sekiwataruの日記

Ph.D(filosofia)のソリロキア

【翻訳】マルクス「キリストと信徒との合一」宗教科課題作文、1835年、その1。

※以下は、マルクスが1835年にギムナジウムの卒業課題として書いた宗教科作文である「キリストと信徒との合一 ヨハネ15章1-14節での、その根拠と本質、無制約な必然性とその効験の論述」の翻訳です。底本は、Karl Marx Friedrich Engels Gesamtausgabe, Erste Abteilumg, Werke・Artikel・Entwuerfe, Band 1, hrsg. von Institut fuer Marxismus-Lenismus, Dietz Verlag Berlin, 1975, 449-452ssより。新MEGA版の頁割に沿り分割して掲載します。既存の訳があるー大月書店版『全集』40巻に所収されているそうですが入手困難のため未読です、すいませんーので、ただの道楽として訳出しました。聖書の引用はマルクスのドイツ語から。若いマルクスの気取った文体を示すためにやや気障に訳してあります。この作文については廣松渉『青年マルクス論』平凡社1980年が詳しいのでご興味のある方はぜひ(因みにその解釈について書評してありますので宜しければご参考に)。

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(449s) キリストと信徒との合一の根拠と本質、そしてその効験を論考する前に、以下のことを見てみたい。曰く、この合一が必然的かどうか、それは人間の自然本性を通して制約されるかどうか、人は神が人を無から呼び起こしたという目的に自ら自身を通して到達することが能わぬのではないか、これらについて我々は見ていこう。
 我々が、人類の偉大なる教師である歴史に我々の眼差しを向けるなら、その中に鉄の筆で以て掘り込まれているのを我々は見い出すだろう。すなわち、どの民族であれそれが文化の最高度の段階に到達している時、偉大な人々がその懐から産まれ出でた時、芸術が歴史の中で充ちた太陽を昇らせていた時、学問が困難な問いを解きほぐした時、そうした時であっても、迷信の鎖を脱け出すことが能わなかったこと、自分自身についても神性についてもそれに値する真なる概念を掴むことも能わなかったこと、人倫や道徳をも、外から付け加えられた物や下品な制限から脱して民族の中に現れることも能わなかったこと、その徳ですら、真の成就への努力を通してよりも、むしろ幼稚な偉大さ、制御なきエゴイズム、名誉や奔放な振る舞いから生み出されたのであった。
 そして、キリストの教えが未だ響きわたっていない古代の民族や未開人は、彼らの神々に犠牲を献げて、その犠牲を通して彼らの罪を贖うことを妄想して、内的な不安、彼らの神々の怒りへの恐れ、唾棄すべき内的な確信を示すのだ。
(450s) そう、古代の偉大な賢人たる神の如きプラトンは、その現れが真理と光へ向かう満たせぬ努力を満たしうるところの至高の存在への深遠なる憧憬を一度となく語ったのだ。
 このように、諸民族の歴史が我々にキリストとの合一の必然性を教えている。
 また、我々が個体の歴史をも洞察して、人間の自然本性をも洞察する時、実に我々は、神の胸中の神性の火花、善への霊感、認識への努力、真理への憧憬を見る。しかしながら、永遠への火花を欲望の焰が締め上げるのである。徳への霊感を罪への誘惑の声が聞こえなくし、生が我々にその力全てを感じるようにせしめるとその霊感を嘲るようになる。認識への努力を世俗的な善への低俗な努力が排除して、真理への憧憬は虚偽の甘美なる悦楽なる力を通して曇らされ、かくのごとくして、人間はここに立っている、すなわち、己れの目的を満たすことない自然の中の只一つの存在、己れを造りし神に値しない全ての被造物の中で只一つの肢体、そうしたものである人間が立っているのだ。しかし、あの善き造り主は、自らの作品を、忌むことがお出来にならなかった。神は人間を御自らにいたるまでに高めようとなされ、御自らの御子をお送りになり、我々に御子を通して呼びかけられる。
  「あなた方は既に汚れなく、それは私があなた方に語った言葉の為である(ヨハネ:15.3)」
  「わたしの中に留まれ、そうすれば私もあなた方のうちに(ヨハネ15:4)」
 このように我々は見た次第である。すなわち、どのように諸民族の歴史と個体の考察がキリストとの合一の必然性を論証したかを、である。だから、我々は最後のものであり最も確証的なる証明であるキリストの言葉それ自体を洞察しよう。
 その際に、葡萄の木と枝の美しい譬えよりも、どこに彼との合一の必然性を一層明白に打ち出しているものがあるだろうか。そこにおいては彼は自らを葡萄の木、我々を枝と呼ぶ。枝は自分だけの力を通してでは実りをもたらすことは能わず、その上でキリストは言うのだ、わたしなしではあなた方は何もなすことは出来ぬと。彼がこうしたことについて力強く語るのは、以下のように語る時である。
  「私のうちにないならば等々」(ヨハネ15:4,5,6)
 そうであっても、このことはキリストの言葉を学ぶことを能う人々についてのみ語られているのだと理解する必要がある。というのも、このような民族と人類についての神の意志について判断することは我々には出来ないのだ。我々は決してそれを把握しえない立ち位置にあるのだから。
 我々の心、理性、歴史、キリストの言葉が我々に大声で確信をもって以下のように呼びかける、すなわち、彼との合一は必然的であると、我々は彼なしで我々の目的を達成しえないと、我々は彼なしでは神から投げ棄てられるだろうと、ただ神のみが我々を救いうると、呼びかけるのである。

(「その2」へ続く、明日更新予定)