sekiwataruの日記

Ph.D(filosofia)のソリロキア

【論考】初期マルクスによる阿片としての宗教ー第5回

※第5回です。公開した後でも、ちょっと手を入れて修正します、すいません。今回の話が長くなりましたので、あともう一回だけやります。

結びにかえて、マルクス宗教批判の射程

 今まで、「宗教は民衆の阿片である」というマルクスの宗教批判を巡って、「マルクスは宗教を良い物だと言っている」という的外れな言葉を手がかりとして、まず宗教を阿片という語によって批判することはドイツ思想界では珍しいものではないことを資料から示し、次に「マルクスは宗教を良い物だと言っている」という解釈がマルクスの言説についての論考ではなく非常に政治的意図にまみれたものであることを論じ、その上でマルクス本人の文を読んできました。そこから分かったことは、マルクスは宗教が人間を天上的次元と地上的次元とに観念的に分裂させ、それから、全ての問題を天上的次元へと還元していく構造を持ったものであることを示唆していたのが「宗教は民衆の阿片である」という文であったことを明らかにしました。そして、その宗教の構造はまさに現実の世俗的民主主義国家が民衆を扱う仕方を映し出しているために、宗教を乗り越えていくその道筋が現実の問題を変えていくための端緒となるとマルクスが考えていたことを論じました。結果として、マルクスはそもそも宗教を良し悪しの視点で語っているのではないこと、だから、「マルクスは宗教を良い物だと言っている」という見方自体がマルクスを全く理解していないものであること、さらに、マルクスの宗教批判は現実批判であるがゆえにそれを理解できないまま「マルクスは宗教を良い物だと言っている」と主張するような集団は現実を変革する視座に欠けていてそれを語る資格なぞないことを見てきました。さて、今回は、そんなマルクスの宗教批判の射程を他の思想家と比べながら省察してみたいと思います。
 マルクスの問題意識は常に現実に向いていた、そのことは確かです。「宗教は民衆の阿片である」という文が書かれている『ヘーゲル法哲学批判序説』は、頁の至るところでドイツの後進性が問われ、そこからの脱却が模索されています。まぁこうした探究をどこかにあるらしい美しい国で今やったとしたら自虐的だの反国的だの言われそうですが、そうした御仁は何方かの言った言葉を御自分が知ってる限りで我田引水的に引用して何処かで聞いた用語で主観的なレッテル張りをなさるだけ、言ってしまえば観念的に自己疎外しているだけなので、観念的ジャンクフード漬けから抜け出して頂きたいものです。
 話はそれましたが、そういう視座をマルクスの宗教批判は持っています。ですから、例えば前回引用したPaul, J.-M.さんの著書のタイトル『ドイツにおける神の死』から想起される大人気哲学者のあの方とは一線を画していると言えます。「神の死」と言えば、1960年代以降にアメリカの神学者の中で「神の死の神学」なぞと言うものが流行りました。今でも、保守的なキリスト教神学者、とりわけ教会制度絶対主義の皆様は「神の死」を唱えた彼のことを愛好されているのを見かけます。これは、マルクスウェーバーなどといった社会科学者の書物をお読みになっていることを矢鱈と吹聴して御自身を「客観的」と僣する御仁ほど、その実はどす黒い他者否定欲求に汚染された差別的排他主義者で自己絶対主義者である本性が剥き出しになっている場合が多々あるのと同様です。根本は、御自分たちの頭の中だけにしか存在しない「絶対的なるもの」が現実にあると妄想し、そんな自己に陶酔しきっているのでそれに少しでも反していると烈火の如くに怒り散らすという傍迷惑な心性です。それはともかくとして、「神の死の神学」はアメリカ的な世俗化の問題を明らかにしつつ、しかし、その世俗化の向かう先である官僚制的な管理体制については無批判で提示し、しかも、神の意志としてそれを呼ばわるという愚をおかしています。
 これは、そもそも神学者の皆様が「神の死」ということをきっちりと自分たちの問題意識にしていないでただ言葉だけを観念的に借りてきたことに、一方では原因があります。しかし、他方では、「神の死」がそもそも観念的に語られているということにも原因があります。
 まぁ別に名前を誤魔化す必要はないわけでして、リクールという現代哲学者は彼とマルクスフロイトを「仮面を剥ぐ哲学者」として挙げて論じています("De l'interpretation. Essai sur Freud", Ed. du Seuil, 1965)。ちなみに、邦訳タイトルは『フロイトを読む』でして稀に心理学のコーナーに置いてありますのでご注意を。リクールは、全く異なるこれらの思想家を繋ぐ糸は脱神話化にあるとしています。まぁ、リクールさんほどの独自の思想をお持ちの方になれば御自分の視点から興味深い議論を構成されるのでしょうが、私のような凡人はただテキストに対峙することで手一杯です。ですので、まずは「神の死」が語られるテキストを読んでみましょう。長いので飛ばし飛ばしになっています。

  狂騒なる人間ー君たちはあの狂騒なる人間を聞かなかったか…「俺は神を探している!俺は神を探している!」…「神が何処にいるかだと?ー彼は叫んだー俺がそれを言ってやるよ!俺たちが奴を殺したんだ!そうだ、お前たちと俺が!俺たち皆が殺害者だ!でもどうやってそれを成したんだ?…俺たちは終わりのない無の中を歩いているんじゃないのか?…隙間なく夜が更なる夜がくるんじゃないのか?…神も腐敗するのさ!神は死んだ!神は死んだのだ!そうさ、俺たちが奴を殺したのさ!…こんなヤマは俺たちには尊大すぎじゃないのか?俺たち自身が神々にならなきゃならないんじゃないのかい、これを現にするに価するためには、な?
(Nietzsche, F., "Saemtliche Werke", III, Deutscher Taschenbuch Verlag, 1988, 481s.)

