sekiwataruの日記

Ph.D(filosofia)のソリロキア

【書評】廣松渉『青年マルクス論』平凡社1980年

 著名な哲学者による若い頃のマルクスについての論述です。手元にあるのは、平凡社刊の1980年発行の初版5刷ですので、最新版とは細かい所で差異があるかもしれませんが引用はそこからしてます、すいません。本書は詳細な資料により、若いマルクスの思想を提示してくれます。この頃のマルクスについて集中的に扱っている日本語で読める本となると、かなり少ないと思われますので貴重な著作であるとは思います。ただ、本書の問題点は、資料と資料の間のブランクを埋める作業が、「に違いない」やら「であるかもしれない」やらの表現からも明らかなように、著者の卓越した哲学的才能による力業で遂行されています。歴史家なら、こうした資料間の明瞭になっていない部分は「分からない」と表記すべきところですが、哲学者ならそうでなくとも許されるのかーまさかねー、著者の強い思い入れによって記述されています。そのため、本書は資料を提示してくれているという点においてのみ有用であって、それ以外の箇所については私たち自身で判断する必要があります。例えば、カントやフィヒテ法哲学について耳学問程度であると著者は断じていますが、カントやフィヒテをそれ自体として探求した資料が見当たらないとは言え、マルクスと関わりのあった人々との交流の中でそれに触れていたことは幾つかの研究で明らかとなっていますー例えばRockmoreの著作やGoddardによる仏訳フィヒテ『国家論講義』の「序文」ーし、その意味で、著者が断定的な物言いをする箇所ほど注意深く読まなければなりません。約言すれば、本書は若いマルクスを通じた著者自身の哲学観の開陳であるエッセイであってーその点に限ればかなり質は高いですー、研究書として扱うのは微妙という感じです。つまり、卒論の参考文献にはなりません。
 著者は、まとめの結論部分において、教科書的な図式のうちに青年マルクスの思想を押し込むことはそれを矮小化することになるので「キャッチフレーズめいた図式の提示は努めて避けることにした(341頁)」としてますが、この見方は非常に大事な問題意識であることを再確認できます。しかし、それをやるとなると実際は非常に難しい。知らず知らずの内に、著者自身の見方が研究対象の内に流れ込み、結局、自分の考えを対象に押し付けてしまうことになってしまうことが多々あるからです。かえって「青年ヘーゲル学派との関係から」やら「ルソーとの関係から」やらと問題を絞った方が、その点に関する限りにおいて、個人的思い入れを脇において対象に向かうことができるのもまた事実です。
 本書には、著者の哲学観が色濃く反映されています。従って、記述も残念ながらマルクス本人の意図を離れて著者の思い入れによって書かれています。例えば、「マルクス人間主義の立場から国民経済学を批判する(237頁)」という文です。しかし、これは事態を説明する仕方として決定的に間違っています。マルクスは『資本論』の中で、人間の労働が交換価値の抽象化の中に取り込まれることによって労働力という商品となっていることを取り上げています。この問題意識の端緒が、青年マルクスの書いた『経済学・哲学草稿』にあります。その著作の「労賃」の箇所で、マルクスは国民経済学者ビュレの言葉を引用しています、曰く「労働は一つの商品である」と。これをマルクスは、「国民経済学は労働を一つの物と見る」と評しています。確かに、「労働が商品である」と「労働力が商品である」という記述の差は、まさにコペルニクス的転回とでも言うべき認識論的なconversioがあると思いますが、それはともかく、『青年マルクス』の著者としてはこうしたマルクスの考察を、国民経済学は生きた現実の人間を物化した、そんなふうに批判しているように読み込んで幾つか傍証を挙げています。
