sekiwataruの日記

Ph.D(filosofia)のソリロキア

【書評・再録】Karl Marx Das Reich Der Freiheit, herausgegeben von Kurt Lhotzky, Anaconda, 2018

※以下は、Amazonレビューに2020年12月3日付けで掲載されたものの再録です。

 本書は、マルクスの生涯に渡る著述活動の中で「自由」を語る場面を年代順に掲載したアンソロジーとなっています。マルクスの主要著作からは勿論のこと、ジャーナリスティックな論考からも集められているために、非常に豊かなマルクス像を読み解くことができます。アンソロジーとは格言集ではなく、気になったあるいは自分の問題意識と関連する記述があればそのテキストに当たるための導入の性質を持っている必要があります。そのため、出典が何処かを明記していなければ何の意味もないのですが、本書はMEW版の巻数頁数をきちんと教えてくれています。マルクスを知りたい/批判したい方々は本書から読み始めるのもありかと思います。
 本書は、教条的マルクス主義者の方が編纂されるような党派性に合致した著作からのみ収録されたものではなく、全般的に網羅されています。また、『資本論』をマルクス経済学の聖典としてそれを持ち上げる形で構成されてもいません。従って、『資本論』を通してマルクスの思想全体を読み解く、つまり旧来的なマルクス理解の仕方ではなく、マルクスの思想的営み全体の中に『資本論』を位置づけることが『資本論』理解に必須な事柄であることが分かります。
 そのように読んでいくと、『資本論』は初期マルクスが語っていた思弁理性(vgl. KMWS, I, 731s)によって把捉される事態を扱っていること気づかされます。すなわち、私たちは感覚においては林檎を梨や苺を別の事物として知覚しますが、しかし、思弁理性によってそれらを「果実」という共通性において把捉しています。それと同様に、私たちはあの人とこの人とその人を別個な存在者として知覚しますが、その人たちを「労働者」という共通なものとして認識するのです。従って、私たちが社会の問題を何らかの仕方で理解しているという事態の前提には、或る事柄をそういうものとして認識するように私たちの自己意識を形成するもの、つまり理論があるのです。経済学とは、こうした現象をそういうものとして私たちに認識させる道具であり、理論です。この経済学を分析することで私たちの社会認識がどのようにして形成されているかを把捉することができます。従って、経済学とは私たちの社会の問題を写し出す鏡であり、その鏡を徹底的に批判することによって、社会の問題の所在を明らかにすることができるようになる。すなわち、『資本論』とは党派性によって手垢まみれにされた資本主義反対の暴言集ではなく、徹頭徹尾、理論的認識に関わる書であり、だからこそそれだけでは不十分であって、『資本論』によって明らかになった問題を具体的に克服するようにマルクスは格闘し続けたのです。このように、旧い教条的マルクス主義者の宣われるようなマルクス経済学を定立させれば事足りるなぞといった単純な問題ではないことも、マルクス自身の言葉から分かります。こうしたマルクスの『資本論』への/からの歩みを、本書は短いながらも年代順になっているために追体験しうる構成であります。
 本書のタイトルともなっている「自由の国」、周知のようにこの語はヘーゲル法哲学』に出てきますーフィヒテにも出てきますねーが、マルクス資本論』第3巻で論じられていることでお馴染みです。ただ、本書にはその箇所は掲載されていません。実際、現行のテキストはエンゲルスさんが矢鱈に単語を書き換えているためー単語レベルで自分の気に入るように書き換えるならエンゲルスさんご自身が自分で本を書きなさいよと思わなくもありませんーに、マルクス本人の言葉ではないですし、致し方ないかなと感じます(マルクスの草稿は新しいMEGA版ーMEGA, II 4.2 838sーで読むことができます。しかも当該箇所はインターネットで確認できます)。
 その箇所をあわてて読まれる向きは、自由の国は労働時間の短縮によってもたらされるものなんだな、労働時間を減らせば自由な時間が増えてそこで豊かな人間性を養えるんだな、と理解されるようですーどこぞの団体の方は「労働時間<自由時間」なる標語を掲げておられますー。ただ、これはマルクス特有の縮めた物言いで、正確には資本主義的生産様式における労働時間です。単に就業時間を減らしましょうという標語ではありません。だいたい、農業をされている方が単純に労働時間を減らせば、野菜や植物の世話ができなくなり、手間をかけられなくなります。学者にとって、学生への講義は労働ではありますがそれは同時に自分の見識を深めるためのものであり、それを減らすことは自分の学問的探求を軽薄なものにすることになります。しかし、マルクスが言っているのはそういう話ではありません。
