sekiwataruの日記

Ph.D(filosofia)のソリロキア

【書評ー前置きー】Silva, Ludovico, "La Alienación como Sistema" , Alfadil Ediciones, 1983

 Amazonさんで探したのですがどうも掲載されていないようなのでこちらで取り上げたいと思います。マルクスの疎外についての著作なので、ついでに個人的なマルクス疎外論への見通しをつけることも兼ねて論評していきます。今回はそのための長い前置き。著作の紹介自体は次回です。まぁ素人の浅知恵ですがご寛容の程を。
 著者はルドヴィコ・シルヴァ(1937―1988)の名で知られているベネズエラの思想家・詩人です。日本語訳された彼の著作があるのかは寡聞にして知りませんが、マルクス読解の中ですらも言及されていた記憶がありません。どうも、日本の学問好きの手合いはドイツやフランスを中心とする西欧の方々には必要以上のお追従と媚びを表されて西欧セレブの仲間入りを果たしたと御満悦の御様子の一方で、南米や南欧などを軽視する傾向が鼻につきます。和辻哲郎の『風土』なぞその最たるものでその著作からは自虐的な卑屈さを感じますが、それはさておき。以下で扱うこの著作のタイトル、日本語に直訳すると『体系としての疎外』となります。確かにsistemaは体系と訳しえます。しかし、こう訳してしまうと、ヘーゲルに代表されるドイツ観念論の体系化された望洋な哲学思考をイメージしてしまいます。しかし、著者の言いたいことはそうではなく、疎外という語は様々な概念と関係しあいながら一つのまとまりを作り上げていく、あるいは、マルクスを理解する上で疎外という言葉は彼の多岐に渡る思想的格闘に一本の道筋をつけるものとして提示していて、そういう点を強調したタイトルなので、カタカナ語で「システム」と軽く置き換えたほうが本書の内容に即しているように思われます。
 さしあたり、著者のマルクスにおける疎外理解に結びつけて言うべきことは、疎外はたとえそれをマルクス理解に必要ないと切り捨てるにせよ逆にそれを重視するにせよ、宗教批判を通して現実批判を行っていた時期である若きマルクスの考えをきっちりと読み解くことなしには語ることはできるはずもないということですー後で例を挙げますがテキストの読解抜きに断定する傾向が過去にありますー。マルクスは宗教を現実の苦悩を写し出すものであるとし、しかし、その写し出す仕方は宗教的な抽象による、すなわち、人間が生きている現実を天上的在り方と地上的在り方とに分裂させ、問題を全て人間が頭の中で観念的に考え出した抽象に過ぎない天上的在り方へと還元させて現実の苦痛を捨象するというものであることを批判します。そして、こうした宗教的な観念倒錯がもはや宗教教義を必要とせずに世俗的な仕方で完遂されているのが近代国家であることを暴き出しすのです。近代国家で言われる市民とその理念、そうしたものを実現することをこそ至上命題とすることは、抽象的な市民概念の中へと現実の生きた民衆の苦悩を取り込んで霧消化することになるわけです。こうした事態の中で、宗教を乗り越えるその仕方がまさに近代国家の抽象を乗り越える在り方となる、これをテーゼとして若きマルクスは格闘するわけです。多少論評の仕方は異なりますが、本書でもこのことが指摘されています。そして、その過程から出てくるのが疎外です。
 この疎外という語、ヘーゲルが自らの哲学の中で用いて、フォイエルバッハが宗教を断罪する脈絡で使ったために、何やら御大層な哲学概念のように聞こえてきますが、本来は、疎遠になる、よそよそしくなる、遠く離れるといった意味です。この疎外という語について予備的なことを付け加えると、alienación/Entfremdungはラテン語のalienatioの訳語です。実際にラテン語圏内でどのように用いられてきたのかの例を探す上で便利なサイトに、Corpus Thomisticumというトマス・アクィナスの全著作が読めるものがあります。ここで著作の中から単語を検索できて、13世紀中世における語の用例探索に便利です。因みに、中世哲学研究者による選民意識丸出しの妄言に付き合うつもりはない私のような彼らから見たら卑賎な人間でも、こういう便利なサイトがあること位は学部の哲学史の講義で教え頂いて知ってます。世界はよく見れば善だというような発言者の視力を疑いたくなるような戯れ言を垂れ流すなら、こういう専門外の若い研究者に有用な情報を流して差し上げたらいかが。で、このサイトで調べると、余り用例はないのですが『神学大全』に限って言えば、1)第1部第111問題第3項主文、2)第2部の1第28問題第1異論、3)第2部の2第173問題第3項、4)同じく第175問題第1項主文に見られます。