 何でしょうか、訳していると凄く疲れます。古代ギリシャの文献学者として名を馳せただけあって、文章が軽快でそれでいて重厚で、若い方々が魅惑されるのも分かります。これは、『悦ばしき知恵』と訳されるアフォリズムの125番です。ちなみに、知恵とはドイツ語でWissenschaftエンゲルスさんが拘り抜いた「科学的社会主義」の科学的はwissenschaftlicherですので同じ言葉となっています。それはともかく、この一節を読むだけで、ニーチェマルクスの視座はやはり違うものであることは極めて明瞭です。どちらが好きかとかそういう主観的な問題はとりあえず置いておいて、少し考えてみましょう。素人の浅知恵ですが、まぁご寛容の程を。
 ここでの「神」は、ヨーロッパ文化を支えて来た根底的な価値意識を示していることは、深く考えずともぼんやり分かります。逆に言えば、根底的な価値は、そもそもが人間を超えて先在するようなものではなく、人間の欲望によって生ぜせしめられたものであること、人間が作り上げたものに過ぎない、だから、人間が生殺与奪をなしうるのです。つまり、「神が死んだ」というのは、神は人間が殺しうる存在であること、人間の手で生成も破壊も成し得るものであることを前提としているのです。だから、ヨーロッパの価値体系に組み込まれている諸概念、古くは存在だの真理だの善だの正義だの愛だの近代で言えば資本主義だの民主主義だのといった諸概念は、超越論的に人間を規定するものではなく、人間がその時その時の欲望に応じた形で作り出したものに過ぎないことが暴かれるわけです。例えば、平凡社ライブラリーから再販されたセリグマン著『魔法』の中世の辺りを読めば分かりますが、聖人の奇跡や聖母の出現など、それらは全て中世の人々の欲望の裏返しになっています。宗教的な奇跡物語が人間の欲求を調整したのではなく、逆にそうした物語は人間の欲望の映し鏡なのです。話は脇道ですが、現代のサブカルチャーもこれと同じ構造であると言えます。だから、サブカルチャーの表現をいくら規制したところで人間の欲望の構造それ自体を変えることなしには、差別や偏見を失くすことはできません。
 あと、上記の引用には出てきませんが、ニーチェの有名なフレーズとしては、怨念つまりルサンチマンがあります。その視点は、例えば正義や平等を語ることの胡散臭さの要因はその語る人間の欲望がこびりついているからであるという理解でいいんじゃないかと思っていますが、それもこの「神は死んだ」という叫びの内に内包されていると言えるでしょう。
 こうして見てみると、やはりニーチェさんは文芸批評に鋭い視線をお持ちですなと感服する一方で、ちょっと図式的に取り上げすぎじゃないかなとも思ってみたりしています。というのも、様々な価値は抽象的な文献において生じたわけではなく、現実の人間の欲望の反映であるわけです。だとすれば、まずやるべきは価値が語られている現場へとそれらの言葉を戻すことです。各々の歴史的現場に合わせて諸概念の生成過程を精査して、その上で様々な問題を指摘すべきではないかと思うのです。だから、凡庸なニーチェ解釈が「正義は胡散臭い」という結論部だけを取り出してそれを一般命題にしてしまっていますが、それは結局、「正義は胡散臭い」と語るその語り手の欲望を裏返して映し出しただけの主観的雑言でしかなくなってしまうのです。だいいち、そうした諸概念は人間の抵抗の現実から編み出されたものであることが多く、ヨーロッパ文化を支えて来た価値は抽象的概念であるような理解をこそ、叩いていく必要があるでしょう。
 その意味で、ニーチェさん本人ではなくてニーチェ流の論法というものは、言っている内容こそ違えど、宗教が現実の問題を観念の次元へと追いやり、その次元の中で現実を反映しないままねじ曲げて提示する構造と同じことになってしまっています。だからでしょうね、ニーチェ的な「神の死」を好む神学者やら宗教家やらの多いこと。それは、宗教も「神の死」も、同様に現実を現実として見ることを止めさせて、都合よく加工した幻想の中で事態を語っているのに過ぎないからです。
 とりあえず、ニーチェさんというよりもニーチェさんに追従なさる方々の問題は、マルクスの宗教批判の視座とは全く異なる、というよりもマルクスの批判対象そのものだと言うことが明らかになったと思います。

(続く)

【論考】初期マルクスによる阿片としての宗教ー第4回

※第4回、続きです。とりとめない文章ですいません。寒い日が続きますのでお体にはお気をつけて。諸事情により無駄な読書をしていましたが何の役にも立ちそうもなく、まぁそういうこともありますなと気分を変えて、以下でマルクスについて考えていきたいと思います。

4、幻想の幸福としての宗教

 前回の考察で明らかとなったように、マルクスの言う「宗教は民衆の阿片である」とは宗教論の位相において論じられたものではなく、人間が投げ込まれた状況、すなわち、現実を生きることの内に本来的な人間と数値化されて抽象化されていくことで形式的な人間として押し込まれている状況、そうしたものを頭の中で考えられた宗教的仕方によって解消できていると考える観念的な態度へと向いているものが宗教なのであり、それへの批判がマルクスの宗教批判であって、その意味で、人間の問題をどう捉えるかという事態に関わる批判なのです―自分で書いて何ですが、ここまで一文というのは文章構成の点から見たら最低の悪文ですね、すいません―。今回は、その続きのマルクスによる文章を見ていきたいと思います。というのも、まさに続く文において、マルクスの宗教批判が斬り込む先が示されているからです。

  民衆の"幻想の"幸福としとの宗教の止揚は、その"現実の"幸福の要求である。自分の状態についての幻想を捨て去れという要求は、"幻想を必要とする状態を捨て去れという要求"である。(KMWS, I, 489s.原文で斜体イタリックになっている単語を""で囲んであります)

 前回の箇所で、マルクスが「宗教は民衆の阿片である」と語っといたことの内実が、今回の箇所で更に鮮明にされていきます。というよりも、「民衆の阿片」という語句よりも、実際に重要な事柄はこちらで書かれています。すなわち、宗教においては宗教的な仕方によって実際の苦しみが切り取られている、その構造が政治社会において政治的な仕方で現実の痛苦が切り取られている仕方と同じであり、だから、宗教を乗り越える、その乗り越え方がまさに政治的に乗り越えていく方法となるのだ、とマルクスが言っているのです。
 そうした視点を踏まえて以下のように考えていくことも、あるいは出来るかも知れません。民衆の幻想の幸福、つまり、ありもしないはずのものをあるかのように騙ることで現実の苦痛を隠蔽してしまうことで生じる夢遊状態は、それが民衆の生活にとって必要とされるかのように組み込まれたから成立しているのであり、その組み込まれていく過程を批判することでそれを超克しうる道標を見出し得ることになります。そうした夢遊状態は、人間が投げ込まれた現実そのものから生じたのではなく、そうした現実を加工して切り取ったことから出来するのです。だとしたら、その切り取り方を乗り越えなければなりません。それが宗教の止揚Aufhebungの内実です。
 まぁどうでもいい話ですが、マルクスにせよウェーバーにせよ、以前流行したサルトルルカーチなどの哲学者にせよ、ブルトマンやバルトなどの神学者にせよ、そうした哲学書やら神学書やら社会科学書の御本をたくさんお読みになってお勉強されたと自負なさる方々は本当にお分かりになっておられるのですかね、と止揚やら何やらの訳語に出くわす度に感じます。この訳語でピンと来られる方々は『機動戦士ガンダム』で言う所の認識能力が拡大した新人類たるニュータイプなんでしょうね。したり顔で分かったふうに哲学やら経済学やらの御本を語る方々には是非とも御自分の口で語って頂きたいものです。そういう方々に限って御自分で主体的に考えるわけでも御自身の言葉で説明なさるわけでもなく、教科書的な薄っぺらい用語や聞き齧りの文献を並べるだけで知識があるかのように語られるので閉口してしまいます。だいたいたくさん御本をお読みになってもそんなこと自体にはさほど意味なんてないのです、自分の言葉でその問題に取り組んでいかない限りは。私のような凡人はこんな日本語の訳語は素直に「分かりません」と言うしかありません。と、話は横道に外れましたが、ここでマルクスの言う止揚Aufhebungは、世界史だか倫理だかの教科書にも出てくるヘーゲルさんの専門用語となっています。無論、普通のドイツ語で、単に「捨てる」という意味です。ただ、文字通りにはauf-hebenつまり上にー揚げるという語句です。従って、宗教の止揚とは、意味的には宗教を一段上の段階へと上げることを示しています。では、それがどういうことか。
 上記の引用をお読み頂ければお分かりでしょうが、マルクスは何やらややこしいヘーゲル哲学を展開しようとしているわけではありません。そうだとすれば、マルクスが批判する宗教と同じように思惟の次元に滞留することになります。そうではなく、宗教を必要と仕向けられている現状、言わば、宗教を必要としなければならないほどに疲弊しきっている現実をこそ、変革しなければならないとされているのです。約言すれば、マルクスの宗教批判は宗教の良し悪しを論じるものでもなければ宗教の哲学的解釈を展開するものでもありません。人間が投げ込まれている現実とどう格闘していくかという視点で語られる人間の生き様の問題なのです。
 ここで若いマルクスについての解釈問題を少し。いや別にここで語らなくてもいいのですがたまたま思いついたもので。ルカーチさんのように近代合理主義の延長として唯物論史観を捉えてそれの展開がマルクスにおいてどうのこうのという立場からでは、マルクスのこの問題を読み違えていきます(vgl., Lukacs,G., Zur philosophischen Entwicklung des jungen Marx, "Deutsche Zeitschrift fuer Philosophie", 1954, 288-343ss.)。というのも、問いの源泉は「思想」の側にあるのではなく、それについて考えている「主体」の側にあります。従って、この言説は何思想かなんぞと読んで行っても、考えられている事柄そのものを志向しているのではなくて読み手の持っている知識を相手に当てはめている作業に過ぎないために、事態の理解からは離れていくばかりです。立場的に、ルカーチさんの読みの対極、つまりヨーロッパ思想の中に埋め込んでマルクスを理解する読みの対極にあるのが、この時期のマルクスを初期マルクスと断じてフォイエルバッハ主義として読み解く、それにより、初期と後期を分断し、後期マルクスを独自の革新的見解と見なすものです。Paul,J-M.さん曰く、宗教は民衆の阿片であるというマルクスの言葉を「フォイエルバッハシュトラウスの疎外に関する問題座標と全く同様のもの」としつつ「フォイエルバッハへの賛辞と反発の中で」宗教批判をマルクスは志向していたそうです(Paul,J-M., "Dieu est mort en Allemagne", Payot & Rivages, 1994, 188p.)。この解釈はエンゲルスさんを権威として担ぎ出していますが、まぁエンゲルスさんに従ってマルクスを読むという立場は強烈な解釈的傾向の主張でもあり、問題はその解釈的傾向からマルクスを読むとは一体何を意味するのかということですが、それはさておき。確かに、マルクスフォイエルバッハから影響を受けたこと自体は間違いないですし、フォイエルバッハの言い回しとマルクスは似ています。しかし、似てはいても内実は似て非なるものです。