 しかし、マルクスの記述は、国民経済学が人間を物化した、とか、国民経済学のせいで人間の労働は物となってしまった、あやつら許せんということを暴露しようとしているわけではありません。だいたい、一つの思想のせいで人間の在り方が人格から物になるなんてことは哲学者の頭の中以外では現実に起こるわけがありません。マルクスの記述をしっかり読めば分かりますが、国民経済学が人間の労働を物化したということではなく、むしろ、実際の人間の労働が物として規定されているという現実を国民経済学は映し出している、そういうことをマルクスは明らかにしているのです。学問あるいは科学Wissenschaftとは、人間の知るという行為に基づくために、人間が投げ込まれて行為する現場である現実を映す鏡になっているのです。この視点こそ、マルクスが学位論文で行っていた哲学批判以来、ずっと引きずっていた問題意識です。マルクスが経済学を批判するという作業においてやっていたことはー若いマルクスの書いた『経済学・哲学草稿』はそもそも出版するために著されたものではないので確かに曖昧な記述も見受けられますがだからと言ってそれがこの記述の価値を下げることにはなりませんー、人間の労働が抽象化されて物化される構造をそれとして明らかにすることを目指して格闘していたのであって、その過程において、古典派経済学の扱う概念を分析し、その概念が事実を把握しきれていないことを詳論して、その上で、そうした経済学派の概念を成立させる要因である現実の構造へと切り込んでいくことです。だからこそ、マルクスは経済学が無批判に胡座を書いている場である現実の批判、言い換えれば、単なる現実の映し鏡に過ぎない経済学の批判に留まらずにその経済学を成り立たせているところの現実の批判へと、経済学批判という営みを向けたのであって、ブルジョア経済学では駄目だからマルクス経済学を打ち立てようなんぞという話ではない、そこにこそ私たちがマルクスから学びうる事態が存しているのです。
 『青年マルクス論』の著者の問題点は、こうしたマルクスの営みをマルクスから読み解くよりも、エンゲルスさんの資料を証拠として提出することにあります。そういうのは、伝聞やら又聞きやらであって、証拠にはならないんじゃないのかな、と思ってしまいます。というよりも、マルクス本人が言っている話にきちんと耳を傾ければいいだけであって、その点、下手に資料をたくさん持っていることでそちらに左右される玄人とは違い、私のような素人は有利です。
 若いマルクスを「人間主義」と断定して「フォイエルバッハ主義であった若い頃から科学的社会主義者への移行」を果たしたなんぞとエンゲルスさんは仰ってますが、その解釈に乗っかるのも学問の自由が保証されている現代においては著者の自由です。ただ、そうした解釈はあくまでも解釈であり、あたかもそれが事実であるかのように記述するのは著者として読者に不親切ではないでしょうか。あるいは、エンゲルスさんの解釈によってマルクスを読み解くならば、その作業が何をもたらすのか、それはどういう意味があるのか。この記述を含めてこそ、解釈というものではないのでしょうか。こうした点から、繰り返しになりますが、本書は非常に質の高い哲学的評論ではありますが、マルクス研究としては問題が多い著作です。
 あと、Privateigentumを「私有財産」と訳すのは止めて頂きたいです。私有財産止揚Aufhebungと言われると、私が持っている本やらカップ麺やらガンプラやらが取り上げられるようなイメージですが、マルクスはそうした物財を没収するタイプの社会主義を幾度となく批判してます。マルクスの言うPrivateigentumは「私的所有」、すなわち、生産手段が私的に所有されている現実、そしてそれによって労働者が資本家の元で働かざるを得ない事態に投げ込まれていることを明示する言葉ですので。
 とはいえ、著者の哲学観が垣間見られる本書は、読書の友としては有益ですので、哲学的エッセイを読んでみたい方々に強く推薦させて頂きます。

 以下、本書での学生マルクスによる論考「キリストと信徒との合一」についての扱い方から見られる著者の『ヨハネ福音書』解釈についての蛇足。
 学生マルクスが書いた『ヨハネ福音書』第15章冒頭部分を扱った宗教科の課題論文「キリストと信徒との合一」について扱っている著作が殆どないため、以下でやや詳しく考えていきたいと思います。
