sekiwataruの日記

Ph.D(filosofia)のソリロキア

【書評風雑考・再録】J.G.Fichte, "Revendication de La Liberte de Penser", Traduction nouvelle, Introduction, Dossier et Notes par Jean-François Goubet, Le Livre de Poche, 2003.

※以下は、2020年12月28日にAmazonでレビューしたものです。

 本書は、フィヒテが1793年の初頭に架空の演説をしたという設定で書かれた『思想の自由をこれまで抑圧してきたヨーロッパ諸侯に対して返還要求をする』という著作のフランス語訳です(一昔前の『著作集』だと第6巻所収、日本語訳は未読なので日本語版『全集』の何巻に所収されているか確認していません、すいません)。こうした「思想の自由」についての知的伝統をさらっとポケットサイズで翻訳するあたりフランス書らしいです。上から目線で「学問の自由」だの何だのを宣う主義者の方々も、それにまつわる名著を翻訳なさったらいかがと思いますが、まぁそんなことをしたら御自分たちの標語がいかに底が浅いかが分かってしまうのでおやりにならないでしょうけれど。
 さて、本書は1794年にザクセン選帝侯国の禁書目録に載りました。そんな社会批判の書の冒頭で、フィヒテは「野蛮の時代は過ぎ去った」と宣言をします。その上で、「君が君自身以外の何者にも属していない」、このことを「自由と共に君の胸中深く刻み込んだ」存在こそが今を生きる人間であることを力強く語りかけます。そして、「人間は物件として与えられたり、売られたり、贈与されたりすることはできないのだ。人間は、自分自身のものであって、そうあり続けなければならないのだから、何者の物などでありはしない」と述べられ、「人間に命令できるのは、内なる掟のみ」とし、それを相互に認め合う社会契約、「そうした契約を、すなわち全てのメンバーの一人との、若しくは一人による全員との契約を、市民社会は前提とし、それ以外の何物にも基づくものではない」、つまり、個々人の自由な意志による共同が定置されます。その上で、自由に対する検閲が必要だとか、自由は無秩序を生み出す名状しがたい悲惨だとかの支配体制側の妄言を一つずつ反駁していきます。そして、権威者に「君主よ、汝は我々の思想の自由を押さえつける権利はないのだ。権利もないくせに、そのようなことをしてはならない」と投げつけます。
 この著作の内容を書いていくと一頁ごとに訳していきたくなりますが、要点だけ以外に示しておきます。フィヒテフランス革命の影響下にあるドイツの階級対立の現状を、古い秩序が崩れはじめて新しい時代の胎動を見いだしうるものとして、その新しい時代を造り出す上で阻害する為政者の態度を批判していきました。人間を物のように扱って自分の思い通りになるように支配する、これが問題である。人間とは、自分の自由な意志による自律的な主体であって、かけがえのない人格なのだ、と。しかし、それは今現在において実現しているわけではなく、そうあるべき人間がそうではない現実の中に埋め込まれている。その要因である絶対主義国家をこそ乗り越えようとする著作だと言えます。
 フィヒテは、自由な個々人による革命権を擁護します。しかし、いわゆる暴力革命を否定して、自律した個々人が考えながら自らの課題を一つずつ克服していくようなそうした革新を主張します。だからこそ、「思想の自由」が必然なのです。数に頼った力による変革ではなく、自由な判断をこそ社会を変えていくための基盤としています。従って、「思想の自由」とは単に選ばれた階層の特権を擁護するための自由ではなく、社会の全ての人々が新しい時代を造り出す起動力となるものなのです。
 本書には、詳細な解説がつけられていて、それがまた興味深い記述となっています。サイズも手頃ですので、現代社会を考える際の枠組みをお考えになられたい方に是非とも推薦させて頂きます。