  宗教に対する自己意識的な理性の関係においては、たんにその幻想を無に帰すことだけが扱われる。(Feuerbach,L., "Das Wesen des Christentums", Reclam, 2011, 406s.)

 宗教を幻想という語で解するのは方向性は同じとはいえ、問題はフォイエルバッハの場合、理性の次元で語られることにあります。従って、人間が投げ込まれている現実そのものへの問いではなく、人間が事態を把握するその仕方、ありていに言えば物の見方の議論になっています。

  そして、我々はただ宗教的関係を引っくり返す、そのことのみを要する。つまり、宗教が手段と定置すること、それを絶えず目的となすこと…(ibid.)

 等々と続くわけですが、このフォイエルバッハの言説は明らかに人間の理解による把握の仕方に関わっています。その意味で、Warnier, Ph., "Marx pour un chrétien", Mame-Fayard,1977の第3章で論じられているように、マルクスの宗教批判はフォイエルバッハとは違う観点からなされているという指摘は正しいですーというよりもWarnierさんの指摘が正しいのはここまでで後はただの護教論ですー。つまり、フォイエルバッハの批判は、宗教を人間の自己意識の次元において遂行されています。それに対して、マルクスは宗教を現実の問題を映し出す鏡であるとして、宗教を乗り越えていくその仕方こそが現実を変革するための手がかりになると説いているのです。
 こうした問題についてマルクスは次のように続けます。

  宗教の批判は、宗教の後光である涙の谷の批判の萌芽でもある。(KMWS, I, 488s.)

 ここで言われる涙の谷とは現世のことを示すキリスト教的な比喩ですが、非常に明確にマルクスの宗教批判の方向性が示されています。宗教は自らが加工して切り取った現実を自らの観念の中で解消していきます。しかし、現実の方では何も変化はありません。むしろ、変化へと向かうことを断念させられ、ねじ曲げられて語られる世界こそが真理であると誘導させられていきます。しかし、それは単に宗教を宗教論として捉える際に確認される事態ではなく、現実の世界を支配する構造がまさに宗教と同じ論理に基づいているのです。人間の生きる現実を剥奪して加工された世界へと投げ込む。これが、もはや宗教を必要としなくなった民主主義国家の実態なのです。現実の人間は平等でもなければ自由でもありません。それに対して、理念としての民主主義においては人間は同じ人権の名のもとに平等で自由なのです。そうした理念の追求こそが人間の実現であるかのように示していきます。しかし、貧困や過重労働、差別やいじめといった現実の問題は、そうした理念をいくら振りかざした所で変わりません。より具体的に言えば、どういう理念を持った政治団体が指導的立場になろうとも、それだけでは現実の諸問題は相変わらず残留したままなのです。にもかかわらず、主導団体が交代すれば諸問題は解消されるように語るならば、それは宗教と同じであり、民衆の阿片です。
 宗教では祈れば「神」が聞き届けてくれて世界を変えてくれることになっています。世俗化した民主主義国家では、運動によって反対の声を多く上げれば「民意」がそれに触発されて変化へと動くことになっています。まさに、単に理念を振りかざす民主主義国家は神を民意にすげ替えたことによって成り立っているのです。従って、マルクスの宗教批判は、近代批判ともなる広い射程範囲を持った議論なのです。
 次回は、そろそろ一旦この「宗教は民衆の阿片である」という議論にケリをつけたいと思っています。そのために、マルクスの考えはどういう視座を持つのかを幾人かの思想家と比較しながら考えてみたいと思います。

(次回に続く)

【論考】初期マルクスによる阿片としての宗教ー第3回

※第3回、続きです。前回、前々回は文献サーヴェイが主でしたが、今回は思いつくままに文章を書いています。話があちこち飛んですいません。あと、暖房の節約生活をしているので手が悴んで誤字脱字がいつもより3割増しになっています、重ね重ねすいません。

3、「宗教は民衆の阿片である」そのテキストの読解

 色々と周辺的な事柄に触れてマルクスの言葉の問題射程をぼんやりとではありますが少しずつ明らかにしてきました。以下で、マルクス本人の言葉を聞いてみましょう。その前に一つだけ。あくまでも「マルクスの周辺は阿片という語で宗教を批判したかもしれないが、マルクス本人は違う。マルクスは宗教を良い物だと言っているのだ」と頑強に御主張なさりたい方もおいでかと思いますが、マルクスの言葉が周辺の言説と違うことは確かです。マルクスの言葉は宗教批判でありますが、単に宗教を問題にしてその作用を批判しているのではありません。マルクスは、宗教批判を通して現実の批判をしているのです。その辺りを念頭に置いた上で、どうぞ。

  "宗教の"不幸は、一つには現実の不幸の"表現"であり、一つには現実の不幸に向かう"抗議"である。宗教は抑圧された被造物の溜息であり、心なき世界の心情であって、同じく、精神なき状態の精神である。それは民衆の"阿片"である。(KMWS, I, 488s.原文で斜体イタリックになっている単語を""で囲んであります)