 著者は、この宗教課題論文を同時期に書かれた課題論文である『職業の選択についての一青年の考察』と比較して、以下の点を指摘します。すなわち、『職業云々』においては論じられていた「『人類の福祉』という契機が完全に欠落している(33頁)」のが、宗教論文である、と。さらに、著者は「人間的自由に余地を残さぬかのごときトーンで論じていることが目につく(34頁)」と論じています。この指摘、流石だなと思わざるをえません。こうしたマルクスの記述をきちんと提示して下さった著者の慧眼には敬服する他はありません。が、問題はそこからです。
 著者は、マルクスが上記の問題を宗教論文で扱わなかったことに疑問を挟みます。その理由として、「『ヨハネ伝』第十五章の当該箇所が人類の福祉を立言するためには援用しやすい条りであることに鑑みるとき(33頁)」と仰っていますが、これを読んだときに変な声が出ました。どこをどう読めばそういう解釈になるんですか。そこで書かれているのは、キリストの名を騙る指導者に反対する者はキリストの名によって断罪して処断するという脅しの教説であり、そういう教条主義者の抑圧的な支配体制です。かのヨハネ福音書の詳細で重厚な論考を著したブルトマンは、やはり違和感があったのでしょう、これを最初は違う箇所に書かれていたのだが、何らかの理由一それを知りたいのですが言ってくれませんーがあってここに挿入されたのだとしました。しかし、問題はもっと深い。そもそも、他の箇所との記述内容の差異が大きすぎるのです。
 当該箇所では、葡萄の木と農夫の話が語られます。これ、譬えとか言われますが、譬えではないですよね。イエスの語るーそして資料から実際にイエスが語った可能性の高いー話は、基本的に私たちの目の前にある自然や日常生活を取り上げてそこから何かを引き出すことで、神的次元を超越的な彼岸に設定するのではなくて、まさに私たちの中にこそ実現しているのだということに気づかせてくれるような口調になっています。しかし、当該箇所は、教理や教義や党利党則を語りたいがために無理矢理に葡萄の木と農夫の話をでっち上げた部分で、実際に葡萄を育てる作業とはおよそ関係のない説話に仕立て上げられています。
 そんな設定の中で、2節で実を結ばない枝は切り取られると宣告されます。そして、4節では葡萄の枝が私に留まっていないなら切り取られると脅迫してきます。そういえば、『青年マルクス論』の著者は、「『ヨハネ伝』の当該箇所は、『汝等われを離るれば』という可能性を認めており(34頁)」と仰ってましたが、刑事ドラマで頻繁に言われる「止まらないと撃つぞ」というセリフを「あ、刑事さんは止まらない自由を与えてくれてるんだな」なんぞと考えた犯人を見たことはありません。これを自由の余地を与える言表だと解するのは、どういう感覚なんだろうなと不思議に思いますが、この物言いは単純に命令です。「離反するな」「反抗するな」「批判するな」、まぁそういう類いの上からの抑圧です。今で言えば、現実の世界での人々の苦痛の除去よりも党派勢力の拡大を目論んで反対意見を押さえ込む政治団体の上意下達の権力図式を支える論理が、こうした言表様式に当てはまります。そこでどれ程の美辞麗句が並べられたとしても、中央集権の独善主義である以上、自由は存在することができません。
 そして、こうした物言いこそ、当該箇所と福音書本体の考え方との差異を明らかにします。福音書本体の考え方では、イエスとは神の子であって、その神の子が現世に到来したのだから、その神的力が否応なしに実現してしまう。水が葡萄酒になるのにはじまり、様々な力ある業を介して、最後はラザロを蘇らせる場面へと至ります。そうしたヨハネ的なイエスの力に対して、人間のちっぽけな力では理解できない、人間の分際でそれを否定しえない、だからこそ「見ずして信じる者は幸い」という結論へと導かれるわけです。しかし、当該箇所では人間の意志による離反の力がイエスの思いを否定できることになってしまいます。福音書本体での弟子たちの離反は、結局はイエスを人間の分際で理解できるとした傲りであるという根拠の部分に重きをなした様で描かれますが、当該箇所は単に造反したしないというレッテル貼りが主眼です。このように、マルクスが人間的自由を描かなかったのはー当該箇所をじっくり読めば分かりますがーそこに自由なんぞというものが介在する余地はないからです。
