を移しましょう。以下、悪名高き論証の文言です。

  あるいは、「知らぬ者は心の中で言った:神はあらぬ」のだから、何らかのこうした自然本性があらぬのだろうか?("Proslogion", II)

 ここで気になるのが「知らぬ者」という語です。この詩編の引用部分、日本では伝統的に「愚か者」英語だと「the Fool」と訳されています。なので、読むと見下された感じがします。ドーキンスは、大ベストセラーで邦訳もされた『神は妄想である』で、神がいないと言う者を馬鹿者呼ばわりしていると憤慨していました。実際、神を信じないという人に対する差別意識アメリカに根強くあります。人々の血と汗と涙を踏みにじって財をなした大富豪が保守的なキリスト教信仰を持っているのは、自分を善人であると信用させて世論を取り込むという目論見もあるのでしょう。これは何も海の向こうの話だけではなく、何やかんやと近所の宗教施設が金と人力を無償で集めようとしてそれに無神論的に抗うと村八分になるという話はどこぞの美しい国にもあります。それ以外にも、宗教は人間の情操教育に役立つのでそれを否定するのは思いやりがない証拠だなんぞと嘯く連中もいます。まぁそういう思いやりだの優しさだのを唱える方々ほど、食べ物を満足に手に入れることができない子どもや親たち、一生懸命に働いても日銭を稼ぐことすらままならない若者たち、働くことどころか出歩くことすら辛くされた立場に追いやられている様々な年齢層の人たち、そういう現に苦しんでいる人々の痛み苦しみには目も向けなかったりしてます。そういうのを見るにつけ、宗教が情操教育に役立つという仮説は間違っていますよねと言いたくなります。
 詩編の当該箇所を読むと自分たちが神を信じているそのことだけで思い上がっている様が見えてきて、しかも、信じないことのみで人を見下すというその在り方に対して何の疑問も抱かないその神経に吐き気がします。何やら聞いた話によると、カトリック信者様に「この箇所を読んで愚か者だと言われために神を信じた」と宣った方がおられたそうで、自分がどう思われるかという評価しか頭にないのだなぁと可哀想になりましたが、それを聞いた周りが感心していたというオチまでついていて、なんと言いますか。イエスのように苦しむ誰かの苦しみを取り除こうとなさっている良心的なクリスチャンの方々に失礼なので、その御仁に与太話は止めてもらっていいですかと誰か伝えて頂けたら幸いです。それはともかく、この詩編無神論者や異教徒を罵倒するのに打ってつけの文言であると共に有神論者の傲慢心を擽るのにお誂えの表現なのだということは、今の例からもよく分かります。
 そこで、問題になるのはアンセルムスの意図がどこにあるのかです。まさに掃いて捨てるほどこの詩編引用についての論文があります。まぁ拙文には余り関係がないので列挙はしませんが、やはりこの詩編引用が気になるご様子で、皆様は何とかしてアンセルムスを上述したような嫌味な態度から分離しようなさっておいでですー因みに日本語では詩編引用を扱った論文を寡聞にして聞かないので、まさかとは思いますが中世研究者の皆様は神信仰こそが智者の証であって無神論は教養がない印だと思っておいでなのでしょうかー。その中で指摘されるのが、ラテン語詩編の用語の問題です。アンセルムスの引用ではinsipiensであり、別の版ではstultusとなっています。後者は端的に愚か者を示しますが、アンセルムスの言葉はin-sipiens、つまり「非ー知る者」なのです。どうにかアンセルムスを擁護したい研究者の中には、これは知らぬ者から知る者になりうる可能態にある状態を示すとしています。だから、アンセルムスは誰かを論駁しようとしていたのではないと言われるのですが、神の存在を知と結びつけ、それの否定を知の欠如としているという構造自体は変わらないわけで、そのエクスキューズではアンセルムスを擁護できないでしょう。
 なお、私が個人的にこの解釈なら何とかアンセルムスを救い得るかなと感じたのが知人の未刊論文です。御本人の許可をとったので概略だけ言えば、アンセルムスの第1章に着目した解釈となっています。アンセルムスは『プロスロギオン』を始めるにあたり、長い詩を書いています。その冒頭では、「さてと、ちっぽけな人間よ、お前のよしなしごとからしばし逃げよ…幾ばくか神にて安らげ。お前の精神の《部屋に籠り》…《戸を閉めて》神を求めよ」("Proslogion", I.)とあります。つまり、気持ちを休めよ、身体的にも精神的にも孤独になれ、自己を見つめよ、と言うのです。だとすれば、「知らぬ者」を外部から論敵として導入して論争を妄想するというのは矛盾するのではないか、それが知人の理論仮説です。