 若きマルクスは、労働を自分たちの手に取り戻すことによって、人生の喜びを労働することによって表現することが可能となることを説いています(vgl. Karl Marx Oekonomish-Philosophische Manuskripte, kommentar von Quante, M., Suhrkamp, 2009 207s)。従って主眼は、資本主義における利潤の源泉である労働者の投入労働時間の削減であり、それを減免することは資本主義の利潤増殖過程から脱却することになります。つまり、資本主義のシステムによって人格性を剥奪された抽象的な人間行為を否定して乗り越えることにあります。
 ここから、マルクスの自由概念の方向性が明らかになります。すなわち、マルクスは、俗流プラトン主義がやるように人間の理想状態を構想してそれを超越的彼岸に定置した上でそこへと回帰することによって人間の本来的な自由を取り戻すという自由概念ではなく、現実にある人間を抑圧する苦痛を一つずつ取り除くという解放による自由概念を基盤としています。こうした自由は、未だ人間が実現しえていないものであるために、現実の問題を否定する仕方で言表される。だから、労働時間の短縮という表現になるわけです。従って、自由の国とは、現状の構造を延長させていけばやがては到来するものではなく、根本的な構造の変革を実現することでしか達成できません。自由の国と対比される必然の国は因果律の支配する世界であり、全ての事物が線形時間によって量的に把握されます。そのために、人間は抽象化されて主体性を失い、只の物件として扱われることになります。自由の国とは、その否定なのです。仮に労働時間が短縮されても、全てを量的に把握する仕方が維持されたままでは、結局は人間を物的にしか扱いえませんー例えば、減った就業時間の合間に団体活動をしたとして、それが一人一票の世界観で動かされているのであれば、その人の人格性は剥奪されたままですー。この量的把握構造それ自体の否定を前提とした概念が現状では労働時間の短縮として現象するのですが、こうしたマルクスの本意を理解する上で本書は手助けになります。 
 現実社会の自由の問題として、若い頃から一貫してマルクスは学問や出版や思想の自由を人間の可能性を発現させるための駆動因として重視しています。そうであれば、学問の自由とは、全ての人間に共通する基盤でなければなりません。しかし、最近よく耳にするそれは社会的に安定した階層である方々の属する団体についての人事であって、特殊な政治問題でしかありません。というのも、その特殊団体に属さなくとも学問には従事できます。在野であっても肩書きがなくとも学問をしている方々ーマルクスもそうでしたし、マルクスが影響を受けたスピノザも、マルクスとほぼ同時代人のキルケゴールもそうですーはたくさんおられます。そのため、団体の人事とは学問の自由にとっては周辺的な事態ですー扇動家にとっては最重要事項なのでしょうがー。それに対して、貧困や病気あるいは人種や宗教や思想などによって学習機会そのものを奪われることは学問する可能性を破壊されることであって万人に共通する学問の自由への抑圧です。あるいは、自分の気に入らない人間と懇意にしている誰かが霧消することについて祈願するような文面を綴った御仁がおられましたが、それは個人の自由な振る舞いに対する攻撃の好例です。批判したければ、政策や仮説などの公共的な言表あるいは反社会的な行為を実際に行った限られなければなりません。その人の人格や性格へと向かう批評はただの陰湿な陰口と言わざるを得ません。こうした態度こそが学問の自由を破壊するのです。確かに、学問の自由と言って、それが権力に対して定置される限りにおいては意味があるように見えます。しかし、実際は社会的に保証されて安定して暮らしている特定の人々のみに関わる自由で終わってしまっているのであれば、それはそうした特殊的自由を宣伝する団体のお偉方が「学問は家柄や血筋が高貴で金銭的に安定した上流階層のみがやればいいのであって、どんなに能力があろうとも地位も金もない連中は指を咥えて外からそれを見てればよい。あと、学のない賃金労働者は学問なんぞしなくていいから黙って執行部の書いた筋書き通りに動いてろ」と言っているように受け取られても仕方ないでしょう。そもそも、大衆の利害を代弁する団体であると自認しているならば閉鎖的な推挙によって形成される集団に大衆の権利を代表させていること自体に疑問を挟むべきですーが、そういう考察をなさらないのも思想の自由の在り方なので御勝手になさって結構かと存じますが、仮にそうであれば御自分たちを正確に「我々にとって都合の良い特権的立場を大衆よりも率先して擁護する」と御主張なさるのが宜しいかとー。こうした表面的自由にすぎない事態が本質だと撹拌することを受容してしまっている知的構造をこそ乗り越えていかなければならないということをも、本書で読むことができるマルクスの言説から学ぶことができます。