 この言葉が出てくる『ヘーゲル法哲学批判序説』の時代状況については、岩波文庫訳の城塚昇氏による訳者解説が詳しいのでそちらをご参考に。この明らかな文章を「マルクスは宗教を良い物だと言っている」と解説なさる方々がいるのだから大した神経だなぁと感心しますが、そういう方々は自分たちの主義主張とそれに由来する利権に合致させるために色々と無理難題を仰って周りの人々を疲弊させているのではと心配になります。それはともかく、この散文調に整えられた文体から、マルクスが宗教に積極的な役割を見ていないことが分かります。
 マルクスは言います、宗教とは現実の、つまり実際にこの世で生きている人間の苦しみや痛みを表現したものなのだと。表現、この語がさしあたって考えるための手がかりになります。表へ―現す、あるいはAus-druck外へ―圧出、文字通り目に見える形へと加工されたものが表現という言葉の語意です。換言すれば、表現することは、その指示対象それ自体をそれとして把握することではありません。その対象を認識主体にとって認識可能な鋳型へと落とし込む、すなわち、形式的に作り上げられた表象形態なのです。ゆえに、宗教とは、宗教の形式に依拠して人間の苦悩を規定しているのです。人間は有限的な存在であり、従って本来的に認識論的限界性を帯びています。この事実から、宗教は有限的存在に対立する無限的ないし超越的存在を想定します―有限が有限であるのは無限によって根拠づけられるからだというのが大まかな理由づけです―。そして、宗教の形式とは、超越的存在へと人間はあたかもその限界を突破しうるかのように定置し、世界内的な問題を霧消するものとしての絶対的次元―そんな立場から人間が語り得るはずもないにもかかわらず―から語るのです。人間の限界ある理性では決して到達しえない事態へと押し出す、従って人間の現実的な苦悩を問題の外へと追いやってしまう。これが、宗教的に加工された苦悩の内実なのです。
 こういうふうに書くと、なんとなく宗教は観念的なものであってそのために現実的なものと対峙しているということ、すなわち、観念と現実の二項対立の図式、そういうものとしてマルクスの宗教批判が成されているかのように見えてしまいますが、そうではありません―論述の仕方が下手くそですいません―。そうではなく、上述したように、人間は有限的存在です。従って、状況に投げ込まれ、その投げ込まれた構造の中で生を遂行していきます。その投げ込まれる過程で、人間は個人としてのそれ自体の在り方から、他の人間にとって把握可能な形式の中へと処理されていきます。つまり、人間は現実の場において、本来的な人間と形式化された人間とに分裂しているのです。別言すれば、私たちは各々、存在としては固有であり代替不可能です。しかし、資本主義社会の中においては、偏差値やら収入やらの数値的仕方によって社会的に規定されます。そのために、本来的には代替不可能な人間を収入やら何やらの数値で代替可能なものへと変容させられているのです。この分裂が宗教においてその論理によって映し出されている、しかし、宗教的論理では事態を有限と無限という形式によって捉え、人間を無限に触れうる存在であるかのように考えることで有限的事態が解消されるとするが、本当はそうした仕方で考えること自体が現実から解離しており、その結果、実際に人間が苦しんでいる現実は隠蔽されてしまっている、ここにマルクスの宗教批判が向かっているのです。
 マルクスが宗教をどう見ていたかは、マルクスが受けた宗教教育から推察できますが―当ブログ内の宗教科課題作文の拙訳をご参考に―、彼は宗教において人間が神的次元と地上的次元とに分けて捉えられているものと見ています。そこでは、地上の今の状態の人間は様々な欠損を抱えているが、神的次元においてはそれは消し飛ぶ、そういう論理で宗教は人間の問題の解決を語っていることが記されているのです。この問題を直接に扱っているのが『ユダヤ的問題について』ですが、そちらの問題はさしあたってそのままにしておくとして、以下のように言うことができます。例えば、今の私たちにとって、大きな苦しみは貧困です。と言うのも、収入の多寡の問題、言い換えれば資本主義社会において資本をどれだけ持っているかという問題は、その人の行動の選択肢がどれだけあるのかという人間の問題として跳ね返ってくるからです。収入が多い家計ならば、それだけ教育等々に投資でき、行動の選択肢に幅が出来ます。しかし、収入が少ないならば、食べることや住むことで手一杯です。寒いときに暖を取るのも難しくなります。こうした現状を、余り考えもせずに命題として「貧しい者は幸いである」(『ルカ福音書』6:20)と語るなら、その言表によって、貧しさは貧しさとして現実に存在することを認められつつも、問題がすり替えられていきます。貧しさは実体的問題ですが、幸いは精神的な内容です。問題は実体の次元で起きているのに、それを精神的次元に追いやっているのです―これが『マタイ福音書』の山上の垂訓では「幸い、霊によって貧しき者」となり、貧しさの問題がそもそも精神的事態とされてしまっています―。そして、問題は、その精神的事態とやらが宗教の形式によって作り出されたものであり、頭の中で考えられただけのものにすぎないということです。この「貧しい者、幸い」という言葉は、イエスがどういう状態でもともと語ったものなのかについての資料が残っているわけではないのですが、ガリラヤというエルサレムの中央支配から離れて見下された民衆の生きていた場において発せられた言葉であるという事情を考えると、いわば悔しさや嘆きを含んで語られた言葉であると言えます。しかし、そうした言葉が実際の現場を離れて普遍的命題として唱えられる時、それは人間の現実の苦しみをその命題の範疇で絡み取ってしまうのです。
 このようにして考えると、今回のマルクスの言葉である「現実の不幸に向かう"抗議"」の内実も明らかになってきます。実際に直面している貧しさという苦悩が、宗教的な仕方によって、すなわち、地上的課題を天上的論理において解消する、そういう仕方によって加工された抗議として提出されるのです。その結果、実際的課題はもはや存在しないことになり、ただただ宗教的な仕方において現実が扱われていきます。再び、「幸い、貧しき者」を考えてみれば、それを「だから貧困であることを受け入れよ」と説教されることにより、確かに貧困であることの慰めとなり、問題は一旦は停止したかのように感じます。しかし、一歩外に出れば、やはり貧困という現実は変わらないままで、しかも、その状態から抜け出すよりもそのまま滞留することが最善であると語られれば、もはや問題を変革しようとする意志さえも掻き消されてしまいます。このようにして、宗教的言説は問題の方向性をねじ曲げることで問題そのものが無いかのように錯覚させるのです。
 そこにおいては人間は理性的動物であることすら剥奪されていきます。現実を生きる人間は、数多の悲しみ苦しみを惨めに被っています。しかし、そうした抑圧された状態について、それを変えるでもなく、また問題を指摘するでもなく、現状に問題はないかのようにして状況を受け入れさせるように導く宗教的な仕方は、もはや声ではありません。声ですらないのです。「溜息」なのです。つまり、言葉、すなわち理性的に伝達が可能な事柄、そういうものが宗教的な仕方においては奪われているのです。
 しかし、解決は到来しません。最初からそんなことは問題をすり替えているだけではできないからです。ありもしないことをあるかのように騙り、できもしないことをできるかのように騙る、その故に「心なき世界の心情」、「精神なき状態の精神」と言表されているのです。このように、現実に存在している苦悩を眠り込ませ、それによって変えなければならない問題への感性を麻痺させる、だからこそマルクスはこう語るのです、「それは民衆の阿片である」と。
 マルクスの言葉を実際に見ると、「マルクスは宗教を良い物だと言っている」という理解の仕方自体がマルクス本人の意図とまるで違う位相にかかずらわっていることが分かります。マルクスは宗教を云々しているわけではなく、宗教が語る内実を明らかにすることで、神的次元と地上的次元とに分裂させた上で全てを神的次元へと解消させて無とする、そういう宗教の構造が、資本主義社会の生産様式に取り込まれることで本来的な人間から抽象化されてしまった在り方へと押し込まれて抑圧される人間が何故に苦悩する状況を変革できずにいるかの内実をまさに示しているとして、宗教批判を行ったのです。宗教が人間を神的次元へと解消するように、資本主義的生産様式の内に人間は形式化されて抽象化される。その形式化された立場でのみ問題の対峙が留まっている限り、解決は抽象的次元を脱し得ず、現実にまで降りてこない。それは、宗教が全てを神的次元で解消して地上的次元を吹き飛ばすやり方と同じである。マルクスは宗教批判によってこの問題を明らかにしました。だから、宗教を良し悪しの観点で語ることなぞ、端からしていないのです。にもかかわらずマルクスの言説を宗教の良し悪しとして見ている方々は、現実の人間の問題を分かっていないことにもなります。約言すれば、「マルクスは宗教を良い物だと言っている」と語りたがる人々は、現実にある人間の苦悩を自分たちのイデオロギーの中へと押し込んでそこでしか把握できていないのです。マルクスの宗教批判をそれとして理解できないということは、まさに人間の問題を変革する視野に完全に欠けている、人間の苦悩を扱うに価しないということを意味するのです。
 今回は、マルクスの言葉をめぐってじっくりと思いをめぐらしたので文献を挙げることはしませんでした。ただ、上記の論点自体は単なる思いつきではなく、それなりに哲学的な伝統に依拠した格闘の試みではあります。
 次回も、もう少し「宗教は民衆の阿片である」の内実を追ってみたいと思いますので、マルクスの言葉の続きを考えてみます。

