sekiwataruの日記

Ph.D(filosofia)のソリロキア

【書評風雑考・再録】中山智香子『経済学の堕落を撃つ 「自由」vs「正義」の経済思想史』 講談社現代新書、2020年。

※2020年12月19日にAmazonでレビューしたものの再録です。段落を入れ替えたり僅かに加筆したりしてますが基本的には同じ内容です。
 
 知人の紹介で購入。以前に経済学に詳しい知人に「君の思考は1848年で止まってるね」と言われたことがあるほど、現代の経済学説には素人な私にとっては有益な入門書でした。
 本書は、経済学は端緒において倫理や価値を扱う学知であったことについての記述から始まります。そこから、大国の論理つまりアメリカニズムに吸いとられて経済学が倒錯していく過程が語られます。その上で、新しい経済学の枠組みを模索する試みが取り上げられます。本書では、それぞれの考察において、多様な思想家と多様な視点を扱っていることが特徴で、豊かな内容を持つものとなっています。現代的な問題が非常に分かりやすく紹介されていますので、目次を見て興味ある項目が出てきたら是非とも手にとってみては如何かと思います。大学生はもちろん高校の政治経済の長期休暇課題書籍に指定したならば、若い人たちにとって良い刺激になるのではないでしょうか。現役教育者の皆様、その際にはご検討を。
 個人的に勉強になったことは、ベンサムが効用utilityという語を導入したとの記述についてです。古くはキケロ、そしてそれをキリスト教に導入したアウグスティヌスが地上的善、彼的に言えば至福という究極目的に至る過程での使用ususに関わるものである中間的善をutilitasと言っており、これが中世を通して価値の議論として育まれてなんやかんやあってベンサムに至ることまでは、思想史で調べたので知っています。ただ、そうした西洋における概念史を現代の問題へと関係させることは怠っているため、本書での言及によって現代へと繋げるための様々な考え方を触発されます。
 ちょっと細かい事を。カントについて「時間・空間」による認識論ー本書では「認識哲学」と表現されていますが「私はこういうふうに認識しているんだ!」という人生哲学みたいな語の援用に聞こえてしまいますし、正確には認識する仕方つまり認識論についての哲学なので言い替えさせて頂きましたーとして言及されてますが、カントの『純粋理性批判』では「空間」と「時間」の順に考察されており、それにはしっかりと意味があるので、日本語としては時間空間の方が響きは良いですが、やはりカントさんの考え方を尊重して空間と時間と言表するのが適切かなと感じました。
 この事に関連して、古典派経済学の時代にはニュートン力学とカント認識論がメルクマールとなっていたと記述されていますが、私のような人間は、確かにカントはドイツ哲学を揺さぶりましたが一番影響力を持ったのはヘーゲルであって、カントは新カント派の隆盛によって再登場したという印象を持っているので、できればこうした知性史解釈についての参考文献が注記されていればありがたかったですが、新書の紙幅には限界があるので難しいのでしょうね。
 あくまでも個人の感想を付け加えれば、本書のように、経済学を近代思想史の中に位置づける作業から見えてくるのは、マルクスが「ヘーゲルはいずこかで記している。あらゆる偉大な世界史的な事実と人物とは二度現れる、と。ただ、彼はこう付け加えることを忘れている、最初は悲劇として、二番目は茶番として、と」(KMWS, Band III, 270s)と言ったまさに「茶番」として経済学は立ち現れているという印象を受けました。元来、経済学つまりオイコノミアはオイコスつまり「家」についての「ノモス」取り決めーと言っても野比家の家計事情のようなものではなくて大規模家族経営の財政状態を示しますがーであり、その意味で、人間の生に直結する事態であったものが、その本来的な意味を剥奪されて、利潤最大化原理を拡張するものとなっているというこの現実は、神のオイコノミアー神がこの世界をどのようなものとして創造してまた創造し続けているのかーについての学であって、従って人間の欲望や実態を直接的に扱うものであった神学が、中世末期頃からそうした分野を切り捨てて単に概念をこねくりまわすだけの社会的にも経済的にも保障されて安定した階層に属する人々による言葉遊びと化して行った歴史の二番煎じとなっているわけです。神学の場合、それを取り戻すために血の滲むようなー実際に異端者として断罪されて血を流した人々もいますー努力によって一進一退していますが、経済学の場合は果たしてどうでしょうか。それをこれからの課題の一つとしたい、本書を読んで感じました。