 最後に、「共産主義」という訳語についての蛇足。定着している訳語を変える必要はないですが、この語に違和感を日本人が覚えるのは致し方ないでしょう。それは、この語を政治関連以外で普段は使用しないからです。古くさくて抑圧的な人のことを「彼は封建的だな」と言ったり、健康が大事であるということを表現する際に「健康は資本です」と言ったりしますが、「共産」という語は目にしたことがありません。そのため、「共産」という字面から受ける印象のみが判断基準となります。この語について、普通は「共同で生産活動をする」以外に思い当たりません。となると、目に浮かぶ光景は多少の違いはあっても「皆が同じ服を着て同じ道具を持って同じ方向に農地を耕していて、後ろには鞭か何かを振り回す監督者がいる」という図でしょう。
 しかし、「共産制」とは「共同生産活動体制」の略語ではなく、正確には「共同で生産手段を保有すること」であり、マルクスの『資本論』第1巻の最後の章で詳述されている「社会的所有」のことを示しています(vgl, KMWS, IV, 927s)。なぜそれが重要なのかについてはマルクスの論述をお読み頂くとして、Kommunismusという語それ自体には本来そこまでの意味はありません。ドイツ語にとっては外来語であるラテン語起源のcommuneないしcommuniaを輸入した造語で、元の単語は「共同、共通、みんなのもの」といった意味でしかありません。ですから、日本語の「共産主義」という語は意味内容を説明的に訳しており、それが普段使わない語であるために逆に分かりにくくなってしまっているのです。ただ、政治団体の名称として意味内容を銘打つのは適切かなと思われます。というのも、だいたいが政治団体なんぞというものには必然的に「我々が民衆共を導いてやる」という上から目線が内包されています。押しつけがましく標語を語ること自体が一元的な中央集権の体質をまさに具現化しておられるのです。その割には…、まぁ話が横道にそれすぎました。
 共産主義を生産手段の社会的所有に限定すること自体が意味を狭めすぎです。上述したようなーいや、違います。もっと参加者が自発的にー生産活動を共同に行うのもKommunismusですし、あるいは原始キリスト教共同体の理念である「必要に応じて」分け与えられてそれを使う(『使徒行伝』4章32-35節参照)つまり消費共産社会もKommunismusです。単に、日本でのKommunismus理解がマルクスレーニン主義関係者を基軸にして浸透させたために人為的な中央政党主導の体制こそがそれであって、自然で自発的なKommunismusが語られることが皆無であるに過ぎません。各人が普通の生活から想像できる表現によって共産主義を定義した上で、「私たちのKommunismusはこれこれの点を重視する」と各々の集まりが個別に説明すればいいと思うのですが、そうした多様な共産主義の在り方は一元的で排他的で独善的で教条的な主義者の方々からは反動的やらトロツキストやらと写るのでしょう。
 このように、「マルクス=共産主義者=資本主義の悪口を言う連中」という単純図式がいかに稚拙かは本書を読めば分かります。まぁ、自らを科学的と僭する主義者の中には「資本家は利潤を極大化しようとして労働者から収奪している悪い人間だ」というこちらが恥ずかしくなる程に幼稚で浅薄な仕方で資本主義を表現されている方もいるみたいですのでー問題は資本主義というシステムそれ自体において利潤を獲得することのうちに必然的に内包される本来なら労働者に属する利益の搾取であり、それは個人の人間性が良いか悪いかではなくて資本主義においては不可避的にそうした「人が人に対して狼となる」状態に投げ込まれてしまうことです。だから資本家が良い人であろうとなかろうと資本主義は人間の破壊を孕んでいるために、倫理観や道徳心や宗教的信条といった精神論では克服できず、現実の構造をそれを成り立たせている根本において変革することなしに解決できないのですー、マルクスがやったのと同じように、今の社会を写し出す鏡である思想や学説を詳細に読み解く必要性も、本書から感じることができます。