sekiwataruの日記

Ph.D(filosofia)のソリロキア

【論考】初期マルクスによる阿片としての宗教ー第2回

※第2回、続きです。

2、「宗教は阿片」をめぐる解釈

 以下で見ていくことにしますが、マルクス主義を自認する方々の中でも良質的な人々でさえ、いや、というよりも良質的な人々の方が、「マルクスは宗教を良い人と言っている」という解釈へ向かう場合があります。これは、単に解釈史の問題というよりも、政治的な思惑が入り込んだ歴史的現象というべきものと思われます。良質的なマルクス主義者であれば、大国の論理で雁字搦めにされたいわゆる「マルクスレーニン主義」なるものについて、すなわち、社会主義国家の体制維持のためにでっち上げられたレーニン流の唯物論や史的弁証法といった様々なマルクス主義の教説について、それがマルクス本人とは全くの無関係な只の国家独裁権力強化の教条主義でしかないことはすぐに分かります。例えば、宗教は民衆を惑わすものであるから「無神論」こそが正しいのだという独裁的弾圧に対して、マルクスはそんなことは言っていないー事実、マルクスは人間の主体的行為である「信じる」ということに関わる信仰の自由を生涯一貫して擁護しています。しかし、それは特定の宗教的上流階層のみに諂う自由ではなく万人に共通する行為の自由という観点からでありますがーと論じることになるわけです。宗教は人間の欲望を歪んだ形で映し出している。その鏡を廃棄するだけでは変わらない。それを必要としてしまう程に疲弊させられている人間の現実をこそ変革しなければならない、こう考えるわけです(例えばMachovec, M.の著作を参考に)。しかし、そうした教条主義を批判することは自らの学者の立場のみならず生命の危険にすら及ぶことになります。そこで、西側のキリスト教が手招きを始めたのです。西側に来て東側の無神論に反論するようにと誘われ、そこで丁重に扱われた人々は反社会主義の宗教本を著すことになりました(例えばBloch,E.の『キリスト教の中の無神論』。邦訳は何と言うかまぁ「もっとがんばりましょう」という感じですね)。このような歴史的状況を考慮に入れると、現代でもまことしやかに囁かれる「マルクスは宗教を良い物だと言っている」という解釈は学問よりも政治的目論見ー宗教者の票や支持を集める等ーによる言説であるという側面も見えてくるのです。
 では、どのような仕方でキリスト教マルクス主義に接点を持ったのでしょうか。幾つもの文献があります。何でもかんでもあらゆる思想がキリスト教カトリシズムによって理解されうるような論調があり、その代表格たるジャック・マリタンという著名な哲学者は、マルクスが行ったと彼が理解した限りのヘーゲル哲学の超克と唯物論の確立をキリスト教的な思惟体系の中で遂行されたものであると言っているそうですー知人の受け売りー。
 さらに、アンセルという司教さんの書いた論文では、中世のトマス・アクィナスキリスト教教義と反発するアリストテレスの哲学を学んでカトリック教会の思想を発展させたようにキリスト者マルクスを学ぶことに怖じ気づいてはならないと語っています(L'Eglise en face du communisme, 1952。後述する論文集に所収)。世界史の教科書に名を残すような聖トマス様と御自分たちが同じ知的レベルにあるとお考えなのかしらと思ってしまう文章ではありますが、他にも、本来なら『資本論』はキリスト者が書くべき視点であると言ったロップスさんという人もいるそうですーこちらは知人の受け売り、再びー。いやむしろ、キリスト教的な教義信条を批判したからこそ、マルクスは『資本論』を書けたのであって、教義にしがみついている限り、労働者が抽象的な交換価値に呑み込まれて自らの労働を労働力という商品として売り渡さざるを得ない構造に切り込めるかどうかは疑問ですが、それはさておき、マルクスの経済学はこちらでもどうぞおやりになって下さいと遠回しに仰っているような気がしてきます。ということを考えていると、やはり蛇のように狡猾な方はおられるようで、ファルクッチさんという司教さん、より直接的に、

  唯物論無神論ないしはそれに基づくマルクス主義は、全くもって誤謬であることは確証される。だからといって、…マルクスは諸々の経済学的見解(可変資本、使用価値と交換価値、貨幣等)を論じたが、それらは教会の領域とは全く関係ない内実を持った見解を作り上げているということを付け加えなければならない。(Falcucci, B., Tout est-il faux dans le Communisme?, en "Communistes et Chretiens", Chronique sociale de France, 1952。ここに上掲したアンセル論文が所収されています)

