sekiwataruの日記

Ph.D(filosofia)のソリロキア

【論考】若きマルクスと「存在論的証明」批判ー予備的考察ーアンセルムスの場合・第3回

※第3回です。集中的に論じているので、マルクス本人は今回も登場しませんけれど。

 ここでは、アンセルムスの言葉自体がどんな意味なのかではなく、アンセルムスの言葉がどういう意味をなすのか、どんな拡がりを持ち、それは私たちにどんな問いを投げかけるのかという視点で考えています。なので、アンセルムスの語を思弁的に考察することには手を抜いてましたが、前回のアンセルムスの言葉で気になる「自然本性natura」について少し。
 これを「自然本性」と訳していいかどうか、迷いは拭えません。前回での引用から分かるように、アンセルムスは自然本性の内容を「より大きいものを考えることができることのない何か」としています。そして、そうした「自然」に「在る」が関連づけられています。ということは、抽象的概念ではなく、実際に事実として存在するものであるとアンセルムスが語っているのです。従って、自然本性とは頭の中だけで考えられるものではなく、現実に現れる事態であることになります。すなわち、そうした自然本性が、人間の理解に示されているということがアンセルムスの議論です。
 何でこんなどうでもよさげな話をしたかというと、私たちが「自然」という語を用いるとき、それは何を意味しているのかを省察するきっかけとして良い事例だと思ったためです。マルクスも「社会は人間と自然の本質統一である」ということを言ってましたが、西欧思想史においてその開闢以来、「自然」とは本来的かつ根本的な問いとしてマルクス以前から継承されてきたものです。一応言っておけばこの「自然」とは「豊かな緑の中での生活」とかいう何ちゃらハウスの宣伝文句のようなものではありません。だいたい、現代で通俗的に言われる「自然」とは庭園やら枯山水やらの人為的かつ人工的に整備された景観であり、いわば「見ること」に属するものです。それに対して、西欧思想史で言われる「自然」とは、まさに存在者がその「在ること」全体つまり存在の根拠となる基盤であり、それは人間に対して現れて示されるものであり、人間の人為的かつ人工的な作為では到達できない位相のことを語っています。従って、私たちが抱く通念としての「自然」と、思想家たちが格闘した「自然」とはまるで違うものだということをまず理解して、その思想家たちの時代を精査しつつ彼らの理解する内実から考えていかなければなりません。
 たまに、アッシジのフランチェスコを現代的エコロジーの旗手と見なす向きもありますが、それをやってしまうとフランチェスコを私たちの理解内容に押し込むことになり、彼の言葉が持つそれ自体としての拡がりを埋没させることになります。スピノザしかり、マルクスしかり、彼らの言う「自然」とは私たちの考えている通俗的「自然」概念とは根本的に異なる、この視座の元に立って議論しないのであれば、それは現代の著者の勝手な思い込みにすぎないのです。
 相変わらず枕が長くなりましたが、アンセルムスの議論に目を向けます。

  しかし、この同じ知らぬ者が、私が「より大きいものを何ものも考えることのできることがない何か」と言うことこれを聞く時、彼は聞くことを知解する。("Proslogion", II.)

