sekiwataruの日記

Ph.D(filosofia)のソリロキア

【論考】若きマルクスと「存在論的証明」批判ー予備的考察ーアンセルムスの場合・第4回

※第4回です。

 前回、対話的な思想ではないものを対話により表現することは単に著者の薄っぺらでちゃちな妄想の押し付けになってしまう危険を孕むと言いましたが、問題は薄っぺらでちゃちな著作がなぜ業界から寵愛を受けるのか、ということです。その薄っぺらさとちゃちさがそもそもどこから来るかと言えば、社会的通念を何も考えずに肯定するだけのただのコピー機にすぎないことに起因しています。世界にどれ程の苦悩や悲劇があろうとも、それを単に物の見方の問題にすり替えることで現実そのものに触れることなく御自分の妄想の世界に安住する、言い換えれば、何とも苦闘することなく何にも反抗することなく悪を許して世界を受け入れることです。それは、何も考えていないことと同じです。思想とは当たり前ですが考えることです。その考えることを放棄したのが薄っぺらな妄想の内実です。しかし、だからこそ、業界的な受けはいいのです。つまり、どんなに安月給で悪条件であろうとその原理は善なのだからそれを受け入れましょう、こんなふうに支配者にとっては好都合な言説になるのです。学者先生というのは、そういう時だけ妙に賢くなるので、そうした受けの良さをちゃんと意識して物を語ります。そんな意図的な支配体制の構造への従属の言説を、支配側が嫌うわけがありません。こうして薄っぺらい言説と支配構造との蜜月関係が出来上がって、それが大々的に流布されることになります。
 だから、私たちはまさに肯定を批判しなければならないのです。その言説が本当は何を意味して何処に向かうのか、これを見ていかなければならないのです。確かに、薄っぺらでちゃちな妄想にどっぷり浸かって自分の知性も薄っぺらでちゃちなものにしてしまえば楽です。しかし、それは知性にーカント的な言い回しを借りればー「阿片」を与えてるにすぎません。それでもいい寧ろそれこそが正しい、そう考える御仁に対してそうじゃないぞという余計なお節介をするつもりはありませんので、どうぞバッドナッツ中毒のままでいて下さいとしか言い様がありません。ただ、一つ指摘しうるのは、世界が善だの何だのと説いていると持ち上げられているその思想家は、世界は善である、そのはずなのに苦痛や不義などの悪が世界にこびりついている、だからどうにかしてその悪を剥ぎ落として世界に善を取り戻そう、そもそもはそうした視野であることをお忘れなく。にこにこ笑って平然と悪を見過ごしていられるような思想なんてものは思想ではありません。ただの妄想です。歯を食い縛りながら世界の悪が消えないままであっても一つずつ花を植えて変えて行こうとする、思想とはそういうものなのです。
 一見関係のない枕で恐縮ですが、以下はアンセルムスの言説の続きです。 

  そして、彼が知解するところのものは彼の知性の中に在るのである、もし彼がそれが在ることを知解しないとしても。("Proslogion", II.)