 と述べています。簡単に言ってしまえば、信仰と経済を分離して、経済のことはそちらで自由にやって下さい、但し信仰や教会内部の話は一歩も譲りませんという何やら巧みな政治的談合話を聞かされているような気分になる話をしています。
 以上、ちょっとスペースをとって、キリスト教側からの手招きの仕方を見てみましたが、この論理、すなわち、信仰はキリスト教で政治経済はマルクス思想というレトリックが、逆にマルクス主義者側にも流れ込みます。その中で、「マルクスは宗教を良い物だと言っている」という解釈が出てくるわけです。その一例を見れば他の話も同様の論理なのですべからく理解できます。
 それがガロディの邦訳タイトルが『対話の価値』(サイマル出発会)とされている著作です("De L' Anatheme au Dialogue", Plon, 1965)。この著作の中で、ガロディは、キリスト教キリスト教として上手くやっていき、マルクス主義マルクス主義として上手くやっていけばいいということを論じていきます。その上で、「宗教は阿片である」の段落を引用しながら、「キリスト教は一方では真の苦悩の表現であって、他方では真の苦悩への反抗である」と述べています。問題としてドイツ語のwirklichenはまぁ確かに「真の」と訳せなくはないのですが、この語の意味合いとしては、「それ本当の話だよ」という感じであって、事実に即していますよという問題に関わるのであって形而上学的な真理概念ではないので、言葉の視野がだいぶ違うと思うのですが、それはさておくとしても、この文言からガロディは、キリスト教が人間の苦悩を真なる次元において把握して更にそれへの抵抗を内包していると断じるのです。すなわち、キリスト教は革命的精神を具現化していると、そのようにマルクスは語っているとしたのです。そのように解釈することで、「宗教は民衆の阿片である」という句を、キリスト教は民衆の苦悩へと関わっているとマルクスが評価したという語に曲解していくのです。
 詳しくは次回以降、マルクスのテキストを読んでいきながら考えたいとは思いますが、このガロディの解釈がマルクスから遠く離れてしまっていることは彼の論理を追うだけでも分かります。というのも、マルクスのあの語句を観念の問題として理解しているからです。すなわち、繰り返しますが、wirklichenという形容詞を、観念の次元の問題としてしまい、マルクスが絶えず絶えず問題としていた実際に人間が投げ込まれてしまっている苦悩から切り離してしまっているのです。
 ここから、以下のことが現段階として結論づけられます。すなわち、「マルクスは宗教を良い物だと言っている」という解釈はマルクスの言説を観念の場において捉えているのです。これは端的に間違っていて、観念と現実を分離するというのは観念的な操作をしているのです。人間は観念的でありつつ現実的な問題に直面しています。そういう総体的な存在なのです。しかし、現実の問題を単に観念の場に限定してしまうことで、人間を一面的な理解へと押し込むことになります。この辺りの問題は、以下で考えていくとして、とりあえず、「宗教は民衆の阿片である」という言説は観念の次元に人間を追いやっていく構造への批判であり、従って宗教批判こそがあらゆる人間の問題に関わる批判の端緒となることが現段階でもうっすらと見えてきます。
 あと、まぁどうでもいいことなので論じるまでもないのですが、「宗教は阿片であると言っているが、阿片は薬にもなるので宗教を良い物だと言っているのだ」とか言う話があるそうなので一言。阿片Opiumと阿片剤Opiatは単語が違います。ですので、マルクスが言っているのは精神を麻痺させる阿片です。因みに、ノヴァーリスの「彼らのいわゆる宗教は、弱さから来る痛みを和らげ、刺激し、麻痺させる阿片剤の如く作用するにすぎない(Bluethenstaub,1798)」という言葉からも明らかなようにどのみち批判的に用いられています。思い付いたことを適当に言う政治屋さんじゃないのですから、マルクス阿片戦争について書いている新聞記事を読めば明らかですので、阿片を有用なものという意味合いで語っているかをお調べになってからマルクスの言葉使いを云々なさったらいかがかと。あと、「宗教は阿片であるとは一度しか言ってないからマルクスは宗教批判をしていない」という話もあるそうですが、思想家が一度しか言っていない台詞なぞ幾らでもあるわけで、問題はその語句を語る論理の流れです。こうした雑駁な諸理解には、ナンセンスと言っておけば事足りるでしょう。
 と、色々と述べましたが、次回以降、マルクス本人の言葉を確認していきます。

(第3回に続く)