 しかし、これは嘘です。アンセルムスの神の規定は何を重点においたものなのかが曖昧すぎます。「より大きい」とは何でしょうか。お台場にあるユニコーンガンダムみたいな物理的な大きさ?それとも見せかけの高貴なこととか偉大なこと?あるいは態度が傲慢で尊大だとか?ああ、そういえば自称中世哲学者で何様な態度の方がおりました。確かに、あの方より尊大な方を考えることはできないですね。
 おそらくそういうことではないのでしょう。とはいえ、考えるための材料としてはもっと厳密な語の使用がアンセルムスにできたはずなのにしていないのも事実です。だから、何をどのように何に基づいて知解すればいいのかがよく分かりません。彼の考える「大きさ」を赤の他人であるこの私が知解できるはずもありません。知らぬ者には、まさに「知らぬ」ままなのです。
 語が曖昧であることは、歴史がその証左です。すなわち、アンセルムスの神証明を称賛するにせよ否定するにせよ、多岐多様な視点から論じられてきたという歴史、これがアンセルムスの神の規定は容易には知解しえない彼の個人的神体験の言表であることを如実に示しているのです。これについては、追々見ていきますので、さしあたって多くの解釈があることだけ指摘しておきます。
 この点、前の回で言及した知人の未刊論文において以下のように指摘されています。つまり、ここでの記述でアンセルムスは「知らぬ者」を三人称扱いしています。ともすると、「知らぬ者」とは有神論者が論駁する相手である無神論者のことであると読まれてしまいそうですが、ここはむしろ、神が存在しないかのように神から離れた自分の罪人的な在り方を「知らぬ者」として対象化した上での「対話的」、すなわちアウグスティヌス的な探求の道をアンセルムスが歩んでいることを表しているのだと知人は論じます。
 だとすると、初期プラトンの著作が持つ問題性と重なります。すなわち、初期プラトンの著作では、ソクラテスが対話相手に向かって、「君はXがYであることを認めるか」と語りかけます。しかし、問題はむしろそこにあるわけです。そのようにして語を定義することは、語が向かう事態を人間のロゴスつまり理性/言語により切り取って加工することです。人間のロゴスは全てを見通せるわけではないので、語を定義することから抜け落ちる現実というものが存在します。あるいは、語を定義することは事態を掬いきれないとも言えるでしょう。
 約言すれば、初期プラトンソクラテスが語を定義するその現場で人は「はい」と答えてはならないということです。むしろ、そうした語を定義する営みから脱却しなければならないのです。ソクラテスの場合、そうした語を定義することが結果的に何も言えていないことを示して終わります。プラトンの場合、初期から中期への移行、すなわち、人間の知識は完全なものをあっちの世界において見てきたこと、それを想起することにより形成されるが肉体によって閉じ込められた不完全なものになってしまうというプラトン哲学の展開へと移行されていきます。
 個人的には、そんなことに云々するよりも安心して食って寝る場所をどう確保するのか、確保するためには自分だけが安心できればいいわけではなくて誰一人としてその安心から零れ落ちてはいけないと考えて小さくても実践することが大事だと思っているので、どちらも趣味ではないのですが、まぁそれは今の問題ではないので。今は、アンセルムスは内的な対話的思考によって神の規定を表しているものの、その曖昧さによって『プロスロギオン』という著作が彼の個人的神体験の言表であることを強く見せていることになります。
 実際、この著作のこの部分は文学的構成としては失敗です。対話的に誘導しているものの、何も問題は解決していない、だからこそ後世に余計な議論を生んだのです。対話的に思想を言表するというのは、プラトンのように類い希なる文学的才能がなければ非常に難しいことなのです。だから、本来なら全く対話的でない思想家を対話方式で紹介しようとするのはそこいらの大学教授様なんぞにできるはずもなく、結果の所そうした文章は著者の教授様の薄っぺらでちゃちな信条の押し売りにすぎず、せいぜい自己啓発本擬きの内容しかないわけです。そんなものを有り難がるのは肩書きで判断する程度の御仁すなわち著者様と同じ程度の薄っぺらでちゃちな知性の持ち主だけということになるわけですーどの大学教授様の何についての著作のことかはあえて申しませんが、ここでもし御立腹される方がおられましたらそれはそういう薄っぺらな知性をお持ちでちゃちな思想がお好きという御自覚をおありだということで、そういう自覚がおありになること自体は大変結構なことです、まさに「無知の知」ですねー。
 さて、話がずれてしまいましたが、アンセルムスは文学的には失敗している設定を押し通します。しかし、ここで見えてくるのは、「知らぬ者」という神から離れた性質と、しかしやはり神を知解しようとすることを通して神へと向かう性質と、この二つの内的な分裂の構造です。この時、アンセルムス自身は神へと向かうことを希求しています。そして、「知らぬ者」たる性質を徹底的に対象化することによって何とか自分から切り離そうとしている葛藤を読み取ることができます。その際、対象化することにより価値的な序列づけをしているのです。「知らぬ者」を内的に反省しながら、しかしそれからの離脱をはかる、そこに人間が自分自身を二分法的に分裂させる過程が反映されています。これは自分の外部に在りもしない絶対的で抽象的で曖昧な価値規範を定置することにより成立しています。しかし、ここでその分裂を肯定してしまえば後は価値的な序列づけの構造へと滑り落ち、従って、主体の主体性は絶対的な価値規範の中へと埋没して抽象化されていきます。そうなれば、人間はもはや主体ではなく物件とされ、かけがえのなさは消え失せて数字で判断されるだけの物品とさせられていきます。そのようにして扱う/扱われることがさらに人間を価値づけて物件化することを増幅して、人間を切り捨てる事態へと凋落していくのです。
 だから、まさに先述したように、外部に絶対的で曖昧な価値規範を設定して、自分を内的に分裂させて対象化する営みに抗わなければならないのです。対象化に「はい」と言ってはならない、それを拒絶する思想を自らに課すことが、主体の主体性を取り戻すきっかけとなり、従って自他の分裂すら拒否して他の全ての人間の苦しみこそが自分の苦しみになるのだという問題意識になっていくのです。しかし、それは単に問題意識を持っているだけの独り善がりでしかないのではないか、そういう疑問もあるいは湧くでしょうが、この問題意識を持つことと実践との差を埋める作業は何によって出来るのか、それは以降に考える課題になります。
 とりあえず現段階では、神の存在証明を見ることで展望として開けてきたのは、人間を分裂させて問題を抽象的次元に解消することは背後に絶対的で曖昧な価値規範に依存した序列づけがあり、その序列づけを肯定する営みが人間を苦しみに閉じ込めることになるのだ、という事態です。
 今回もまだまだ真っ暗な洞窟の中を手探り状態で模索しています。どうにか光のある場所にたどり着けたらと思いつつ、さらに考えていきたいと思ってます。