それぞれの細かい議論は個人的に全く興味がないので詳論は避けますが、1)は天使の力が人間の想像力に影響する際に人間には意志があるために場合により人間の身体的感覚からalienatioされて行われあるいはalienatioなしに行われるというものー結局alienatioの有無の基準は何なんですかねー、2)脱我extasisはalienatioを含意するとの誰が言ったかは知りませんがそういう異論がありますよという提示、3)預言ーノストラダムスの大予言のような未来予想ではなくて神の言葉を人間が預かってそれを語ることーは感覚からalienatioされずに生じるが、それを知解する上では感覚からのalienatioを時に必要とする、というような言わば心からどうでもええわという感想しかない言説の中で出てきます。しかし、話の内容はしょうもない事柄とは言え、語の使用やその文脈を見ると興味深い発見があります。2)の例は異論ですので聖トマス様の有難い御高説ではないので除外すると、全てalienatio a senisibusー属格とaで距離を示しますーつまり感覚から離れていること、私の見たり感じたりする事柄でありながらそこから引き剥がされていってしまうという事態を示しています。従って、疎外とは何らかの事態からの遠ざかりあるいは或る事柄との隔たりを意味します。さらに言えば、alienatioが登場する場面では必ず神的な啓示つまり彼岸からの呼び掛けとの関連が語られています。神的な権勢が私に作用して支配することで私のものである言葉や思考が私から遠ざかる、この遠ざかりがalienatioなのです。
 神なんぞというものが人間の構想から自立して存在するわけはないのですから、こうした神的なあるいは悪霊的な力は人間の想像の産物に過ぎません。これをフォイエルバッハ的に言い直せば、人間が生み出したものである宗教という妄想あるいは心情の結果物に過ぎぬのに、つまり、自分が自分で神を作り上げたにも関わらず、自分から遠ざかっていき、さらには神が自分をがんじがらめにする、これがフォイエルバッハの言う疎外の射程です。しかし、マルクスの語る疎外は労働という事態の現実を表象する際に登場します。これをどう評価するかはマルクスを読む私たちの問題ではありますが、さしあたり言えることは以下のようになります。本当の意味で人間にとって「疎外」という事態が立ち現れるのは、神について云々するような観念の場ではなくて、現実の人間の実際の活動、つまり労働のうちにあるのだというのがマルクスの言表なのだということです。もう少し踏み込みで言えば、マルクスフォイエルバッハと同じく疎外という語を用いながら、マルクスフォイエルバッハに対して本当に疎外が問われるべきは人間の現実的活動についてだと論じているのであり、従ってそもそもの立脚点がフォイエルバッハとはまるで違うことが分かります。あるいは、マルクスフォイエルバッハに対してこう突きつけたと言えるかもしれません、問題はそこにあるのではない、ここにあるのだ、と。
 このようにして語られているマルクスの疎外についての研究は、良く言えば多種多様、悪く言えば玉石混淆の体を現しています。とりあえず、日本語で読めるものに以下のようなものがあります。マルクスの疎外は、初期マルクスの言であるためにそれは未熟なものであって後の科学主義においては捨て去られたのだという点で述べられたものにオイゼルマン著樺俊雄訳『マルクス主義と疎外』青木書店1967年なる本がありますが、このソビエト共産党プロパガンダ的書籍はもはやたいていのマルクス疎外論理解の参考文献として挙げられることはありません。しかし、この本で言われている事柄をしっかりと批判して克服しておかなければ、疎外についての誤解の根を引きずったままになってしまうのではないかとも危惧しています。そのため、本当ならこの書籍を徹底的に批評しなければならないでしょうがさしあたりの視点として、疎外はフォイエルバッハ人間学主義の呪縛に囚われた概念であって後のマルクスエンゲルスの作品で定式化された社会的歴史的発展の客観的過程には至っていない、こうオイゼルマンが述べる背後には国家社会主義的独裁権力の絶対化が存します。初期マルクスは規範的概念を扱っていてそれはまるで駄目だ、自然法則に因る発展を定式化した記述的概念こそが本当のマルクスだと言う時、それは人間が自らの意志によって行為することをブルジョア的であり、それは自由ではなくてただの自分勝手と断罪し、そうではなく、民衆が党による支配を受け入れることを決めるこそが自由であって、民衆は党の支配の元での機械となることが唯物論的なのだ、こうした前提によってその言説が成り立っているのです。