 だんだんと表現がくどくなってきてますが、思想家がもってまわった言い方をしはじめたときこそ私たちは懐疑的にならなければなりません、カントの「定言命法」しかり。まず、「それが在ることを知解しないとしても」この言い方が引っ掛かります。目に見える世界の中で「より大きいものを考えることができることのない何か」と言われて思いつくのがクジラですが、私はリアルでクジラを見たことはありません。従って、クジラが本当に存在するのかを体験から語ることはできません。その意味で、クジラが存在することを知解しないーこの用語もいまいち分かりにくいですがーとしてもその概念は持っています。もし、アンセルムスの議論がこれと類比してるなら、その物言いは明らかに「より大きいものをなんちゃら」が示す所のものが予め存在することを前提にしています。従って、本来的な意味での証明ではないのです。あくまでも頭の中での対話的な模索の作業です。知人によれば、イタリアの研究者にアンセルムスの神の存在証明を禅の「公案」だと論じた方がいるそうですが、まさにそうした内的な問いかけなのです。
 それを踏まえた上でアンセルムスの模索に沿って考えるならば、完全に概念的なものとして円周率があります。円周率は無限に数が続いていくので、その数列の中には私の誕生日の数字と同じ配列があることになると言われます。しかし、それは実際に見たわけではなく、単にありそうなことの次元です。まぁそういうこともありうるよね、という程度のことであり、それが現実にあるかどうかを確証しているかは別な話です。
 ありそうなことの次元でいいなら、宇宙人が地球にいることもありそうなことではあります。でも、普通はー『Xファイル』のモルダウは別ですがーそうは考えません。それは、知的生命体が外宇宙からやって来ることは無理なこと等々を知っていて、宇宙人がいることに確からしさがないことを理解しているからです。従って、問題は確からしさの次元です。
 この確からしさの点で言えば、円周率に誕生日と同じ数字の配列があるのは確からしいと考えます。それは、円周率という語の定義の中に数字が無限に続いていくというものが入っているので、無限に続くならそういうことがある確からしさを考えることはできます。とはいえ、それは現実には検証できていないわけで、確からしさの根拠は語の定義の中にだけあるのです。つまり、そういうものとして在るという事柄が前提されているために確からしいと考えているのです。宇宙人の存在を信じるモルダウも、宇宙人は地球の文明を遥かに超えた超文明を持っていると定義づけてそういうものとして在ると見なすから、宇宙人が地球で何かしてると思ってしまうわけです。つまり、確からしく感じてしまうのは、そういうものとして在ると前提することに因ります。その意味で、前提を否定してしまえば、そんなものは存在しないと一蹴することができるのです。
 アンセルムスの話も似たようなもので、「より大きいものをなんちゃら」なんぞというものは存在しないよと否定してしまえば終わりです。本来ならアンセルムスがやらなければならないことは「より大きいものをなんちゃら」が何が何でも存在しなければならないということを解き明かすことです。ですが、そんなことはできっこないのです。「より大きいものを考える」のが人間です。人間は自ら対象を常に作り出して考えています。技術革新やら芸術創作などの御大層な話でなくても普通に日常を生き抜いていれば、絶えず絶えず自分の限界と格闘してその限界を克服しています。人間は考え続けているのです。考えを固定してしまえば、それはもう次の段階においては小さくなってしまいます。「より大きいものをなんちゃら」を考えた時点で、それは考えを固定化してしまっています。だから、もっと大きいものを考えるように向かうことができます。従って、人間の有限的な思惟の中で考えられただけの言わばちっぽけなものが「より大きいものを考えることができることのない」の内実なのです。
 この【考察】では、マルクスの宗教批判と問題意識を共有しながら、すなわち、神を語ることは人間が世界を作り上げるための秩序を構想する構造の反映であって、神の存在証明はそうした人間の秩序形成、を論じる論じ方の写し鏡になっている、だから、神の存在証明を批判的に乗り越えることによって人間を縛りつける秩序の構造を脱却していくための手がかりを考えています。その視点から言えることは、単に頭の中で考えた語の定義を現実の人間の問題に適用する、まさにそのことが近代における人間を物として扱う仕方の構造である、ということです。
 神の存在証明として語られる議論では、元来は個人の主体性から考案された概念を主体的側面を切り落として文字面だけに関心を集中させます。つまり、「より大きいものを考えることができることのない何か」というまさにアンセルムスという個人の主体性から発言された語を、そうした側面を無視して、単なる神学的問答の文句にしてしまっています。これは、事態を主観と客観に分断して客観を取り上げる、そうしたことができるという観念的前提に因ります。さらに悪いことに、そうした観念的前提によって思想を切り取る側の人間が凡庸だと思想はただの屁理屈に成り下がります。思想家の意図を汲まずに壊れた拡声器よろしく世界は善であるなんぞと妄想を垂れ流す大学教授様もおいでですが、宗教的幻想にどっぷり漬かった側の方だけでなく、自称マルクシストの方でも五十歩百歩です。