(続く)

【論考】初期マルクスによる阿片としての宗教ー第2回

※第2回、続きです。

2、「宗教は阿片」をめぐる解釈

 以下で見ていくことにしますが、マルクス主義を自認する方々の中でも良質的な人々でさえ、いや、というよりも良質的な人々の方が、「マルクスは宗教を良い人と言っている」という解釈へ向かう場合があります。これは、単に解釈史の問題というよりも、政治的な思惑が入り込んだ歴史的現象というべきものと思われます。良質的なマルクス主義者であれば、大国の論理で雁字搦めにされたいわゆる「マルクスレーニン主義」なるものについて、すなわち、社会主義国家の体制維持のためにでっち上げられたレーニン流の唯物論や史的弁証法といった様々なマルクス主義の教説について、それがマルクス本人とは全くの無関係な只の国家独裁権力強化の教条主義でしかないことはすぐに分かります。例えば、宗教は民衆を惑わすものであるから「無神論」こそが正しいのだという独裁的弾圧に対して、マルクスはそんなことは言っていないー事実、マルクスは人間の主体的行為である「信じる」ということに関わる信仰の自由を生涯一貫して擁護しています。しかし、それは特定の宗教的上流階層のみに諂う自由ではなく万人に共通する行為の自由という観点からでありますがーと論じることになるわけです。宗教は人間の欲望を歪んだ形で映し出している。その鏡を廃棄するだけでは変わらない。それを必要としてしまう程に疲弊させられている人間の現実をこそ変革しなければならない、こう考えるわけです(例えばMachovec, M.の著作を参考に)。しかし、そうした教条主義を批判することは自らの学者の立場のみならず生命の危険にすら及ぶことになります。そこで、西側のキリスト教が手招きを始めたのです。西側に来て東側の無神論に反論するようにと誘われ、そこで丁重に扱われた人々は反社会主義の宗教本を著すことになりました(例えばBloch,E.の『キリスト教の中の無神論』。邦訳は何と言うかまぁ「もっとがんばりましょう」という感じですね)。このような歴史的状況を考慮に入れると、現代でもまことしやかに囁かれる「マルクスは宗教を良い物だと言っている」という解釈は学問よりも政治的目論見ー宗教者の票や支持を集める等ーによる言説であるという側面も見えてくるのです。
 では、どのような仕方でキリスト教マルクス主義に接点を持ったのでしょうか。幾つもの文献があります。何でもかんでもあらゆる思想がキリスト教カトリシズムによって理解されうるような論調があり、その代表格たるジャック・マリタンという著名な哲学者は、マルクスが行ったと彼が理解した限りのヘーゲル哲学の超克と唯物論の確立をキリスト教的な思惟体系の中で遂行されたものであると言っているそうですー知人の受け売りー。
 さらに、アンセルという司教さんの書いた論文では、中世のトマス・アクィナスキリスト教教義と反発するアリストテレスの哲学を学んでカトリック教会の思想を発展させたようにキリスト者マルクスを学ぶことに怖じ気づいてはならないと語っています(L'Eglise en face du communisme, 1952。後述する論文集に所収)。世界史の教科書に名を残すような聖トマス様と御自分たちが同じ知的レベルにあるとお考えなのかしらと思ってしまう文章ではありますが、他にも、本来なら『資本論』はキリスト者が書くべき視点であると言ったロップスさんという人もいるそうですーこちらは知人の受け売り、再びー。いやむしろ、キリスト教的な教義信条を批判したからこそ、マルクスは『資本論』を書けたのであって、教義にしがみついている限り、労働者が抽象的な交換価値に呑み込まれて自らの労働を労働力という商品として売り渡さざるを得ない構造に切り込めるかどうかは疑問ですが、それはさておき、マルクスの経済学はこちらでもどうぞおやりになって下さいと遠回しに仰っているような気がしてきます。ということを考えていると、やはり蛇のように狡猾な方はおられるようで、ファルクッチさんという司教さん、より直接的に、

  唯物論無神論ないしはそれに基づくマルクス主義は、全くもって誤謬であることは確証される。だからといって、…マルクスは諸々の経済学的見解(可変資本、使用価値と交換価値、貨幣等)を論じたが、それらは教会の領域とは全く関係ない内実を持った見解を作り上げているということを付け加えなければならない。(Falcucci, B., Tout est-il faux dans le Communisme?, en "Communistes et Chretiens", Chronique sociale de France, 1952。ここに上掲したアンセル論文が所収されています)