 以下、本書でのキリスト教の扱い方から触発された長い蛇足。
 本書は、どちらかと言えば、キリスト教について好意的な傾向があるようにみられます。著者が仰るように歴史の解釈は多様であること自体は御説ごもっともです。しかし、現実は讃美歌の歌詞のようには優しくないという事実も見ていかなければなりません。本書には、キリスト教共同体の中で育まれていた人々が囲い込み運動によって住まいを追放されるに至って貧困の問題が現前化したという描写があります。私のように宗教批判に身を置く者としては、それ以前から社会的階層の固定化による格差と貧困の問題は存在し、その固定化の原因がキリスト教教義にあることを無視するわけにはいきません。キリスト教教義の最重要人物であるパウロは『第1コリント書簡』第7章20,21節で奴隷がその身分のままでいることを奨励しー日本語訳聖書はギリシャ語を訳していないのか文意が伝わりませんがー、『ローマ書簡』第13章ではローマ帝国支配は神の意志であるとしています。また『第1ペテロ書簡』ではー著者はペテロではないことは保守的なカトリック神学者の中でも認める方がやっと出てきましたが、ペテロ本人が書いたかどうか、それはとりあえずどうでもいいことで、ペテロ本人が書いたと見なされてきたせいでカトリック教会内部ではかなり重要な文献となってしまったことが問題なので、この擬似ペテロ書簡は後の権力追従奨励を基礎づけた文献という性格を持っていますー支配者への隷属はキリストの従順であると説かれています。このように、キリスト教の諸言説が世界の支配的表現となって行ったのは、それらが支配者側に正当性を与える根拠となっていたからです。あまつさえ、キリスト教は貧困を彼らに神が与えた恵みとすら語りだしー有名な山上の垂訓の一説「心の貧しき者は幸いなり」の解釈を巡る趨勢ー、貧困を問題視しない側面は絶えず昔からつきまとっていました。
 と、このように書くと問題視する側面があるかのように見えますが、実際、貧困に苦しむ人々こそがまず神の救いに与るのであって、その人々のおかげで自分たちも救われるのだ、という考えが、権力追従の裏にあります。クリスマスを例にしてみれば、『ルカ福音書』のイエス誕生神話を見てみれば分かります。『マタイ福音書』の場合、著者は三人の占星術の学者ー彼らは占いのような胡散臭い事をやっていたのだから世間から疎まれていたとナンセンスな講釈を垂れる無知な連中もいますが、当時の占星術は農耕社会においてその政策を決定する経済的重要学問であって、現代的にはハーバード・ビジネススクールの教授が三人やってきたと言い換えれば分かりやすいでしょうーが、庶民は未来永劫に渡って手にすることがかなわないような超高級品を手土産に、イエスの両親の滞在する家ー『マタイ福音書』の当該箇所をよく読めばわかりますが、彼らは汚い馬小屋なんぞではなくちゃんとした場所に滞在してますーに行くというセレブ感溢れる描写をしながら、権力者への追従と同じ構造でイエス誕生を語っています。それに対して、『ルカ福音書』では、暗がりの寒い夜に野外でまるで人目を避けるように羊の番をしていた羊飼いたちに、天上から天使たちが輝きつつ神の救いを告げ知らせます。当時の羊飼いは他人の土地に出入りするために疎外されていたという背景も考慮に入れると、これは衝撃的な描写です。日々の仕事に埋没して名も無く誰からも承認されることのないまま夜をさ迷う、そうした痛み苦しみを抱える人々にこそ、「地に平和」と告げられます。なお、続く言葉はラテン語経由で「善意の人々に」と訳される場合がありますが、ここはそういう限定的で閉鎖的な意味ではなく、「神が喜ぶものであるそういう存在であるところの人間に」という内実であり、人間は神に愛された存在であって誰一人として例外はないという意味を示し、ちょっと前の2章10節での「すべての人々」と呼応しています。このように、イエス誕生神話にも、権力者への追従と貧しき者たちこそが神の救いという言わば相反する理念が盛り込まれているのです。
 せっかくなので、他の例も『ルカ福音書』から。この福音書著者ーおそらくパウロの同行者であるルカさん、同行者だからと言って「パウロの弟子」ではありませんーは、隙あらばイエスの伝承を罪人の悔い改め話に変えてしまうので注意深く読まなければなりませんが、16章19節以下の金持ちとラザロの話からー27節以降のユダヤ教教義話はルカの追加でしょうー、古代から中世に渡って神に名前を覚えてもらって救いの手を差しのべて貰えるのは貧しくて苦しむ見放された人々だという共通理解が生まれました(例えば、邦訳書で読めるものは、ニュッサのグレゴリオス『司教と貧者』新教出版社教皇レオ一世『福音書講和』創文社)。
