sekiwataruの日記

Ph.D(filosofia)のソリロキア

【否定的書評風備忘録・再録】白井聡『武器としての「資本論」』東洋経済新報社、2020年。

※これは、お読みにならないほうがいい文章です。以前の何時に書いたものだったか確認するのも億劫な気になるAmazonレビューの再録です。再録にあたり、もう一度本書を読み直して違う切り口を探しましたが、否定的な感想が増すだけでさらに文章を不快にするので止めました。その為、内容は変わっていません。

 もし何処かで以下のような書評を見たとしたら不快になりますし、実際このような文章を書いていても自分で不快になります。ですが、現状の問題を明確化するためにも書かれた言葉として表しておきます。
 この著書は『資本論』の入門らしいですが、そうだとすればその『資本論』とやらは退屈な教訓譚ですね。どうも私の知ってる『資本論』とは違う本のようです。また、自己啓発本をあたかも乗り越えるかのような帯広告が目に付きますが、この著書への読者的態度としては、御偉方の御血縁者という上流知識人様の有難い御託宣を下流大衆たる自分は恭しく拝聴させていただくというのが相応しく、著者と共に問題を読み解いていくという主体的態度でいるとおこがましいと怒られそうです。その意味で、本書自体は他愛もない左派向自己啓発本にすぎないのですが、しかし、この著書が受け入れられる構造は何か、そこへと思いを向けることで非常に重い問いへと投企されます。この著書がこれ程に受け入れられるという現状は保守派諸兄には朗報です。皆様の栄光はまだまだ続くでしょう。というのは、この著書の類いの左派潮流は、現状批判をする上で単に現行の支配的イデオロギーを槍玉に挙げて別のイデオロギーを代替しようとするだけで、現行のイデオロギーを支える構造それ自体を探究してそれを成り立たせる文脈を克服しようとするわけではなく、従って未だーというよりも未来永劫に渡ってー現実の問題をその本質において把捉できないからです。
 最初に気になった点を幾つか。
 マルクスを読めば生き延びる知恵やらヒントやらが得られるそうですが、ヒントなら別にマルクスでなくともギリシャ神話でも二時間ドラマでも代替はいくらでもあります。そもそも知恵を得るという第三者的視点では『資本論』をなぞることはできても理解には至らないでしょう。フランス語版『資本論』の廉価版に寄せた序文でアルチュセールー彼のマルクス解釈の妥当性については問わないことにしておきますーが『資本論』を読むことを「歩みmarchant」(Althusser, L., 'Avertissent aux lectures du livre I du Capital', "Le Capital", traduction de Roy, J., Flammarion, 1985, p11)と表現して人々が苦しんでいる現実に「向かうvenir」(ibid, p25)ように促します。つまり、『資本論』の視点は自分の問題なのだということです。これは興味深い指摘です。資本主義に抑圧される当事者として社会を何とか変えていこうとした格闘の記述が『資本論』だとすれば、他人事として傍観者的に眺めるのでは『資本論』の問題意識とはまるで別の方向に進んでしまいます。
 次に、商品の商品による生産というスラッファ流の言葉が出てきますが、それがパラフレーズとして妥当かは脇に置くとしても、「資本主義的生産様式が支配的である諸社会の富」がそのような形式で「現れる」(KMWS, IV, 3s)というマルクスの『資本論』冒頭によれば、商品の分析は資本主義の歴史的特異性の現象の探究として着手されたので、問題を整理するためには歴史的な視点が必要になります。資本主義的生産様式をそのもの自体として把捉するのではなく、それが富という表象で現象する、これが「…が~として現れる…erscheint als~」という語句で示されています。だから、その表現を読めば抽象的な叡知界の問いではなく現実の経験的な世界での現象つまり歴史的事象の問いなのだということすぐにピンと来ますーちょっとでもドイツ哲学を知っていれば気づく特徴的な表現です。そういう文言が出てきた時にはその視座を読者と共有しながら解説するのが入門書ですが、提示の仕方がちょっとでもややこしい問題は黙殺して先に進むという態度って楽でいいですねー。確かにマルクスの歴史把握に同意するかどうかは書き手の自由です。が、マルクスを紹介するなら正確な紹介をした上で「それに対しては筆者としては以下のように考える」とすべきでしょう。
 ここまでの話をまとめると、本書には人間の歴史的現実の内から『資本論』は産み出されたという視点が欠落しているということです。つまり、『資本論』が歴史抜きの知恵文学にされてしまっているのです。
 したがって、抽象的人間労働の話にしても、何故そのように歴史の中で労働が抽象の中に埋め込まれてしまったのかが抜けてしまいます。交換価値とは何か、労働者の労働が労働力として商品化されるとはどういうことか、これらについて歴史性抜きで語られるために現実から遊離した寓話になっていきます。それではどのように労働者が労働を自らのものにするのかという歴史的課題が空虚なものになります。