現在の「思想の自由」について、本書を援用した蛇足 
 思想であれ、学問であれ、人間にとって「知る」という行為は主体性の根本であります。つまり、人間であることにとって共通の基盤です。しかし、昨今ではそうした「知る」という行為は、ある種の特権階層にのみ賦与される聖域であるかのように語られています。しかも、特権階層を擁護するために「国民」という概念を持ち出し、特権階層への介入は全ての国民に害すると騙っています。ただ、その騙りのおかげで余計にその言説の蒙昧さが明確になっています。
 その言説とは、このまま放置しておくと国民をやがては抑圧する脅威となるから予め取り除かなければならないという論調です。そうした文脈で語られる「国民」とは、自由で平等である、そうした民主的な存在を前提としています。この言説は、フィヒテが言っていた人間は自由で平等な人格として扱われるべきという倫理的理念を、自称科学的な主義者の皆様は実際の人間の様態と履き違える、つまり、観念的倒錯をおかしているのです。今はかろうじて自由で平等であってもやがてはという語り口をしたところで、その「国民」とは観念的に抽象化された概念としての国民であって、従って選ばれた特権階層にしか該当せず、実際の大衆はもう既に全くもって自由でも平等でもない現実の中にそもそも投げ込まれているのです。かろうじて自由であるどころか、もはや完全に押さえつけられて鉄の檻に閉じ込められています。学級会やら部活のしごきやらにはじまり、サークルやゼミの人付き合い、会社のお茶汲みやコピー取り、花見やカラオケ大会での酌回り、そんな特権階層の方々には想像もつかないような次元の中で、既に大衆は自らの自由を剥奪され続ける生を与えられていますー生まれた時からちやほやされることに慣れきっている御大層な御家柄の皆様は味わうことのない苦みでしょうけれどー。自由な発言どころか自由な活動すら制限されて規定されているのです。つまり、大衆は抑圧されて痛み苦しむ今を日々暮らさざるをえないわけです。だから、やがては脅威となるという言説自体が、現実から遊離していて、本当は抑圧されて規定された生き方を押し付けられているにも関わらず、政治的建前としての民主的社会が現存しているかのように語っていることになります。要するに主義者の方々は、全ての問題は政治的虚構の中でしか生じていないと考えているのです。ここに、政治団体の仰る言葉が浅薄で蒙昧に響く根本的原因があります。権力濫用による抑圧は、やがてなんて生易しいものではなく、普通の毎日が抑圧と苦痛の中にあるのです。普段から特権を後主張なさっておられる方々にたまたま政治的劇場で出会した権力濫用が危険な兆候だなんぞと主義者の方々が宣うにつけ、大衆側としては「政治団体さんは呑気にいずれ抑圧するようになるなんて言ってやがるが、てやんでい、こちとら毎日、首切られるかびくびくしながら上役にいびられ、食う物や住む場所だっていつなくなるかわかんねえ上に、生きてくのに使わにゃなんねえ金までお国に税金で持ってかれてんでい」と言いたくなります。その意味で、御自分たちは御立派な御批判をなさっているのだと悦に入っておられる御様子ですが、その言説を根底において考察すると、既存の体制を批判するどころかそれを肯定して補完するような内実であることが暴露されるのです。俗に言う、底が割れるというやつです。このように、国民の問題ですと言いながらその「国民」とは主義者の方々の想念でしかなくー従ってごくごく一部の選民にのみ賦与される特権的状況ー、実際の大衆はもはやそれとは解離していることにお気づきになっていないことが明らかで、換言すれば、一連の言説は、社会的に地位も生活も保証されている御自分たちに都合の良い一部の特権階層の擁護でしかない議論をもっともらしく見せているだけでしかないのです。大衆にとっては端から存在しない自由を特権階層の方々は未だ謳歌していることを語っているにすぎません。まぁ、団体の宣伝紙では自らは特別に保護されて当然と傲っている方々が声を騒ぎ立ててる様子を述べて「仲間が増えました」としているようですが、本質的な議論を展開しうるだけの地力がないのか無垢な子ども達が口にするような「みんな言ってるもん」的な語り口を大人ー本当に大人かどうかを疑いたくはなりますがーが書いている或いは書かされている図は滑稽を通り越して憐憫の情を感じます。
 思想の自由に対する本当の敵とは何か、それは、現実の苦痛を省みず、抽象的な概念をこねくりまわす作業を「科学的」と僣し、それにより問題の内容を吟味せずに表象部分をなぞることしかできなくなり、結果として、団体の数を増やすことに躍起になって実際の抑圧の構造を拡張するだけの連中に隷属してそれを補完するだけの役割しかできない主義者の指導層なのです。その姿は、もはや現実を批判するに能わない只の道化であって、ブルジョアの論理が奏でる楽曲によって踊らされているのです。でも、一人でその道化芝居をしているなら嘲笑していれば良いですが、苦しんでいる他人を上辺だけ気遣うかの体でー自分たちは指一本貸さずに蒙昧な政治談義に熱中しているだけで、実際は冷暖房の効いた部屋からの上意下達によって日銭を稼ぐことすら難しい人たちが寒空の下で拡声器として声を出すように強いられているのですー巻き込んでいくのでたちが悪い。道化は、自分たちの軽薄で稚拙な妄想の産物に過ぎない自由や平和といったものこそが絶対的に正しく、それに対する批判や議論を認めないという主義者的態度によって動機づけられています。その態度が陰に陽に団体全体へと伝わり、そこを通して自由についての開放された討議を押さえつけていきます。それは、政治的浅慮から数を集めることにしか頭が向いていないためです。数を集結して意見を集約する、その結果生じるのは抑圧と排除です。自由を守るという標語のもとに、自由という概念を上から規定して逆らう者を弾圧する。この、数を集めることに起因する一元的で画一的な意見の一致の強制こそ、思想の自由に対する本当の敵です。こうした抑圧こそが正しいと信じる或いは信じ込まされている若しくは信じるように自分で自分を抑圧している方々は、実は彼女ら/彼らが敵対視するところの差別主義や保守主義と同じ穴の狢でしかありません。根底にあるのは辺境な独善主義であって、無意識的に持つ所の自民族中心主義にどっぷり浸かっているのです。何であれ価値語を簡単に標語として用いる輩こそが、その価値を踏みにじる構造を補完しているのです。
 そうした構造を克服して変革するためにするべきことは何か。まずは、自分の自由を決して誰かに売り渡さない、あるいは、かけがえのない自らの政治的内実を耳障りのよいことを拡声器で連呼するような各種の政治団体に隷属させない、もっと言えば、政治を政治屋から取り戻す、そのことが起点になるでしょう。「国民の声に耳を傾けます」との建前の裏には「大衆の不満を聞いてやっている」という本音があるのでしょう、昨今の自由だの平和だのを宣う団体構成員が「大衆が何かをすると言ってみたところで無駄で実現が出来ないのだから、結局は政治家に委ねるしかないわけで、選挙で私たちに投票を」とか寝ぼけた事を抜かしてましたがー本当に寝ぼけてるだけの方が幾らかマシと言えますー、そういう思い上がった連中に一泡ふかせることが出来るのが大衆一人一人の底力であり、そこにこそ、これからの改革の切り口があるのです。大事なのはどの団体が政治的多数かではなく、どれが多数派であっても自らの意見や主張を決して変えないという本当に小さな然し確かな思いです。
 本書を読んで、そのように強く感じました。多くの方々に、何らかの手段でこの著書ー原典であれ訳書であれーに触れて頂きたいと願っています。