 こうした感覚、つまり、金持ちへの嫌悪感はイエス本人に由来すると言えます。例えば、同じ16章の借金を棒引きにした執事の話。これ、ルカさんが余計な講釈を付け加えたせいでわかりにくいですが、借金のせいで貧困に苦しむ人々に苦しむ原因の借金を棒引きにしてくれる誰かがいたらいいよね、と語りかけているかのようですー知人がこの話は払えない金額にまで膨らんだならば棒引きにしたほうが社会的効用関数が上がることを示していると言ってましたがそこまで考えていたかはイエスさん本人に訊かないとわかりませんけれどー。
 こうした感覚は、これでもかという位に詭弁を弄して構築された中世神学の内部でさえも維持されてきましたー知人の受け売りですが、かのトマス・アクィナスにもこの考えがあったようですー。しかし、神学が神学者たちの玩具となるに従って、裕福に満足しきった連中にはこうした考えは無用の長物だったからか或いは教会が単なる政治闘争の場となってしまったからか、詳しくは資料による研究が必要ですが、結論から言えば、貧者が隣人であるという視点が実践の立場から省みられることが少なくなっていきます。貧しき者こそ救われるという理念がキリスト教神学の学的対象から外されて行ったこの時期と、経済学の誕生がリンクしていると考えられる以下の指摘があります。それは、経済学者ハイエクがロバートソン(貨幣論で有名なロバートソンさんとは違う人)の言葉として、資本主義を基礎づけた思想はカルヴァン主義よりもスペインのイエズス会だとしている記述です。スペインのイエズス会の理論について詳しいことは知人の受け売りですが、基本的に自由市場の推奨と擁護です。そこでは、経済の問題としては正しい価格による適切な取引へと重点が移行し、貧困は経済よりも慈善の問題となり、貧困との対決は個人倫理の議論となったのです。貧困と共にあることが神学の対象であってまさに教会や政治の理念であったその視点は、近代以降、個人がやりたければやればいいという神学から切り離された道徳心の問題になっていきました。つまり、神学はその理念を棄て、外部に抛擲したのです。神は栄光の神であって栄光を具現化する制度こそ神の救いの現れでありーイエズス会の理念たる「より大いなる神の栄光のために」ー、だから貧困よりも財の拡充こそが課題であるー近代的な「産めよ増えよ地に満ちよ」ですが、知人によればトマス・アクィナスの中に既に見られるそうですー。確かに、キリスト教の良識的な部分では貧しき者たちにこそ神が向かうことを示した人々も近代にはいますー例えば古い呼称だとヴィンセンシオ・ア・パウローが、彼らは主流派ではありません。今なぞは、「貧しき人々は神が救って下さるから、教会はお金持ちの皆様と関わりましょう」やら「お金持ちの皆様は教会に多大な御寄付をして下さるのだから、その邪魔をするようなデモやストは反キリストです」やら「私はセレブの仲間入りをしたくて入信したのだから貧しい人たちと関わりたくない」やら「貧しい人に炊き出ししても信者にならないのだからそんな目立たないことよりも目立つ社会的活動をしよう」とか吐き気をもよおす言葉を平気で教会内部で語っているようです。こうしたキリスト教が自らの理念を忘れた情けなくて涙が出てくる歴史を、本書で語られる経済学の低落を見ていると思い出します。
 キリスト教の場合であれば、イエスというあれ程までに時流に抗って人の自由を取り戻そうとした人物を本気で考えてそれを毎日の中で自分に出来る範囲で小さくても信頼しながら信念を持ちながら実践することで、僅かとは言えども変えられる契機となります。では、経済学は誰の何を指針にすればいいのでしょう。ケインズアダム・スミス?いやもっと遡ってアリストテレス?しかし、彼らは学者であって、考える仕方を精錬してはくれても人間の生を根幹から変革しうるだけの身震いするような何かを私たちに告げてくれるかどうか。だとすれば、私たち自身が私たち自身の手によって変えていかなければならないでしょう。学問とは、つまり「知る」という行為は、人間の存在を根底において支えて揺るがす事態です。それを、経済学であれ神学であれ、学者という特権階層の手から取り戻して、私たち自身が学的主体とならなければならないでしょう。それぞれの苦しみや痛みを背負いながら、それを互いに共通の課題として分かち合い、自由な個々人が補完しながら一つずつ克服していく。私はこれをマルクスから学びましたがーまぁ誰から学ぼうがどうでもいいことではありますー、誰の考えであれそれに固執せずに、私たちこそが私たち自身の生の主体となりうるような現実を実現できるように新しく学びの歩みを始めることが重要なのだと、本書を読んで感じました。