まぁアンセルムスさんと言えども数行前に書いたことを忘れることもあるんじゃないのと最初は私も思っていましたが、しかし、アンセルムスは同じ『プロスロギオン』第1章で「私はなんと憐れな者か、神から遠ざかりしエヴァの子らの一人、何を始め、何をなしたか?」(ibid.)と述懐しています。このように、アンセルムスは自らを神から隔絶した脆弱な人間としています。このことから知人は、アンセルムスが言う「知らぬ者」とはアンセルムス自身のことを示すと論じています。「神は存在しない」とまで神から離れた自分にさえも神は立ち戻るためのきっかけを自分の精神の内部に示している、だから、自分が何度となく神から隠れようとも神自らが絶えず語りかけてくれている。そうした神信仰を内的に省察していく過程において表現されたアンセルムスによる自己述定こそが「知らぬ者」という語であるとしています。そうした自己探求こそが『プロスロギオン』である、その証拠にアンセルムスは第4章の終わりに「汝に感謝する、善き主よ、汝に感謝する、なぜなら以前は汝を恩寵によりて信じていたが、例え汝が存在することを信じるのを私が望まぬとしても、知解せぬことができぬほどに、汝を光によりて今や私は知解するからである」("Proslogion", IV.)というように、神の存在を云々しているのはアンセルムス自身に関わっている事柄になっているからだと、知人は加えています。さらに、傍証として『ミーニュ教父業書』より「私が他の罪人たちと同じであるだけでなく、どんな罪人よりもさらに、全ての罪人よりも罪ある人間であると私は知解する」(PL, 158, 739)などなどのアンセルムスの著作の中での自己言及、すなわち、自らがどれ程神を否定している者であるかについての言説を取り上げ、「知らぬ者」はアンセルムス自身のことであると、知人は結論づけています。
 個人的にはーつまり徹底的に素人としてはー、「知らぬ者」がアンセルムスの自己述定であるという仮説はありえそうだなと思いますし、そう読んだ方が『プロスロギオン』を単なる神学的論争の種本として消費するのではなく、人間が自らを弱い者だと知ったことにより世界を善くするために生きようとする、そうした精神的格闘の書として読めるので、好みではあります。ただ一応知人の解釈にコメントするなら、アンセルムスの言葉使いに戻りますが、これの元はパウロ書簡である『第1コリントス』15章36節にあります。ギリシャ語としては特徴的な物言いで、そのラテン語訳がinsipiensなのです。物の道理を理解しない人、完全さ(vgl.『第1コリントス』14章40節)の否定、それがパウロの言葉使いです。そこでは明らかに他者に向けられています。従って、語の適用範囲を考慮すれば、やはり神の存在を否定するという事柄を自分に対峙する事態ー確かにそこには知人の解釈のようにアンセルムス自身も巻き込まれますがーとして問題にしているのです。従って、神の存在証明とは、それに着手した瞬間に如何なる知性を持ち、如何なる志を持とうとも、他者を攻撃する事態へと移行せざるをえないものなのです。実際、アンセルムスさんという人は基本的に悪い話を聞きません。カトリックの聖人様には自分に反論したり敵対したりする論客の行き先を徹底的に追い回して職から追放させたベルナルドゥスさんなんて人もおいでです。それと比べれば、鞭打ちによる強制教育に対して、縄で縛り上げられて枝を雁字搦めにされた木の話を持ち出して、「あなたはそんな木になりたいですか」と問いかけたなんて話が残される位には人間を大事に思っていたとされる人ですし、彼の残した書簡を見ても誠実な人柄が滲み出てきます。そんな人でも神の存在証明という議論に取り込まれるや否や、他者への序列づけを行うのです。つまり、人間の血の通った情感といったものは消え失せ、攻撃性のみが残されるもの、それが神の存在証明というものの内実なのです。では、それは何故か。
 神の存在証明は、存在ー非存在と分離して、存在の観点へと非存在を解消してしまうものです。存在ー非存在の図式は、例えば甘いー甘くないのように両者が世界に存立しうるようなものではなく、正しいー正しくない、善いー善くない、こうしたものと同様に、両者の共存を拒み、一義的な仕方で事態を解消するものです。前回では、アンセルムスの個人性あるいは主体性が一般的命題へと移行することによって、その個人性が剥ぎ取られてただの抽象的言説になることを、彼の考えが神学談義という市場の中で反復されて交易される際の物件化の過程として語り、それは私たちが投げ込まれている現代において私たち自身が主体性を奪われている現実との類比として見て見ました。今回は、さらにそこから一歩進みます。なぜ、奪われてしまうのか、あるいは、奪われることが成立してしまうのか。アンセルムスの議論から見えてくるのは、主体性を奪われる側に内在する考え方にその要因が存することです。