 と述べています。簡単に言ってしまえば、信仰と経済を分離して、経済のことはそちらで自由にやって下さい、但し信仰や教会内部の話は一歩も譲りませんという何やら巧みな政治的談合話を聞かされているような気分になる話をしています。
 以上、ちょっとスペースをとって、キリスト教側からの手招きの仕方を見てみましたが、この論理、すなわち、信仰はキリスト教で政治経済はマルクス思想というレトリックが、逆にマルクス主義者側にも流れ込みます。その中で、「マルクスは宗教を良い物だと言っている」という解釈が出てくるわけです。その一例を見れば他の話も同様の論理なのですべからく理解できます。
 それがガロディの邦訳タイトルが『対話の価値』(サイマル出発会)とされている著作です("De L' Anatheme au Dialogue", Plon, 1965)。この著作の中で、ガロディは、キリスト教キリスト教として上手くやっていき、マルクス主義マルクス主義として上手くやっていけばいいということを論じていきます。その上で、「宗教は阿片である」の段落を引用しながら、「キリスト教は一方では真の苦悩の表現であって、他方では真の苦悩への反抗である」と述べています。問題としてドイツ語のwirklichenはまぁ確かに「真の」と訳せなくはないのですが、この語の意味合いとしては、「それ本当の話だよ」という感じであって、事実に即していますよという問題に関わるのであって形而上学的な真理概念ではないので、言葉の視野がだいぶ違うと思うのですが、それはさておくとしても、この文言からガロディは、キリスト教が人間の苦悩を真なる次元において把握して更にそれへの抵抗を内包していると断じるのです。すなわち、キリスト教は革命的精神を具現化していると、そのようにマルクスは語っているとしたのです。そのように解釈することで、「宗教は民衆の阿片である」という句を、キリスト教は民衆の苦悩へと関わっているとマルクスが評価したという語に曲解していくのです。
 詳しくは次回以降、マルクスのテキストを読んでいきながら考えたいとは思いますが、このガロディの解釈がマルクスから遠く離れてしまっていることは彼の論理を追うだけでも分かります。というのも、マルクスのあの語句を観念の問題として理解しているからです。すなわち、繰り返しますが、wirklichenという形容詞を、観念の次元の問題としてしまい、マルクスが絶えず絶えず問題としていた実際に人間が投げ込まれてしまっている苦悩から切り離してしまっているのです。
 ここから、以下のことが現段階として結論づけられます。すなわち、「マルクスは宗教を良い物だと言っている」という解釈はマルクスの言説を観念の場において捉えているのです。これは端的に間違っていて、観念と現実を分離するというのは観念的な操作をしているのです。人間は観念的でありつつ現実的な問題に直面しています。そういう総体的な存在なのです。しかし、現実の問題を単に観念の場に限定してしまうことで、人間を一面的な理解へと押し込むことになります。この辺りの問題は、以下で考えていくとして、とりあえず、「宗教は民衆の阿片である」という言説は観念の次元に人間を追いやっていく構造への批判であり、従って宗教批判こそがあらゆる人間の問題に関わる批判の端緒となることが現段階でもうっすらと見えてきます。
 あと、まぁどうでもいいことなので論じるまでもないのですが、「宗教は阿片であると言っているが、阿片は薬にもなるので宗教を良い物だと言っているのだ」とか言う話があるそうなので一言。阿片Opiumと阿片剤Opiatは単語が違います。ですので、マルクスが言っているのは精神を麻痺させる阿片です。因みに、ノヴァーリスの「彼らのいわゆる宗教は、弱さから来る痛みを和らげ、刺激し、麻痺させる阿片剤の如く作用するにすぎない(Bluethenstaub,1798)」という言葉からも明らかなようにどのみち批判的に用いられています。思い付いたことを適当に言う政治屋さんじゃないのですから、マルクス阿片戦争について書いている新聞記事を読めば明らかですので、阿片を有用なものという意味合いで語っているかをお調べになってからマルクスの言葉使いを云々なさったらいかがかと。あと、「宗教は阿片であるとは一度しか言ってないからマルクスは宗教批判をしていない」という話もあるそうですが、思想家が一度しか言っていない台詞なぞ幾らでもあるわけで、問題はその語句を語る論理の流れです。こうした雑駁な諸理解には、ナンセンスと言っておけば事足りるでしょう。
 と、色々と述べましたが、次回以降、マルクス本人の言葉を確認していきます。

(第3回に続く)

【論考】初期マルクスによる阿片としての宗教ー第1回

※只の研究ノートとして某国営放送でやっている『刑事コロンボ』を観ながら軽い気持ちで書き初めてみたら、ちょっと長くなりそうなので何回かに区分しながら綴っていきたいと思います。一応、文献なども文中で紹介はしていますが、論文ではないので脚注の類いはありません。あと、引用は拙訳を採用していますが、間違っていたらごめんなさい。


「宗教は阿片である」という言説をめぐってー初期マルクスの宗教批判についての研究序説としてー

序、

 若いマルクスが書いた言葉、「それーつまり宗教ーは民衆の阿片である」は璽来、様々に解釈されてきました。そこに端を発するのかどうかは定かではありませんが、自称マルクス主義者の方々は、一方では、とある大国のように国家社会主義の名による独裁体制の下で宗教は旧体制を擁護する邪魔物として人為的に廃棄しようとしました。他方で、歴史的にはその反動として、マルクスが宗教は良い物だと言っていると言説を捏造して、宗教に阿り、マルクス主義を宗教に追従させるような物言いをしながら、同時に宗教側もマルクス主義者を懐柔しようとして、互いの利権を貪る図を見せてきました。しかし、これらはマルクスの宗教批判の鋭さを骨抜きにして、全くもって取るに足らない議論としてしまったのです。従って、マルクスの宗教批判の内実が省みられることはなくなり、マルクス研究者ですら、それを過去の遺物のように扱っています。しかし、これは人間の知的な営みである「批判」の伝統において不幸であると言わざるをえません。マルクスの宗教批判は、その本来的な意味において人間の考察であり、現実を生きる人間を取り巻く抑圧についてであり、実際の人間に関わる問題意識そのものです。そのため、私たちはもう一度、マルクスの文をマルクス自身の視点から読み直し、更に私たちの現状に捉え戻すようにする必要があります。
 本考察では、マルクスの宗教批判として有名な「宗教は阿片である」を中心に、その視野を考えていきたいと思います。そのためには、以下の手順で、論を進めます。まず、予備段階として現状のマルクス理解の問題点を指摘することから始めます。その上で、テキストそれ自体の考察に移り、テキストが埋め込まれた文脈がどのような視座を持つのかを考察します。それにより、初期マルクスの宗教批判が人間を捉える見方を論考します。

1、「宗教は民衆の阿片である」その伝統ー予備的考察としてー

 この一文は、若いマルクスが『独仏年報』にて発表した「ヘーゲル法哲学批判序説」の中に書かれています。そして、まるでこの言葉がマルクスの宗教批判の根幹であるかのように語られ、とりわけ、宗教側からの槍玉に上げられるセンテンスとなってしまいました。しかし、周知のように、宗教を「阿片」と関係づけて批判するのは、マルクスの専売特許ではなく、むしろ、同時期のドイツでの思想潮流でありました。その潮流を担っていたのがマルクスと関わりのある青年ヘーゲル派であったのです。この点について、しばらく考えていきたいと思います。
 まず、青年ヘーゲル派はヘーゲルの何に基づいて宗教を批判したのか。この問題を論じるだけで大著になりますので、参考文献で誤魔化します。ちょっと古いですが、Benz,E., Hegels Religionsphilosophie und die Linkshegelianer., "Zeitschrift fuer Religions und Geistesgeschichte", 1955, 247-270ss, によれば、ヘーゲルがインド・ギリシャ・ローマの古代宗教に人間の生を頽廃的に見ていたというその見方を、青年ヘーゲル派は同時代のキリスト教にあてがったと論じています。確かに、ヘーゲルは『宗教哲学講義』の中で、 ユダヤキリスト教以外の諸古代宗教についてそれを精神を低次に置いていると評しています。ヘーゲルの場合、キリスト教はまさにそうした精神を高めるものとしていますが、青年ヘーゲル派は宗教の共通性として精神を阻害するものとして考えたというわけです。
 この解釈が正しいか否かは置くとしても、青年ヘーゲル派の現状宗教批判がヘーゲルの古代宗教批判の論理に依拠していたことは間違いありません。ブルーノ・バウワーは、『ハレ大学年報』の「キリスト教国家と我々の時代」(1841年)という論文の中で、宗教によって自由な人倫の発動は「麻痺した」と表し、翌年には宗教が全ての地上的な事柄を荒廃させて、「宗教の破壊的衝動という阿片の煙の中で」超越的事態へと民衆の目を向けさせるとを書いています(1842年)。また、モーゼス・ヘスは、1843年の論文の中で、マルクスと同じようなことを書いています。曰く、「確かに宗教というものは奴隷的状態についての悲惨な自己意識を耐え得るものにしうる。…それはまさに病気で痛苦する時に阿片が的確に果たすように」と論じてあります。その上で、しかしそうした類いの信仰は自己を自由にすることは能わないと結論づけています。この辺については、Rosen, Z., " Bruno Bauer and Karl Marx", La Haye, 1977が詳しいです。
 マルクスとの関係で言えば、詩人ハイネも1840年にベルネとの議論の中で以下のように述べています。

  地上がもはやなにも与えることのない人々に、天国が発明された。…この発明に栄光あれ!宗教に栄光あれ!それは苦悩する人類にむけて、苦い杯の中で、数滴の甘くて眠りへと誘う精神の阿片を、数滴の愛、希望、信仰を注いだのだ。(Heine,H., "Saemtlich Schriften" Band III, 1971, 111s.)