 随分と前に読んでいて椅子から転げ落ちそうになったブログ記事がありまして、人間には自殺する権利はない、なぜなら権利は人間の生存に関わるからだ、と宣っておいででした。まぁ随分と薄っぺらな権利概念をお持ちだなぁとは思いますがそこはそれとしても、その方の概念を適用するならば、権利は自殺に関わらないという概念内部のことしか語っておらず、自殺する権利とは「甘い円周率」と同じでカテゴリーミステイクを犯している、ということしか言えていません。一方で、人間が権利を持つか否かは現実の人間の活動を見抜くことからしか論じることはできません。つまり、頭の中で概念をこねくりまわすことと実際の人間に関する事柄とは位相が異なる、それにも関わらず頭の中で考えた概念が現実の人間を領導すると思い込む観念的倒錯がそこにあるのです。
 上記のような薄っぺらな概念規定では現実の人間から苦痛を取り除くことはーいくら理論がなければ実践はなしえないと嘯こうともその理論が机上の空論である限りーできません。そして、これがまさに神の存在証明の根本的問題、人間の頭の中だけで考えられた語の規定が現実の「神」に妥当するのかという問題と関わります。頭の中だけで考えた概念が人間の在り方を規定する、この問題がそこに横たわっているのです。
 しかし、単に「神」の存在を否定すれば全てが解決するかというと、そうでもありません。問題は神を消した所で依然として残存する人間の苦痛、それをどう取り除くかということです。上記の浅薄な自称マルクシスト様の例を使わせて頂くと、権利は生存に関わるとして、では何故それが人間に属することになるのかという問題は詳論することのできないまま、結局は人間とは理性的な動物であってだからして云々という中世暗黒時代の自然法論のような、それ自体検証不可能な信仰箇条を反復することになるわけです。とすると、そんな軽薄な権利概念を否定してしまえば自殺する権利云々という妄言も同時に否定されるわけです。しかし、それによって人間が自殺する権利を持つということではありません。そもそもこの下らない議論は問いの形式それ自体が根本から間違っている、その意味で根元から腐った戯言なのです。自殺は善いか悪いかを形而上学的に問う事態ではありません。「自殺は悲しい」「人間はね、寿命を全うするべきだよ」とは『刑事コロンボ』の台詞ですが、自殺とは人間の死を迎える在り方として相応しくありません。しかも、大抵の自殺は強いられてーいじめや貧困や病気その他様々な苦痛ー命を断つことにならざるをえなかったのです。だとしたら、問いは如何にして自殺を止めるかです。自殺という人間の苦痛を減らす、それは一般的命題により解決するのではなく、個別の苦痛を一つずつ消し去ることによってのみ可能となります。そして、その個別の苦痛を取り除くことが課題なのですー個別の苦痛を解決するための共通の土台は確かにあります、それはまずお金です。お金があれば、例えばいじめの環境から抜け出して別の生活をすることもでき、あるいは病気の治療をすることもできます。お金がないから死を強いられるのです。逆に言えば、お金が一部の富裕層に集中している事態は人間の苦痛を増幅させる危険があるのです。従って、お金を必要な所に必要に応じて再配分できる仕組み作りが苦痛の除去のための共通基盤ですー。それをするための努力を何もせずに自殺する権利云々なんぞを問う輩の神経を疑います。それが「科学」だと宣われるのなら、そんな科学はドブにでも捨ててしまえば宜しい。まぁ、そんな下賎な知性しかお持ちでないから、その頭の中の教条的マルクス主義はただの妄想でしかないのですよ、残念ですね。話が脇道にそれましたが、現実の人間の苦痛を抽象的な次元で語ることが如何に愚劣かということはお分かり頂けたかと思います。
 同時代的視点で言えば、様々な個別的な人間の苦痛を人権や平和という抽象的な次元から処理する言説が昨今あります。しかし、そこで語られる人権等は単に頭の中だけで考えられた抽象的な屁理屈にすぎません。その語が生み出されて来た過程つまり名も無き人々の命をかけた闘いの歴史は棚上げされて、教科書的な問答に成り下がります。だから、そうした言説に反対者から疑問を呈されても返答としては憲法に書いてあるからだ位しか言えないのです。そうなると、反対者は憲法を変えればいいーつまり神の概念を否定すればいいーということになり、問題は抽象的な政治談義にされてしまいます。しかし、これは現実に在る様々な個別的な人間の苦痛を取り除くことにはなりえません。どちらの側も御自分たちが当事者でないから、苦痛は他人事に過ぎないのです。問いの形式がどちらの側も間違っているのです。問いが向かうべき先は、人間の現実的な苦痛の除去の仕方です。まぁ言論の自由がありますのでお好みならいくらでも抽象的な政治談義をなさって結構ですが、それは御自分たちの自己満足に過ぎないのです。あくまでも、問題は個別の人間において生じているのです。
 この認識こそが外部に絶対的で曖昧な価値規範を設定して、自分を内的に分裂させて対象化する営みに抗うための出発点です。この抗いは、単に独り善がりの問題意識で終わらないのです。それは、問いの形式が根底から変わることを含むからです。対象化を拒絶する思想とは、対象を単に思惟する営みではなく、個別的な苦痛を個別的な仕方で現実に取り除く営みへの移行なのです。個別的な仕方だからこそ、主体の主体性を取り戻すきっかけとなります。そして、その個別性の中に他の全ての人間の苦しみの除去と自分の苦しみの解決とが同時に遂行されていくことになります。
 まだ以降続きます。