 ちょっと話は横道ですが、20世紀の言語論的展開を体験した私たちの世代において、ある文章が記述的か規範的かを厳密に区分することが果たして可能なのかをそもそも疑ってかからなければなりません。「信号機が赤い」はたしかに事実記述的文ですが、しかしそれは同時に「信号機の前で止まれ」という道義的命令を含んでいます。このように、主語概念が人間の社会的規約によって成立している事態であればそれを事実記述的に表現したとしても、その文には人間に対する規範的意味が示されていることがあるのです。また、「林檎が赤い」における林檎は自然的な意志持たない物体であり、人間に対してそういうものとして林檎が表象していることを示していますが、これも発話者の状況や文が発せられた脈絡においてはー目の病気で見えなかったのが見えるようになったとか飢饉や戦争で植物が生えなかったのに実っているとかー単なる事実記述的文ではなくなります。となると、そもそも記述的か規範的かで或る文の中で語られている概念を分類すること自体がもはや支持できないと言うこともできます。話を戻しますと、オイゼルマンのように露骨な方はともかく、初期マルクス疎外論は後期マルクスにおいては捨て去られたという解釈を学者先生が語る時、そこにこうした民衆を機械化するあるいは民衆の自由を蔑笑する視点が含まれていないかを私たちはしっかりと判断しなければならないのです。
 他にも、アルチュセールさんの『マルクスのために』(河野健二・田村俶・西川長夫訳、平凡社ライブラリー、1994年)なぞも、オイゼルマンさんとは違う視点ではありますが、初期マルクスは後期マルクス理解には必要がなく、従って本当のマルクス理解には無用であるという解釈をなさっておいでですが、アルチュセールさんの場合は明らかにマルクスマルクスとして理解することよりも、西洋形而上学的体系を乗り越えていくための手がかりをマルクスヘーゲル哲学を克服した道程に求めるという企図によって読み解かれているので、それをそのまま受け入れることは出来ず、一つずつそこで語られている命題を判断しなければならないのです。
 このように、マルクス疎外論を批判する言説には、その言説の背後にある前提が強く反映されていると言えます。とはいえ、これは疎外論を積極的に評価するような、ポーピッツ著小野八十吉訳『疎外された人間』未來社1979年やガロディ著海野洋訳『対話の価値』サイマル出版1968年も同様で、後者はマルクス疎外論キリスト教的原罪論に接ぎ木して宗教と共産主義政党との連携強化を目論見ます。ここまでやられると笑うしかありませんが、この議論もやはり無視するのではなく克服する必要があるでしょうーその試みは本ブログで多少やりましたー。
 こうした明らかに政治的意図によってマルクスを読む傾向とは別に、ヘーゲル哲学から継承された問題として読むルカーチ著平井俊彦訳『若きマルクスミネルヴァ書房1958年や、フロイト的な抑圧心理を基軸にしながらのマルクーゼ著良知力・池田優三訳『初期マルクス研究』未來社1968年など、色々とありますが、私たちにとって必要なのは、やはりマルクスのテキストそれ自体に向かうことであり、確かにルカーチさんやマルクーゼさんの思想は傾聴すべき点もあると思いますが然しながらそれはマルクスとは違う人の考えであってそれを経由することは言わば旅行ガイドを読んだから東京に行ったことがあると公言するようなものです。
 このように色々な方が様々なことを言っていて更に互いに全く異なる内容を議論している理由は以下のことから類比的に推察できます。昨今、青白い表情をして蚊の鳴くような細い声で御歌を合唱されている方々が「アーティストが政治を語るなんてダセぇ音楽で勝負しろ」と仰っておいでなのを耳にさせて頂きますが、そういう方々こそ、その実、抑圧する側の支配構造の内にずぶずぶと浸っておいでの惨状を拝見します。そういう方々に対して、「アリストテレス曰く『人間はポリス的な動物である』のだからして、自らの生きている場を作り上げる過程に参与することのうちに人間は自らの自然本性ないし類的本質を実現するのであって云々」とか、「そう言ってること自体が他者批判して音楽とは関係ないわけで、それこそがダセぇの極地っスよね」とか、そんなことを語っても無駄なのであって、というのも、そういう「政治的発言はダセぇ」と御題目のように唱える奇特な方々にとっての「政治」とは体制批判を意味していて、直接的な体制賛美あるいは沈黙や素通りを決め込むことによる間接的な体制容認といったものは政治ではないので、自分たちだけは「ダセぇ」にはならないということになるのです。つまり、「政治」という概念が、体制側かそうでないかという言わば猿山のボス猿を決める喧騒のような粗野で浮泛な仕方で決めつけられていて、他の議論を受け入れる度量がないからです。そうした方々の政治概念を乗り越えていくのも必要な作業ですが、このことから類比的に言えるのは、疎外を不要と断じようが重視しようが、そこで言われている疎外という言葉の意味内容が相互に噛み合わない、いわば共約不可能な状態となっているのです。だからこそ、マルクスのテキストに向かう、今回取り上げた『システムとしての疎外』はまさにその必要性を再確認させてくれます。
 本書は、以下のような問題も私たちに想起させてくれます。疎外論が中心かどうか、そういう問いよりも、何故あるいはどのような話の筋道においてマルクスは疎外という言葉を用いたのか。言い換えれば、マルクスの物言いを研究対象として外部から覗き込んで切り刻むような仕方で扱うのではなく、マルクス自身が語っているその現場に戻す作業の必要性、このことです。
 さて、前置きが長くなりましたが、次の記事で『システムとしての疎外』の内容を見ていきたいと思います。