 この他にもハイネは、宗教を阿片として語っているようです(vgl. Houben, H. H., "Gespraeche mit Heinrich Heine", 2, Potsdam, 770s.)が、ここからも明らかなように「宗教は阿片である」というのは、当時のドイツの宗教批判のレトリックなのです。
 少し目先を変えてみて、ドイツ哲学の伝統を含めて考えるなら、やはり、カントの『単なる理性の限界内での宗教』(1793年)を忘れてはいけません。その著書の第二編第一章の終わりの註に出てきます。

  人生の終わりにて聴罪師を呼ばせる人の目論見は、慰めを得たいというのが常である。従って、物理的な苦痛ではなく、…むしろ道徳的な、つまり良心の叱責によるものである。ここで、良心は揺り動かされて研ぎ澄まされるようになるはずであり、…しかしそれをする代わりにあたかも良心に阿片を与えることは、彼自身に対しても彼の人生の後に残された他の者に対しても罪となるのだ。(Kant,I., "Die Religion innerhalb der Grenzen der blossen Vernunft", hrsg., von Vorlaender K., Felix Meiner, 1956, 84s)

 なお、アカデミー版だと78頁です。因みに、引用した哲学文庫版の編集をしたフォルレンダーさんはカントとマルクスを関連づけた著作を書いてます。あと、岩波書店の新しい『カント全集』日本語訳第10巻の当該箇所の訳者註ではマルクスの「宗教は阿片である」と語る文を載せるという粋な計らいをして下さっているそうですー知人からの情報ー。それはともかく、ここでカントは良心に「阿片Opium」を与えることを「慰め」を得ることと同意義として、良心の探求を阻害するものとしていることが分かります。
 他にも、話を「阿片」という単語から離れて精神を麻痺させるという意味合いであるなら、シュライエルマッハーやドルバック、あるいはユートピア社会主義者として言及されることもある18世紀は末頃に活躍したマルシャル、この辺りもマルクスの同時代に影響を与えた思想としては含めてもいいかもしれません。とにかく、文字通り枚挙に暇がありません。
 これだけ見ても、今から述べる「マルクスは宗教を阿片であるという言葉で良い物だと言っている」という読みがマルクスの知的環境を全く無視した不勉強な物言いであるということが分かるでしょう。とりあえず、上記をもって「宗教は阿片である」という言説の知的伝統の省察を離れて、マルクスの言葉に纏わる誤解をこれから見ていきたいと思います。

(第2回に続く)

【翻訳】マルクス「キリストと信徒との合一」その2。

マルクスの宗教科課題作文「キリストと信徒との合一」についての「その2」です。凡例等は「その1」をご覧下さい。

(451s) そうして、この無制約的な合一は必然的であるという確信に満たされて、我々は以下のことを探求することを熱望している。この気高い贈り物、この光線、すなわち、更なる高みの世界から我々の心へと魂を与えられて降り、そして浄められたそれを天上へと上げるその光線が何において成り立つのか、ということを探求することを熱望しているのである。
 我々が合一の必然性を捉えると、その合一の根拠、我々の救済の必要性、罪へと傾いている我々の自然本性、我々の屈折した理性、我々の腐った心、神の御前での我々の取るに足らなさが明白に我々の目の前に立ち、根拠がいかなるものかを我々はもはや探求することを要さない。
 しかし、キリストが葡萄の木と枝の譬えでなしたよりも合一の本質を更に美しく言表しえただろうか?キリストの言葉よりも、大部の序説のうちに全ての部分を、この合一が根拠づける最も内なるものを包含して目の前に置いたものがあるだろうか。
  「わたしは正しき葡萄の木、わたしの父は葡萄農夫である」(ヨハネ15:1)
  「わたしは葡萄の木、あなた方は枝である」(ヨハネ15:5)
 枝が知覚しうるなら、どれほど農夫を親しげに見るだろう。自分たちの世話をして、雑草を心配しながら浄め、葡萄の木へと固く結びつけ、更なる美しい花々のために木から養分と樹液を育む農夫を。
 キリストとの合一において、我々は愛に溢れた目を神へと全てにおいて向けて、我々は熱き感謝を感じ、我々は親しげに神の御前に膝を屈める。
 それで、我々は更に美しい太陽がキリストとの合一を通して昇らされた時、我々は我々の至らなさを全て知覚して然し同時に我々の救済について歓呼する時、我々はようやく神を愛しうるのである。以前は苦しませる支配者であって、今や許しを与える父として、善き教育者として現れる神を、である。
 しかし、もし枝が知覚しうるなら、それは単に葡萄農夫を枝が見上げるだけではないであろう。枝は心から木へと身を寄せるだろう。枝は己れが木と、そして木から芽を出している枝々と密接に結ばれていると感じるだろう。そして、農夫が枝々の世話をして幹がそれらに力を貸すために、枝は他の枝々をきっと愛するようになるだろう。
 かくして、キリストとの合一は最も内的で最も活力あるキリストとの共同から成り立ち、その中で我々がキリストを目の前にそして心の内に持つ。そして、同じく我々は彼への高貴な愛に満たされていることで、我々は同時に我々の心を、我々と更に内的に結んだ兄弟たちに、つまり、キリストが彼御自身を献げ物とさえもした兄弟たちに向けるのだ。
 しかし、このキリストへの愛は実りなきものではなく、それは我々を、彼に向かう純粋な礼拝と崇敬のみならず、互いのために我々を犠牲にすることにより、我々が徳に値するものであることにより、キリストの戒命を我々が保つことをも、生ぜせしめもするのである。(ヨハネ15:9,10,12,13,14参)
(452s) このことは、キリスト教的な徳が他のどんなものから別たれて、他のどんなものの上に高めるものであるところの大いなる隔たりであって、これはキリストとの合一が人間の内に生み出す大いなる効験なのである。
 徳はもはや、ストア派の哲学が並べ立てたような暗い劇画ではない。それは全ての異教徒の民族に見出だすところの頑なな義務論の申し子ではない。むしろ、効験するものであって、キリストへの愛から効験するもの、神的な本質への愛から効験するものであり、徳が汚れない泉から涌き出る時、それは全ての世俗的なことから解き放たれて、真に神的なものとして現れる。全ての厭な側面は沈潜して、全ての世俗的なものは沈み、全ての野蛮さは消滅して徳は明らかとなる。それは、徳が同様に穏便で人間的にならせられることによってである。
 人間的な理性はこのように述定することが能わなかったであろうし、人間的な徳は絶えず限られて世俗的な徳に留まったままであっただろう。
 人間がこの徳、キリストとの合一に達するとすぐに、静止して安寧なる運命の打擲を待つようになり、大胆に受苦の嵐に対自するようになり、物怖じせずに醜悪なる怒号に耐えるようになるだろう。ならば、誰が彼を抑圧することが能うだろうか、誰が彼から救い主を奪い去ることが能うだろうか?
 人が乞うもの、それが満たされるようになることについて人は知っている。というのも、人はひたすらキリストとの合一を乞うのであり、従ってひたすら神性を乞うのであるからだ。救い主御自らが告知された約束が高めもせず慰めもしないままの者は誰かいようか?(ヨハネ15:7参)
 人は、キリストの中の忍耐を通して、神が御自らの作品を通して神御自身が栄光を受けられるようになり、彼の完成が被造物の造り主を高めることを知っているのだから、喜んで苦しみを堪え忍ばずにいられる者が誰かいようか?(ヨハネ15:8参)
 このように、キリストとの合一は、内的な高揚、苦しみの中の慰め、安寧なる確信を貸与する。そして、心は、人間愛へと、全ての高みへと、全ての大いなるものへと、功名心からでも名誉欲からでもなく、ただキリストのために開かれるのである。従って、キリストとの合一は、エピクロス派が儚くもその軽薄な哲学の中で、また更に深みのある思想家が儚くも知の隠された深みのうちで掴もうと努めて届かなかったところの喜楽を貸与する。そして、その喜楽は、二心のない幼子のような、キリストと共にキリストを通して神と連なっている心性のみが知っているのであり、生をさらに美しく形成して高めるものであるのである。(ヨハネ15:11)

