sekiwataruの日記

Ph.D(filosofia)のソリロキア

【翻訳】マルクス「キリストと信徒との合一」その2。

マルクスの宗教科課題作文「キリストと信徒との合一」についての「その2」です。凡例等は「その1」をご覧下さい。

(451s) そうして、この無制約的な合一は必然的であるという確信に満たされて、我々は以下のことを探求することを熱望している。この気高い贈り物、この光線、すなわち、更なる高みの世界から我々の心へと魂を与えられて降り、そして浄められたそれを天上へと上げるその光線が何において成り立つのか、ということを探求することを熱望しているのである。
 我々が合一の必然性を捉えると、その合一の根拠、我々の救済の必要性、罪へと傾いている我々の自然本性、我々の屈折した理性、我々の腐った心、神の御前での我々の取るに足らなさが明白に我々の目の前に立ち、根拠がいかなるものかを我々はもはや探求することを要さない。
 しかし、キリストが葡萄の木と枝の譬えでなしたよりも合一の本質を更に美しく言表しえただろうか?キリストの言葉よりも、大部の序説のうちに全ての部分を、この合一が根拠づける最も内なるものを包含して目の前に置いたものがあるだろうか。
  「わたしは正しき葡萄の木、わたしの父は葡萄農夫である」(ヨハネ15:1)
  「わたしは葡萄の木、あなた方は枝である」(ヨハネ15:5)
 枝が知覚しうるなら、どれほど農夫を親しげに見るだろう。自分たちの世話をして、雑草を心配しながら浄め、葡萄の木へと固く結びつけ、更なる美しい花々のために木から養分と樹液を育む農夫を。
 キリストとの合一において、我々は愛に溢れた目を神へと全てにおいて向けて、我々は熱き感謝を感じ、我々は親しげに神の御前に膝を屈める。
 それで、我々は更に美しい太陽がキリストとの合一を通して昇らされた時、我々は我々の至らなさを全て知覚して然し同時に我々の救済について歓呼する時、我々はようやく神を愛しうるのである。以前は苦しませる支配者であって、今や許しを与える父として、善き教育者として現れる神を、である。
 しかし、もし枝が知覚しうるなら、それは単に葡萄農夫を枝が見上げるだけではないであろう。枝は心から木へと身を寄せるだろう。枝は己れが木と、そして木から芽を出している枝々と密接に結ばれていると感じるだろう。そして、農夫が枝々の世話をして幹がそれらに力を貸すために、枝は他の枝々をきっと愛するようになるだろう。
 かくして、キリストとの合一は最も内的で最も活力あるキリストとの共同から成り立ち、その中で我々がキリストを目の前にそして心の内に持つ。そして、同じく我々は彼への高貴な愛に満たされていることで、我々は同時に我々の心を、我々と更に内的に結んだ兄弟たちに、つまり、キリストが彼御自身を献げ物とさえもした兄弟たちに向けるのだ。
 しかし、このキリストへの愛は実りなきものではなく、それは我々を、彼に向かう純粋な礼拝と崇敬のみならず、互いのために我々を犠牲にすることにより、我々が徳に値するものであることにより、キリストの戒命を我々が保つことをも、生ぜせしめもするのである。(ヨハネ15:9,10,12,13,14参)
(452s) このことは、キリスト教的な徳が他のどんなものから別たれて、他のどんなものの上に高めるものであるところの大いなる隔たりであって、これはキリストとの合一が人間の内に生み出す大いなる効験なのである。
 徳はもはや、ストア派の哲学が並べ立てたような暗い劇画ではない。それは全ての異教徒の民族に見出だすところの頑なな義務論の申し子ではない。むしろ、効験するものであって、キリストへの愛から効験するもの、神的な本質への愛から効験するものであり、徳が汚れない泉から涌き出る時、それは全ての世俗的なことから解き放たれて、真に神的なものとして現れる。全ての厭な側面は沈潜して、全ての世俗的なものは沈み、全ての野蛮さは消滅して徳は明らかとなる。それは、徳が同様に穏便で人間的にならせられることによってである。
 人間的な理性はこのように述定することが能わなかったであろうし、人間的な徳は絶えず限られて世俗的な徳に留まったままであっただろう。
 人間がこの徳、キリストとの合一に達するとすぐに、静止して安寧なる運命の打擲を待つようになり、大胆に受苦の嵐に対自するようになり、物怖じせずに醜悪なる怒号に耐えるようになるだろう。ならば、誰が彼を抑圧することが能うだろうか、誰が彼から救い主を奪い去ることが能うだろうか?
 人が乞うもの、それが満たされるようになることについて人は知っている。というのも、人はひたすらキリストとの合一を乞うのであり、従ってひたすら神性を乞うのであるからだ。救い主御自らが告知された約束が高めもせず慰めもしないままの者は誰かいようか?(ヨハネ15:7参)
 人は、キリストの中の忍耐を通して、神が御自らの作品を通して神御自身が栄光を受けられるようになり、彼の完成が被造物の造り主を高めることを知っているのだから、喜んで苦しみを堪え忍ばずにいられる者が誰かいようか?(ヨハネ15:8参)
 このように、キリストとの合一は、内的な高揚、苦しみの中の慰め、安寧なる確信を貸与する。そして、心は、人間愛へと、全ての高みへと、全ての大いなるものへと、功名心からでも名誉欲からでもなく、ただキリストのために開かれるのである。従って、キリストとの合一は、エピクロス派が儚くもその軽薄な哲学の中で、また更に深みのある思想家が儚くも知の隠された深みのうちで掴もうと努めて届かなかったところの喜楽を貸与する。そして、その喜楽は、二心のない幼子のような、キリストと共にキリストを通して神と連なっている心性のみが知っているのであり、生をさらに美しく形成して高めるものであるのである。(ヨハネ15:11)

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[寸評] これを読むと、当時のドイツで教育されていたキリスト教は、アリストテレス的スコラ哲学とドイツ神秘思想を折衷したものであることが分かります。そして、そこからマルクスの宗教批判が向かう内実の理解の一助ともなります。また、マルクスの中にはドイツ的な否定神学的言表が見られますが、それはこうした知的環境で育まれたものと考えることもできます。それだから、マルクスは多様な思想に触れることによって知的に成長してきたのであり、マルクス唯物論者としてのみ一義的に定置しようとするのは乱暴であると言わざるをえません。別言すれば、唯物論的観点から理解しようとするのは一つの解釈であってそれはそれとしてご自由になさって大変結構かと思いますが、しかし、それは一側面からの把握に過ぎず、マルクス彼自身を包括的に理解することにはなっていないということは自覚的しなければならないと思われます。