 存在証明は、思考を存在ー非存在という二分法により成立しています。そして、それは対立との共存を許しません。なぜ、許さないのか。日常的に行われる対立とは同じ次元の代替案のようなもの、甘いー辛い、煎餅ー大福、あるいは晩御飯をメザシと煮物の間で悩むとか、そういう類いのもの、どちらをも選ぶ可能性のあるものが殆どです。しかし、例えば、正しいー正しくないの場合、正しくないは選択されません。この図式は、対立するものを排除する思考なのです。そして、その排除の仕方は、対立を価値的に劣化したものとして抽象的に加工した上でなされます。さらに、この価値的序列付けが知らず知らずの内にあらゆる選択の根拠として刷り込まれていきます。本来なら、煎餅ー大福のどちらかが価値的に優劣があるわけではありません。しかし、選択する際の理由づけとして、どちらかが私にとって適切である、あるいは私にとって価値があるーありていに言えば、ダイエット中だから大福は間違っているとか、塩分の取り過ぎだから煎餅は駄目だとかーとして、価値的序列から理由づけをします。このように、対象に価値的序列づけを行う思考の端的な例こそが、神の存在証明なのです。すなわち、主体から主体性が剥ぎ取られていくその起点は、主体自身に内在されているのです。
 この点から類比として言えるのは、資本主義社会において主体性が剥奪される要因は、個人の内部に存していることになります。しかし、それは余りにも酷いのではないか。いじめられている原因はいじめられる側にあるという最低な言説を許すことになりはしないか。そうではありません。個人に内在するそれは外部からの強制によって染み付いたものなのです。資本主義社会の場合ー資本主義だけではありません、封建主義社会でも国家社会主義社会でも同じですー、つまり人間が共同して存在している場合、その人間同士は決して平等で対等な立場にはないということです。人間は、社会的関係性の中に投げ込まれています。だから、個人の在り方は個人自身が自由意思によって選び取ったものではなく、関係へと埋め込まれて自己に内在化させられたもの、つまり外部的諸要因によって構築されたものであるのです。従って、いじめられる側は既にいじめる側によって作り上げられた世界の中で捕らわれ人になっているのであり、その捕らわれを作り上げて強制する側をそもそも批判しなければなりません。
 同じことは、資本家と労働者にも言えます。そこには対等な関係などなく、労働者は生産手段を持たないがゆえに資本家の元で働かなければなりません。これは、労働時間が自由意思によって選択した状態ではありません。そうやって働かなければ賃金を得られず、従って生活のための資材を獲得できず、生命を維持できないのです。強制的にその構造の中に投げ込まれ、言わば社会構造的暴力によって抑圧されているのです。だから、この関係性を乗り越えなければ、労働者が自由な時間を持とうがなにをしようが、搾取の構造から抜け出すことはできません。約言すれば、外的な条件としての時間を操作するだけで内在化された抑圧の構造を変えないのであれば、それは結果的に抑圧の構造に滞留したままになります。まず、この関係を基礎づけるもの、すなわち二分法を基礎づける価値論的思考様式をこそ乗り越えなければなりません。その乗り越え方はどうすればいいのか。価値論的思考様式は神の存在証明に端的に示されている、それが今回見てきた内容です。だとすれば、存在証明を乗り越えていく思索にこそ、価値論的思考様式を乗り越えていく糸口があるのです。従って、神の存在証明を批判的に克服することこそが、人間を苦しめる構造を反転させる手がかりになるのです。
 確かに、誰一人として飢えも渇きも凍えも嘆きもしない世界なぞ夢物語でしょう。しかし、数百年前なら人々が自分の言葉で世に語ることができるようになることすら夢物語でした。技術的なことで言えば、コンピュータなんぞというものが出来るなんてアンセルムスの時代の人に言ったら驚くでしょう。だから、今の世で夢物語や理想像にすぎなくとも、それを少しずつ実現へと向けて歩み出すなら、現実のものになるかもしれません。現実のものにするために、僅かであっても抑圧からの脱却を手探りで目指しながら進むために、神の存在証明を批判的に思考していきたいと思います。
 なかなか話が進まなくて恐縮ですが、次回もこの視点からアンセルムスの議論を見ていきます。