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[寸評] これを読むと、当時のドイツで教育されていたキリスト教は、アリストテレス的スコラ哲学とドイツ神秘思想を折衷したものであることが分かります。そして、そこからマルクスの宗教批判が向かう内実の理解の一助ともなります。また、マルクスの中にはドイツ的な否定神学的言表が見られますが、それはこうした知的環境で育まれたものと考えることもできます。それだから、マルクスは多様な思想に触れることによって知的に成長してきたのであり、マルクス唯物論者としてのみ一義的に定置しようとするのは乱暴であると言わざるをえません。別言すれば、唯物論的観点から理解しようとするのは一つの解釈であってそれはそれとしてご自由になさって大変結構かと思いますが、しかし、それは一側面からの把握に過ぎず、マルクス彼自身を包括的に理解することにはなっていないということは自覚的しなければならないと思われます。

【翻訳】マルクス「キリストと信徒との合一」宗教科課題作文、1835年、その1。

※以下は、マルクスが1835年にギムナジウムの卒業課題として書いた宗教科作文である「キリストと信徒との合一 ヨハネ15章1-14節での、その根拠と本質、無制約な必然性とその効験の論述」の翻訳です。底本は、Karl Marx Friedrich Engels Gesamtausgabe, Erste Abteilumg, Werke・Artikel・Entwuerfe, Band 1, hrsg. von Institut fuer Marxismus-Lenismus, Dietz Verlag Berlin, 1975, 449-452ssより。新MEGA版の頁割に沿り分割して掲載します。既存の訳があるー大月書店版『全集』40巻に所収されているそうですが入手困難のため未読です、すいませんーので、ただの道楽として訳出しました。聖書の引用はマルクスのドイツ語から。若いマルクスの気取った文体を示すためにやや気障に訳してあります。この作文については廣松渉『青年マルクス論』平凡社1980年が詳しいのでご興味のある方はぜひ(因みにその解釈について書評してありますので宜しければご参考に)。

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(449s) キリストと信徒との合一の根拠と本質、そしてその効験を論考する前に、以下のことを見てみたい。曰く、この合一が必然的かどうか、それは人間の自然本性を通して制約されるかどうか、人は神が人を無から呼び起こしたという目的に自ら自身を通して到達することが能わぬのではないか、これらについて我々は見ていこう。
 我々が、人類の偉大なる教師である歴史に我々の眼差しを向けるなら、その中に鉄の筆で以て掘り込まれているのを我々は見い出すだろう。すなわち、どの民族であれそれが文化の最高度の段階に到達している時、偉大な人々がその懐から産まれ出でた時、芸術が歴史の中で充ちた太陽を昇らせていた時、学問が困難な問いを解きほぐした時、そうした時であっても、迷信の鎖を脱け出すことが能わなかったこと、自分自身についても神性についてもそれに値する真なる概念を掴むことも能わなかったこと、人倫や道徳をも、外から付け加えられた物や下品な制限から脱して民族の中に現れることも能わなかったこと、その徳ですら、真の成就への努力を通してよりも、むしろ幼稚な偉大さ、制御なきエゴイズム、名誉や奔放な振る舞いから生み出されたのであった。
 そして、キリストの教えが未だ響きわたっていない古代の民族や未開人は、彼らの神々に犠牲を献げて、その犠牲を通して彼らの罪を贖うことを妄想して、内的な不安、彼らの神々の怒りへの恐れ、唾棄すべき内的な確信を示すのだ。
(450s) そう、古代の偉大な賢人たる神の如きプラトンは、その現れが真理と光へ向かう満たせぬ努力を満たしうるところの至高の存在への深遠なる憧憬を一度となく語ったのだ。
 このように、諸民族の歴史が我々にキリストとの合一の必然性を教えている。
 また、我々が個体の歴史をも洞察して、人間の自然本性をも洞察する時、実に我々は、神の胸中の神性の火花、善への霊感、認識への努力、真理への憧憬を見る。しかしながら、永遠への火花を欲望の焰が締め上げるのである。徳への霊感を罪への誘惑の声が聞こえなくし、生が我々にその力全てを感じるようにせしめるとその霊感を嘲るようになる。認識への努力を世俗的な善への低俗な努力が排除して、真理への憧憬は虚偽の甘美なる悦楽なる力を通して曇らされ、かくのごとくして、人間はここに立っている、すなわち、己れの目的を満たすことない自然の中の只一つの存在、己れを造りし神に値しない全ての被造物の中で只一つの肢体、そうしたものである人間が立っているのだ。しかし、あの善き造り主は、自らの作品を、忌むことがお出来にならなかった。神は人間を御自らにいたるまでに高めようとなされ、御自らの御子をお送りになり、我々に御子を通して呼びかけられる。
  「あなた方は既に汚れなく、それは私があなた方に語った言葉の為である(ヨハネ:15.3)」
  「わたしの中に留まれ、そうすれば私もあなた方のうちに(ヨハネ15:4)」
 このように我々は見た次第である。すなわち、どのように諸民族の歴史と個体の考察がキリストとの合一の必然性を論証したかを、である。だから、我々は最後のものであり最も確証的なる証明であるキリストの言葉それ自体を洞察しよう。
 その際に、葡萄の木と枝の美しい譬えよりも、どこに彼との合一の必然性を一層明白に打ち出しているものがあるだろうか。そこにおいては彼は自らを葡萄の木、我々を枝と呼ぶ。枝は自分だけの力を通してでは実りをもたらすことは能わず、その上でキリストは言うのだ、わたしなしではあなた方は何もなすことは出来ぬと。彼がこうしたことについて力強く語るのは、以下のように語る時である。
  「私のうちにないならば等々」(ヨハネ15:4,5,6)
 そうであっても、このことはキリストの言葉を学ぶことを能う人々についてのみ語られているのだと理解する必要がある。というのも、このような民族と人類についての神の意志について判断することは我々には出来ないのだ。我々は決してそれを把握しえない立ち位置にあるのだから。
 我々の心、理性、歴史、キリストの言葉が我々に大声で確信をもって以下のように呼びかける、すなわち、彼との合一は必然的であると、我々は彼なしで我々の目的を達成しえないと、我々は彼なしでは神から投げ棄てられるだろうと、ただ神のみが我々を救いうると、呼びかけるのである。

(「その2」へ続く、明日更新予定)