 その課題にはAufhebung des Privateigentums(例えばibid, II, 834s) つまり私的所有の止揚の内実を捉えることが必須となりますがこの著書では論じきれていないように思われます。これ、たまに「私有財産の廃止」という訳語をあてがう方がいますが、Eigentumは本来なら目的語を伴う言葉です。ここは、マルクス独特の省略した物言いで、略されている目的語は生産手段です。労働者は自分で生産手段を持たないから工場を持っている資本家の所へと働きに行かなければなりません。そこから搾取という問題が生じるのです。そうした問題を解消するために生産手段の私的所有を今の段階から一つ上の段階である社会的gesellschaftliches所有へと上げる(vgl, ibid, IV, 927s)、これがマルクスの言う否定の否定であり、個人的所有の再建へと連なります。この辺が脆弱ではマルクスの紹介としての役割を果たせるかは疑問ですー単なる個人的思い込みを書き連ねるだけならどうぞご自由に、ですがー。
 この著書の中でとりわけすっとんきょうな話が「贅沢」論議です。日々の生活を生きられるかどうかで苦しみ今日の糧のために自分を売り渡している市井の人々はそれどころではないという現状を理解されていないようです。従って本書で言われる「生き延びる」云々には衣食住が満たされた生活に余裕のある人々が該当するのですーもうこの時点でマルクス資本論』の射程から遠く外れているのですがー。この話が資本に飲み込まれない「感性を磨け」論議に至ると、それが出来ない位に余裕がない生活だからこそ労働者は苦しんでいるのだということに御自分は感性が働かない御様子で、こうなると「どうせいくら頑張った所で親の年収によって予め人の一生は決まる社会なのだから賃金労働当事者はおとなしく革新政党に投票してそのお情けにすがっとけ」とズバリ言われた方がすっきりします。まあ、こんな薄っぺらな贅沢やら感性やらを語る口があるならその前にすったもんだしながら汗水たらして砂埃にまみれて日銭を稼いでみなさいよー研究職なら文献探究の過程で資料のある場所まで太陽に焦らされながら歩き冷房の効かない書庫の中で単語の意味を確定するために誰も読まない紙の山にもみくちゃにされてこれが稼ぎに繋がらないことを自嘲しつつも自負を持ち現前の問題を考察し続けて気づいたら汗埃まみれになっていなければ嘘ですーと皮肉も言いたくなりますがそれはさておくとして、『資本論』の著者が「インクがない」と吐露しながら書いた言葉の真意をそれらの主張の何処に見出だせと言うのでしょうか。
 そもそも『資本論』が政治経済学批判という副題を持つのは、現実の資本主義は矛盾を抱えている、その矛盾は現実の映し鏡である経済学に反映される、だから経済学を分析して批判することを通して資本主義の矛盾を明らかにするという探究の仕方を遂行していることに因ります。換言すれば、現状のブルジョワ経済学では駄目だからマルクス経済学を代置すれば丸く収まるという話ではありません。課題は経済学の批判によって明らかとなった矛盾をどのように克服するかであるのに、単に経済っぽい用語を振りかざしてその解説に終始しているが故に、結局の所、社会を変えることよりも自分の内面を磨けなんぞという俗流自己啓発本と同じ結論にたどり着くわけです。資本主義の矛盾が現状では変えがたいほど強固なものだからといってその変革よりも個人の意識を変えるように告げるのは、犯人が断罪できない権威者だからと言って追及しないで被害者に忘れるように迫る捜査官のようなものです。そんな話がありえないともナンセンスだとも言われずに容認され仲間内からは称賛されているのが本書を巡る言説だと気づけば、それがどれだけ一般的な感覚から離れたものであるかが分かるはずです。
 このように、本書の文体は良く言えば素朴で悪く言えば稚拙な考察で貫かれています。軽量スマホじゃないんだから思索が軽量なのはご勘弁をと思いますが、そうであるが故に重厚すぎる解説書より近寄り易い印象を与えるのかもしれません。あるいは、書き手である博士様の「残念に思った」からというだけで他者に対してその生命の存続ー左派にとっては何よりも大事な価値観のはずのそれーが終焉を迎える事を祈願するかのような文言を表現するような筆の迂闊さというか言葉の選択についての浮泛さ加減が逆に親近感を生み出すのかもしれません。しかし、紛いなりにも古典の紹介であるなら一言一句に詳細な注意を払うのが研究者たるものだとは自分にも突き刺さりますが、素人である私ですら違和感を覚える程に思索が充然ではない論述は余り誉められたものではないでしょう。
 さらに、先ほどの話と重なりますが、本書では上述のように『資本論』の込み入った問題、つまり、それを考察することで新たな問題意識を触発する事柄の内実には迫っていきません。約言すれば、旧い教条的マルクス主義経済学をなぞるだけで、独自の知見を加えて多角的に検討がなされることはありません。この著書を読むと懐かしくなります。その懐かしさとは、食レポでタレントさんがパサパサの蕎麦を食べて「懐かしいお味がします」と言う時のあれです。客足が遠退いて保管しっぱなしの食材を今更出された感なのです。