 余談ですが、この『ヨハネ福音書』第15章から17章までを教義主義的な「編集者」による挿入であるという指摘は幾つもあります。手元にあるCullmanの概略書によれば、Wellhausen、Meyer、Richter、Becker、Dodd、Barrett等の名が挙がっています。知人によれば、Heitmuellerの注解ではこの編集者は第一ヨハネ書簡の記述と非常によく似ていることを指摘しているそうですー確かに、両者とも「愛」という語を多様して上から教義を押し付けるレトリックはそっくりです。耳障りの良い言葉を多様する輩こそその内実はどす黒い抑圧体制を強制するものであることを私たちは警戒しなければならないという教訓ですー。まぁ、今はキリスト教学も保守化して、聖書に都合の悪いことが書いている事実を無視する傾向にあるので、近年の研究動向はどうだか知りませんが。そういえば、この辺りの箇所を「イエスの司祭的祈り」とかローマ在中の某ドイツ出身の偉いさんが以前に仰ってましたが、知人によればその箇所は司祭があっち向いてラテン語で司式してた頃のカトリック教会の祈祷書に書かれているようでー「祈りは神との対話」とギリシャ教父が言ってましたがカトリック保守は対話すら自分の言葉でさせてくれないようですねー、まぁ、こうした上からの抑圧的言表はあの御方の感性に合致するのでしょうけれど。
 それはともかく、上記の先行研究を加味すれば、マルクスが自由を書けなかった理由は明らかになります。しかし、『青年マルクス論』の著者は、書かれていないことに疑念を挟みました。これは、日本の知識人に特有なキリスト教への態度が原因です。すなわち、聖書は何やら有難い御託宣が書かれたものであってそこには至る所に有意義な内実が記されている、そういう誤解を知らず知らずに持っているのです。普段、キリスト教学なんぞに興味はないわりに、そういう論述が出てきた時に何か言いたくなって非常に浅薄なキリスト教観を露呈することになる。マルクスの論考については鋭い指摘をなしえた本書の著者ですら、この程度の読みしか聖書にはなしえていない現実。その現実を突きつけられた時、私たちの知性がキリスト教学者の連中の妄語に侵食されてはいないかという反省をも同時に突きつけられているのです。知らないなら知らないにしておけば、そうした御用学者連中に取り込まれることもないのです。だから、知らないことを知らないと言う勇気こそ、抑圧と強制から離脱しうる起点となりうることをも、こうした現実から学べます。
 あと、細かい点ですが、「『合一の必然性を捉えるやいなや、…(引用者中略)…神がいかなるお方であるか、われわれはこれを探る必要はない』(33頁)」と著者はマルクスの文章を訳出してますが、いやまぁ確かに代名詞に対応する直前の名詞は「神」ですが、中学生の長文読解の授業じゃないんですから、文意を読みましょうよ、原文見たらそこは「合一の根拠がいかなるものであるか」じゃないですか、ということが気になりました。著者は神の問題が語られてるとして御自身の筆を進めてマルクスの記述は奇妙だとしていますが、そもそも訳が違いませんか、と恐る恐る付け加えさせて頂きます。マルクスがそこで言わんとしたことは、合一という教義について人間は批判的に考察することを許されていないという状況です。教義の前には人間は理性を封じ込まれる。理性は人間を人間たらしめるものであるために、そうした人間の本質的なものが奪われてしまう事態を語っているのです。この視点は、現代にも示唆的です。党利党則によって意見の一元化を強制する考え方は、人間を人間として扱わないことに繋がります。そうした思考を強く持っている組織や団体は、耳障りの良い言葉で手招きしていても必ず人格を踏みにじって来ます。理性を抑圧する力に対抗するためにも理性的な判断を絶えず確保しなければなりません。因みに、この宗教課題論文は個人的に自分で訳したから気づきましたがひょっとしたら他の著者による引用にも同様の問題があるかもしれません。
 いずれにせよ、本書は若いマルクスを扱った貴重な哲学的評論です。本格的な研究は私たちに委ねられたものとして受け止めれば、本書の魅力は尽きることがないと言えます。是非ともご一読を。