 しかし、これがこの著書の魅力なのです。すなわち、もはや賞味期限切れの左派的言説を好んで用いる団体ー例えば唯物論を「人間は脳を使って考える」位に語る浅薄な講釈を有難く珍重されている方々ーを主眼に置いて何やらの配慮をして産み出されてきたのが本書ではないかと言われうる余地が多分にあります。だから、意図的であれ無意図的であれそうした団体のとりわけ古参的指導者層がお持ちになっている所の今は亡き社会主義国家への望郷の思いを擽ります。そこから、指導者層がこの著書を折り紙付きで宣伝し、純粋な団体関係者各位は指導者御推薦本を参考書にしたり手引書にしたりするようになっている様相が容易に推察できます。このようにして、団体関係者は自らが個々の問題意識を持ち各々の苦しみを背負っている特異な存在であることをその純粋な思い故に手放して単に団体の公式見解を反復する拡声器と成り果てていきます。何という美しき唯物論的世界。レーニンさんも冷笑されていることでしょう。
 ここにこそ、本書が暴き出した現実があります。それは、格差社会やら何やらの社会的病理があるという話ではなく、そうした社会的病理の中で呻いている人々が苦痛を自らに背負わせる構造をなぜむしろ喜んで受容するのだろうかという問題の内実です。結局の所、この問題に左派右派の差はありません。どちらも、自らの人格を物として自らの信奉する権威に売り渡しているのです。というよりも、売り渡さざるをえないほどに日常で抑圧されているということです。比喩的に言うなら、自らの苦しみ痛みをどうにかしたいと足掻けば足掻く程に鎮静剤を与えてくれる何かに自分自身を売り渡してでも疼痛をまぎらわす為にそれにすがらなければならないのです。すなわち、現実の苦痛を何とか表現しようとして、それを一見助けるかのような手招きをする団体に参与すると、そこで与えられる手段は拡声器として叫び或いは叫ばされ若しくは叫ぶことが務めであると自分を自分で惑わせていくことしかないのです。確かに声を上げれば一時の気晴らし作用はあるでしょう。しかし、それは気晴らしにしかすぎません。声をあげさせられているということは、苦痛の原因そのものから目を背けさせられて、表面上の問題だけしか視界に入れさせられなくされていることなのです。本来なら、この苦痛の表現の仕方こそ変えねばなりません。必要なら叫べばいい。ただし、叫ぶだけでは何の意味もありません。叫ぶことを越えて実践する。では、何を。しかし、こうした変革に着手することは団体が自らが扇動しているに過ぎない事実を告白することになる。そんなことを賢しい人々は決してしない。だから、敵対相手を作り上げてそれとの闘争をしている体を見せて問題の本質から目を背けさせながら我らは強くなったぞ勝ったぞと嘯いて支持者に甘い飴を与えているのです。
 本書から見えることは、こうした流れに便乗して左派知識人が対立を鮮明にしていずれの側につくかを問題の中心に据えているという劇画的状況です。そして、支配体制から弾き出された人々を収集して、彼らの痛み苦しみをその関係団体が議会で議席の僅かに増えたことへと解消していきます。現実の個別的な不幸が大衆運動へと還元されて霧消される。人間が個別的人格性を剥奪されて「一票」として計上される政治的現実。まさに、マルクスが観念論的疎外として批判した事態を左派知識人が率先して実現しているのです。本当は、どちらかを選べではなくその相反が成立する根拠それ自体を暴露すべき、つまり問題を覆い隠している仮面を剥ぐことを担うべき左派知識人が単なる団体の旗振りでしかなく、自分たちの周辺にのみ関心領域が留まっている小市民でしかないことが本書の書かれた言葉から見えてくるのです。だから彼らが言う理念ー例えば学問の自由ーは、この社会の在り方をその理念を明確にすることで根底から変えていく契機にはなりえず、かなりの程度で生活に余裕があり地位も保証されている人々にだけ関わる絵空事にすぎなくなります。これでは大衆の支持を得られないでしょう。左派知識人は保守派論壇から批判される価値すら自ら放棄したのです。
 本当の改革は、そんなに容易く生じません。ドイツ農民戦争しかりフランス革命しかり、多くの血が流されて何とか獲得してもそれをまた新たな支配者が剥奪する。しかし、それは全て剥奪されるのではなく僅かに未来へと繋がる何かが残されて生き続けて新たな改革への発露となります。共闘だの連立だのの標語を並べれば実現できるものではありません。今なぞは、そうした御題目の元に異論を排除して意見を強制化していく輩がインターネットの中でも跋扈しています。そんな状況で、空語で惑わせつつ上意下達の団体の部品として自分を売り渡すように人々を促すのは知識人というよりも説教家です。そうではなく、抵抗と改革の悲劇的道筋を自覚しつつ、それでもなお続ける歩みを皆共に踏み出すようにと筆を執り続けることこそが知識人の使命ではないでしょうか。
 本書の内容はともかくその成立背景を思う時に身を揺さぶるものを感じたという意味で、有意味ー有意義ではなくーな読書体験ではありました。